お前のための病


 なまえが部活に顔を出さなくなって七日が過ぎた。いつもなら誰も気にしない。しかし今はコンクール期間真っ最中で、作品の提出期限まで残りあと三日をきっている。誰が連絡しても、メールも電話も一切反応がない。部活どころか授業にも顔を出していないらしく、一般の生徒であれば普通親などに連絡がいくものだが、なまえはこれが普段通りということもあって先生たちも特別気に留めていないようだった。
 三ツ谷はひとり思い悩んでいた。きっと、最後に彼女と話をしたのは自分だからだ。銀行で起きたあの一件。自分が彼女の言葉につい煽られてしまったが故に、遺恨のある形での別れとなってしまった。しかし彼女を探したくとも、行く宛などまるで検討がつかなかった。部員の中になまえの家を知るものはおらず、なまえのクラス担任に尋ねても「このご時世簡単に個人情報は教えられないよ」などと冷たく突っぱねられた。じゃあテメェが責任持って見に行けやと三ツ谷はうっかりキレそうになったが、ここで印象を悪くした所でどうせ無駄なことなので、強く握りしめた手を既の所で後ろに引っ込めた。

 とにかくなまえのことが気がかりで、呑気に部活に顔を出す気にもならなかった。三ツ谷は特攻服を見に纏い、自身が所属する東京卍會の溜まり場となっている神社を訪れる。とくに意味もなくバイクを走らせ、彼女に似た背丈の女を見るたびに無駄に心臓を跳ねさせて。そんな事をしているうちに、いよいよコンクール制作の締め切り日が来てしまった。彼女の作品はもちろん未完成のまま、備品倉庫に保管されている。日に日にやるせない気持ちが募るばかりで、あの日の自分の行動、言動、全てを振り返っては嫌悪する。あの時どうして引き止めなかったのか。自分で自分がわからなくなる。

 その日。三ツ谷は荒れに荒れていた。
 普段は相手にするだけ無駄だと一蹴りする程度の不良に絡まれても、気の赴くままにボコボコに殴った。相手が鼻の骨を折り泡を吹いて失神してもなお殴り続けようとする三ツ谷の腕を、見兼ねたドラケンが掴み止める。「三ツ谷お前最近どうした、らしくねぇぞ」と咎める声すら半分聞き流して、殴りすぎて痛む手の甲を無感情に見つめる。
 人を痛めつけることに快楽を感じる性分でもない。でも、収めきれない激情を発散する手段がこれしか思いつかないのだ。コンクールの結果すらもはやどうでも良かった。頭の中に巣食う彼女の存在が今の全てであり、それ以外の物事に関心を持てずにいる。

「なあ〜ケンチン〜三ツ谷〜あっこの路地でやべーの拾ったんだけど〜」

 ピリピリとした空間には似つかわしくない、間延びした男の声が響いた。東京卍會のトップ、無敵のマイキーこと佐野万次郎。彼はその細身の体躯から考えられないような力を以ってして、今日も自身を囲んだ数十人の不良を一瞬でのしている。そんな彼の背に、腕の細さや髪の長さからして、若い女が一人担がれていた。きちんと梳かせば艶めくであろうその長い黒髪はぐしゃぐしゃに絡まり、マイキーが歩くたびに細い手足が無造作にゆらゆらと揺れている。見た感じ、気を失っているようだ。

「喋りかけても反応ねえし。なんか服にゲロついてるし。酒臭えし」
「おい、なんでそんなん拾ってくんだよ」
「女の子だし流石にほっとけねえだろー」

 がはがはと無邪気に笑うマイキーに、ドラケンが呆れたため息を吐く。そんな二人を横目で何気なく見つめていた三ツ谷は、力なく垂れた女の手首をみた瞬間、ヒュ、と呼気を止め目を見開いた。
 輪っかのようにかけられた水色の髪ゴム。一見どこにでも売っているような代物なのに、三ツ谷にははっきりとした既視感があった。

「なまえ、さん」

 彼女がミシンを使う時、万が一絡まったりしないように、髪を纏めていたそれに違いなかった。でも、どうしてこんな不良の溜まり場みたいな場所に。そんなカッコで、そんな不穏な臭いをさせて。マイキーがよっこいせ、と彼女の身体を背負いなおした瞬間、背に隠れていた顔が一瞬だけ見えた。
 それは間違いなく、みょうじなまえそのひとだった。

「ん、……この子三ツ谷の知り合い?」
「…………同じ部活の、先輩」
「え、まじか。じゃー中坊かよ」

 中坊の癖に酒飲んで潰れるとかどんだけだよ〜とマイキーが不愉快そうに溢す。それでも彼女を無碍に振り落としたりはしないから、やはりマイキーはブレないな、思う。
 でも、三ツ谷は出来る限り早く、彼女と二人きりになりたかった。十日以上も音信不通で、あんなに真面目に取り組んでいたコンクール制作も無駄にして、貴女は一体何をしていたんだと。問い詰めたい気持ちで一杯だった。しかし尋常ではない彼女の様子に、頭がうまく回らない。彼女のことを知っているのは自分だけなのに、この場で一番冷静じゃないのも自分だった。
「オーイ。起きろ」とドラケンがマイキーに担がれたままでいる彼女の背を揺らす。薄い部屋着のようなワンピースに、素足にサンダルというなんとも心許ない格好だった。マイキーが拾ってこなければ、そのまま襲われてたって文句は言えない。あまりに無防備なその姿にも、余計に苛立ちみたいな感情が募る。

「マイキー、悪いけどそのひと一旦下におろしてくれ」
「……ま、お前がそういうんなら」

 マイキーのすることに三ツ谷が口を出すのは珍しかった。お世辞にも綺麗とは言えない場所の地面に意識のない女を下ろすというのは思うところがあるようで、マイキーは若干渋ったが、女の知り合いという三ツ谷の言葉に理解を示す形で従った。打ちっぱなしのコンクリート壁に背をもたれさせ、重力に逆らうことなくぐったりと首を擡げるなまえの肩にマイキーは自身の羽織っていたそれをかける。三ツ谷はなまえの前に膝をつき、筋肉が弛緩して緩みきった身体を両手で支えながら、顔を覗きこむように近づいた。

「なまえさん、俺です。……起きてください」

 何も気持ちよく寝ているわけではない。意識を朦朧とさせているのだ。彼女から漂うアルコールの臭いは確かに異常なほど強く香って、三ツ谷も思わず顔を顰める。込み上げてくる感情を必死に抑えつけながら、低く落ち着いたトーンで彼女の名を呼び続けた。
 ドラケンとマイキーは静かに三ツ谷を見守っている。明らかに普通ではない状態の女だし、本来ならば深く関わるだけ面倒だろう。だが、三ツ谷の知り合いとなれば話は別だ。
 繰り返している内に、なまえの瞼がピクリと動く。だるそうな動きで半分ほど持ち上がってゆき、焦点の合わない瞳で三ツ谷の方を見ている。  

「…………あ、みつゃくんがいる……じゃあ、わたし、天国?」

 弱々しく枯れた声は、なまえのものとは思えなかった。

「あんた、なに言って」
「もしかして、みつゃくんもしんじゃった? あは、あ、でも、それは、やだな」
「っなまえさん、しっかりして下さい」

 支離滅裂なことを宣うなまえに、三ツ谷だけでなくドラケンとマイキーの二人も顔を見合わせた。やだ、やだ、と肩を震わせながらぐるぐると泳ぐ目は、完全にトんでしまっている。夜の繁華街を歩いていれば酔っ払ってラリった人間たちと鉢合わせることは良くあるが、たとえ多量のアルコールに侵されたとしても、おおよそ人はこんな風にはならない。

「……そいつヤベェだろ。救急車よぶか?」

 低く呟かれた声はドラケンのものだ。
 きっと今この場で一番冷静な判断を下せる人のそれに、三ツ谷も頷こうとする。三ツ谷がポケットから携帯を取り出して番号を押そうと指をかけた。その手の動きを見ていたなまえは、震える指先で三ツ谷の手首を弱く掴んだ。

「っ、やだ、よばないで、あのひとが、きて、バレたら、地獄が、きて」

 さぁ、と青褪めた顔をするなまえは、ほんの少しだけ正気取り戻したようだ。言っていることは変わらずめちゃくちゃで理解不能だが、言葉と行動がともない始めている。やめてほしい、と懇願しながら必死で三ツ谷の腕に縋り付いて、ぼろぼろと涙をこぼしている。

「…………なあ、あの人って、誰のことだよ、なまえさん」
「……あ、……あ、やだ、怖い、やだ、よばないで」
「なあ頼む。言ってよ。ぜんぶ言ってくれなきゃ、俺、あんたのこと、守れないだろ」

 三ツ谷は淡々と、昂る呼吸を抑えて言った。
 しかし表面上は隠せても、なまえの肩を掴む手に力がギリギリと入って、血の巡りが悪いはずのなまえの青白い肌がみるみる内に紅く染まっていく。やはり三ツ谷は普段の冷静さとは程遠く、ここでもやはり見兼ねたドラケンが三ツ谷の身体をなまえから離れさせた。

「……三ツ谷もうやめとけ。その子、大事なんだろ」
「ああ?! これは俺の問題だ! 知らねえ奴が口出すなよ!」
「だからお前落ち着けって。……あーとりあえずさ、その子、ウチ運ぼうや。酒飲んでラリってんなら、なんかしら店に薬あると思うし。女たちももう出勤してっから、なんとかなんだろ」

 三ツ谷とドラケンが言い合っている内に、なまえは再びマイキーの手に引き起こされて、その背に担がれていた。マイキーは何も言わなかったが、このままでは、あの三ツ谷が女に手を出しかねないと思ったのだ。
 東京卍會には何時いかなる時でも女に手を出してはならないという鉄の掟がある。このところ三ツ谷の情緒が乱れていることを密かに懸念していたマイキーは、その要因がこの女にあるということをいち早く察知し、最悪の結果にならぬよう尽力した。別に服が汚れようが背中で女が泣こうが喚こうが構わない。三ツ谷が元の三ツ谷に戻ってくれさえすれば、何だって良い。マイキーが思うのは、ただそれだけのことだ。







「アンタらの誰かあの子の彼氏?」

 下着の上に透けたスリップを身につけた女性はすぱすぱと煙草をふかしながら、三人の男を品定めでもするように見回した。マイキーとドラケンの視線が三ツ谷に集まる。三ツ谷はなるべく女性に視線を合わせないようにしながら、ぼんやりとした表情で首を横に振った。

「いや」
「んじゃ、一番親しいのがアンタ?」
「…………はい、まあ」
「…………あの子にさ、親呼ぶなって言われたんだよね?」
「……まあ。多分」

 三ツ谷は曖昧に答えた。確信はなかったが、彼女が言った「あの人」というのは恐らく、あの日銀行で話していた養父のことだと思った。だってあのまま救急車で病院に運ばれていれば、もちろん真っ先に親に連絡がいくはずだ。それを恐れたなまえは、三ツ谷にやめてほしいと縋ってきた。多少冷えた頭でその考えに至るのは、突然のことだった。
 
 ドラケンに連れられて、彼が住まいとしている渋谷のど真ん中にある風俗店に三人は訪れていた。汚物や泥に塗れてボロボロになったなまえの世話をレミという風俗嬢に任せて、三人はドラケンの部屋で誰も何も喋らずに待っていた。レミは十分ほど経ってからドラケンの部屋を訪れて、先の質問を投げた。
 三ツ谷の答えを聞いてから「ふーん」とレミは何やら考え込むように目を伏せた。煙草の煙を二、三回燻らせて、ひとつ間を置く。そのあとレミは何かを決意したように、三ツ谷に再び目を向けた。じゃあさ、と少し気まずいような口振りで、抑揚なく言葉を吐き出す。

「……あの子の親、たぶん相当ヤバいやつだから、大事ならちゃんと護ってやんないと」
「…………は、」

 三ツ谷は、レミに言われた言葉の意味がすぐには理解できず、間抜けな声を上げた。薄く細められた目は、冷淡な光を帯びている。見定めるような視線のあと、レミは煙草の煙と共に深いため息を吐いた。

「……あの子、身体中アザだらけだった。しかも普通じゃ見えないようなとこばっか。……つっても、殴られてできたようなアザじゃないからね?」

 眉を顰めて心底不愉快そうな顔をするレミに、三ツ谷の頭にはガツンと鉄パイプで殴られた時のような衝撃が走った。
 ──なんだよそれ。つまり、それは。

「あんなん、アタシらでも見ててキツイわ。正直吐きそうだった」

 同じ女性、というよりは、風俗嬢としての立場でレミはモノを言っているのだと感じた。詳しく表現しないところが、逆に生々しい。この嫌な胸騒ぎは、気の所為では無いのだと理解する。

「あんな子そのままほっといたら、いつ死んでもおかしくないと思う」

 至極当然のように呟いた。レミの目は、悲しみよりも憐れみの方が強かった。──この界隈には、同じような境遇の女性が恐らく沢山いるのだろう。それでも三ツ谷は、まさかどうしてなまえが、という思いでいっぱいだった。
 自分が知っているなまえの笑顔も喜ぶ姿も明るい声も何もかも、まるで虚像のように壊れていく。

「402号室。そこにあの子寝かせてるから」
 レミはそれだけ言い残し、呆然と立ち尽くす三ツ谷の手に無理やり鍵を握らせてから、部屋を後にした。


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