いくつもある終わりかた


「理由は」

 短く問う声は僅かな震えを帯びていた。治の手が肩に触れ、抱きしめられた時とほぼ同じ距離に身体を引き寄せられる。咄嗟に見上げたその目に浮かぶのは、動揺一色だ。治のこんな表情は滅多にみない。いつも飄々としていて隙を見せないない彼だから、そんな顔で見つめられると、決意したはずのそれが揺らいでしまう。
 でも、いまさら引き返せない。声に出してしまったものを、無かったことには出来ない。あの女の子と話をした日からずっと、わたしはこれからどうするべきかを考えていた。さっきの言葉は決して衝動で出たわけじゃない。考えて考え抜いて、やっと出た結論だ。

 惑う心を隠していたはずなのに、やっぱり治には見抜かれた。でも、あの日治の店を訪れた時点で、わたしはそうなることを期待していたんだと思う。
 治はきっと、わたしの考えに頷いてくれる。わたしの弱さも何もかも、その優しさで肯定してくれる。たとえそれが、どれほど愚かなことだったとしても。
 それだけはどうか、変わらないで欲しいと願う。ごちゃごちゃと絡まる糸を丁寧にほどいてゆくように、ゆっくりと言葉をつないだ。

「侑な、来シーズンから移籍の話がきてるんやって。……しかも海外に」
「……は?」
「……でも、今回は見送る方向らしい。海外移籍なんて、そうない話やのに」
「っちょ、待てや。そんなん、アイツなんも」

 聞いてへん。と、話を遮られた。治は唖然としている。そんな気はしていたが、やはり侑は、治にも伝えていなかったのだ。治が狼狽えるのも無理はない。だってあの侑が、こんなに大事なことをわたしたちに相談もせずに決めてしまうなんて、絶対あり得ないと思っていたから。
 いてもたってもいられず、侑のチームメイトで唯一交流のある佐久早くんに確認をとった。すると「そういう話があるのは本当らしいです」と教えてくれた。あの女の子は広報担当の子で、メディア非公開の情報等も握っているらしい。ただそれが信用に値する情報だとわかったところで、状況は何も変わらない。
 そもそも、人に聞くより侑本人に聞かなきゃいけない話だ。わたしがそれを出来なかったのには、理由がある。

「侑が移籍を断ったの、わたしのためって聞いて」

 侑本人がわたしの名前を出したのだと聞いて、そんなの絶対にあり得ない、と即座に否定した。考えられない。そんなこと決してあってはならないと、青褪めながら全力で首を横に振る。焦るわたしとは対照的に、心底冷えきった表情でいた彼女が脳裏に焼き付いている。「アンタ宮くんのこと何も知らないのね」と皮肉を込めた言葉に胸を突き刺され、気が気でなくなった。顔を歪めて嫌悪感を露わにして、わたしがいかに愚かであるかを諭すように。同じセリフがぐるぐると頭の中をループして、負の連鎖に追い込まれていく。
 ──わたしのために、侑が? あの侑がわたしとバレーを天秤にかけるなんて、そんなのは馬鹿げている。もしその時がきたら、手を離されるべきはわたしの方だと当然のように理解していた。それが、間違っていたとでもいうのだろうか。

 侑のことを何も知らない。
 だから、なにも気づけなかったのだろうか。 愛するひとの愛するもの、その道を阻む障害。そんなものに、なりたいわけがない。心を縛られているのは自分の方だと思いこみ、知らずの内に足枷になっていたかもしれないなんて。
 今まで視ていたモノが途端に虚になっていく感覚に苛まれた。わたしは今まで、侑の何を見てきたんだろう。何を信じて生きてきたんだろう。侑という存在に思い浮かべた全てのことがボロボロと脆く崩れ去り、手のひらから零れ落ちていく。これほど己の鈍さを憎んだことはない。

「……そんなんで弱腰なっとんか」
「侑のことなんも知らん言われて、なんか何もかも、わからんなって」
「ホンマにそうかなんて確証もないやろ。部外者ひとりの言葉で簡単に手放せるもんやったんか? お前にとってのアイツは」
「っちがうよ!ちがう、だって」

 怖い。それ以上の理由はない。ずっと一緒にいたのに、わたしは何も見抜けていなかった。侑がわたしに向けてきたもの全てを彼の本質だと思い込み、勝手に理解した気になって、隠された真意は何も知らず、ただひたむきな愛を向けるだけ。そんな馬鹿なわたしを、何も言わずにずっとそばに置いてくれた。その優しさに、気づかなかった。本当に赦されていたのは、わたしの方なのに。

「ぜんぶ、変わっちゃうかもしれない」

 世界が描き換えられていく。それを恐れるあまり、逆行することを望んだ。関係性を元に戻せば、また、以前のふたりに戻れるんじゃないだろうか。今みたいに恋人である必要はない。わたしが侑を想っても、わたしが侑に想われる必要はない。侑は侑のやりたいように生きてほしい。わたしのことなんかどうでも良い。考えなくていい。わたしなんか選ばなくていいから、何も悩まないでほしい。自分の思うがままでいて。それがわたしの愛した、侑そのひとだから。

 愛するひとに想われるほど怖くなるなんて、他人からしたら馬鹿げているのかもしれない。でも、わたしには自信がない。侑が想う存在に、果たしてわたしは相応しいだろうか。わたしは彼に、何を与えられるだろう。
 侑に告白をされた時も本当は同じことを考えた。綺麗な形に収まったとして、それが傷ついてしまった時。元が歪なものよりも、修復するのはずっと難しいと知っている。今を失うより、いつか壊れてしまうことを考える方がよっぽど怖い。だからずっと怯えていた。今も、これからも。

 わたしは本当の意味で、侑のことを信用出来ていないのだ。だから侑がもし、本当にわたしを想ってその心を決めたのだとしたら。そんな愛は、とても受け止められる自信がない。面と向かって本心を話すことすら出来ないわたしが、烏滸がましいにも程があるだろう。
 だからもう、与えられるものはなくていい。侑を愛するただの幼馴染のままでいる方が、わたしはきっと上手く生きられる。そう、思った。






「そんなクソみたいな理由、俺は絶対許さへん」

 無音のひと間に落とされたのは、抑揚のない声だ。
 強く握られた拳に目がいった。俯いた顔を上げた先に、大きく揺れる瞳。さきほど見えた動揺は消え失せて、その奥底で沸き立つ感情は、──何だろう。「許さない」という言葉の中に、懇願の色が見えた気がする。

「お前な、侑と本音で話したことなんて一度もないやろ。侑に嫌われへんように必死こいて振る舞って、嘘ばっかり。いっそアイツを哀れむわ」

 吐き捨てるような物言いは、わたしを責めているようだった。
 どくどくと脈打つ心臓の鼓動が、警報みたいに鳴り響く。ああ、まただ。また、何かが変わってしまう予感。ゾッとするほど空気は冷たいのに、触れられている腕はひどく熱い。

「モノみたいに扱われる方が楽か? 侑から想われるんが怖い? ほんなら俺はアイツに好き勝手されて傷つけられるお前を、こうやって一生慰めとったらええんか」
「っ、そんな、」
「侑と別れて昔みたいに元通りになる? お前、本気でそうなれると思うか? 自然に壊れるならまだしも、自分で壊したもんは絶対元には戻せへん」
「……だけど、」
「自分の知らん侑がおるんが怖くて、本心を確かめようともせん。そんな理由で、今までのことぜんぶ終わらす気でおるんかお前は」

 決して怒鳴られているわけじゃない。ただ、単調に紡がれるだけの言葉の圧力に息が詰まりそうだ。どうしてこんなに苦しいの。治のくれる言葉はいつだって、優しかったはずなのに。
 なにも言えない。言い返せない。否定なんてされたことがないから、ただ戸惑う。治まで変わってしまったら、わたしはどこへいけばいいのだろう。考えることを放棄した子どものように泣き喚いたら、いつものあなたに戻ってくれるだろうか。

 わたしの心はなにも変わらないのに、ふたりはどんどん変わっていく。それがたまらなく、怖い。

 ひゅう、ひゅう、と浅くなる呼吸。乾き切った舌。わたしはただ焦っていた。大切な世界を失いたくないがための判断が、愚か極まりないことだと突きつけられる。そしてまさに今、大事なものを失いつつある。つう、と頬をつたう涙の感覚まで曖昧になって、鈍い瞬きを繰り返す。
 パニックを引き起こしつつある私を見て、治はふ、と短く息を吐いた。脱力しきった表情で、わたしのことをひしと見つめている。泣いても慰めの言葉はない。手先が異様に冷えて呼吸の仕方も忘れそうになったとき。ずっとわたしの肩を掴んでいた治の手が、するりと緩んでいった。

「……なまえ。なんで、俺が」

 僅かに掠れた声は。
 先ほどと打って変わり、ぬるま湯みたいに優しい。
 その時ふと、外で見た治の顔が頭に浮かぶ。

「なんでこんなに、必死になるか」

 ぎり、と唇を噛む。
 緩んだ手のひらが滑り落ち、ふたりの指先が意図せず触れて、絡む。

「泣き顔、嫌いやのに。泣くまで追い詰めて。こんなこと言ったら、なまえは俺んこと怖なって、嫌になって、離れるかもしれんのに。……それでも、俺は」

 静かに告ぐ治の声は、そこでぴたりと途切れた。言いかけて、立ち止まったように思う。わたしは、それに続く言葉を考えた。考えて考えて、それでも。
 
「なんで、」

 治がくれるこの優しさは、なんなのだろう。わたしのために言葉を尽くして、必死になって。揺れる感情を抑えられなくて。一度は突き放そうとしたくせに、結局、こんなどうしようもないわたしを見捨てないでいてくれる。

「治のこと、嫌いになったりなんかしない」

 治がいてくれなかったら、わたしはとっくの昔に心折れていた。今だってそうだ。ひとりで悩んで悩みすぎてパニックになって、間違った方向へ進もうとする。そんなわたしの手を引いて、苦しんで叱ってまで引き止めてくれる。再び寄り添うための、言葉をくれる。

「離れたりなんか、するわけない」

 わたしの世界の半分。
 だから、もう何も失いたくない。

「治までおらんなったら、わたし」
「なまえ、もうええ」

 言葉を遮られる。
 治は俯き、その表情は見えなくなる。

「お前はやっぱり侑とおらなあかん。ちゃんと二人で話して、そのあともし……侑が考え変えてここを離れることになったら、そん時はお前も」
「っ、そんなん、無理や」

 遮られたものを、そのまま返した。絡められたままの手のひらを、ぎゅ、と握りしめる。
 治の肩がびくりと揺れる。力の入っていない治の指先はすっかり冷え切っていた。温もりを与えるように、開きかけた溝を埋めるように、離れないでと誓うように、指先に力を込めていく。

「治がそばにてくれな、わたし」
「なまえ」

 何度も呼ばれてきた自分の名が、まるで違った響きに聞こえた。甘く切なく、燃え上がるような熱が。声に乗せて伝わってくる。
 ふわ、と治の黒髪が揺れた。伏せられていた目と目があった瞬間、じり、と何かが焼き切れるような感覚があった。燃えて燃えて燃え尽きて。灰になって、崩れていく。

「ほんならもう、これで終いやな」

 ぐ、と腕を引かれて。また、抱きしめられるのかと思った。
 でも、少し違った。後頭部に回された手のひらが、ふたりの距離をゼロにする。
 
 それが重なったのは、ほんの一瞬だった。
 かさついたその感触は、余韻さえ残らない。

 今の今まで見えなかったもの。その正体。
 やっとわたしは理解した。
 あなたのくれた優しさは、わたしへの。


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