わたしの世界を教えてあげる


「宮くん、すごい酔っちゃって」

 酒と煙草と香水の混ざったひどいにおいだ。これは目の前に立つ女性から漂うものか、それとも玄関の扉を開けた途端、なだれ込むようにして中に入ってきた彼のものか。この二人に説明を求めるのは無駄だと即座に悟り、靴箱を背にぐったりと座り込んでしまった侑を尻目に、扉を閉めて外に出る。

 深夜一時。秋夜の冷えた風と、漂ってくるあの匂い。侑愛用のアルマーニが、彼女の身体に染み付いている。豊かな身体を見せつけるような派手な衣服も、品定めするような目つきも、腹に沸き立つ不快感を煽った。侑の家から出てきたわたしにあまり驚いた表情を見せなかったことを考えると、知っていてここまで来た可能性が高い。いわゆる宣戦布告、みたいなやつ。どうやって追い返そうと考えながら、内心ため息を吐く。この子と二人で話すの、すごく嫌だ。

「……こんなに遅い時間に、送ってもらってすみません」
「いえいえ。私がついていきたかっただけなので」

 ニッコリ。と、怖いくらい綺麗な笑みで返された。こちらが下手に出ているにもかかわらず、高圧的で自信満々な態度はもはや清々しい。まずい、一番苦手とするタイプが現れた。「彼女?だから何?」みたいな顔で、すっぴん部屋着かつ、ちんちくりんなわたしを見下している。こんな時間に家にいて、化粧も身なりもバッチリ整えている方がおかしいと思うのだが、あまりに惨めすぎて泣きそうになった。

「あの、下にタクシー、呼びますね」

 声が震えて情けない。でも、こういう対応は初めてじゃなかった。侑もあんな状態だし、流石に居座りはしないだろう。
 彼女と侑がどういう関係にあって、今日は何があったのか。話を聞くのは別にあとでいい。ここで彼女と言い合うよりも、玄関先で青褪めて蹲っているであろう侑を早くどうにかしたい。
 明日も練習があるはずなのだ。それなのに、こんな時間に前後不覚になるまで飲むなんて、侑らしくない。バレーに関しては極めて真摯な彼だ。お酒だって滅多に飲まないのに。酒に弱いことを知ってか知らずか、きっと誰かに強引に付き合わされたのだろう。侑は見栄っ張りなところがあるし、煽るようなことを言われたのかもしれない。まあ、それでも結局自業自得には変わりないので、誰のことも責められない。もちろん、侑を諭したりもしない。わたしの役割はただ、侑の酔いが覚めるまで介抱するというだけのことだ。二日酔いに効く薬とか食べ物とか色々、準備しなきゃならない。だから早く部屋に戻りたい。なのに、


「……宮くん、カワイソウ」
 

 ぼそ、と呟かれたその台詞に、眉がピクリと動いた。今、なんて言われた?侑が、可哀想? 色んな意味を考えてみたけど、やっぱりわたしに対する嫌味にしか思えない。
 こんな時間に叩き起こされて、しかもやっと帰ってきた彼氏が泥酔状態で、よりにもよって女の子連れで──そこまで言われて、さすがに言い返さずにはいられなかった。揺れる感情を抑えて極めて冷静に、声をひそめて、言葉の真意をただ問いかける。

「……かわいそうって、どういう意味ですか」
「あなたがいるせいで、宮くんが身動き取り辛いんじゃないかって話よ」

 はっきりとした口調で言われて、わたしは「へ?」と惚けてしまった。
 それはあまりにも、身に覚えのない話だ。

 言葉通りに捉えるとすると、彼女はわたしが侑を束縛しているとでも言いたいのだろうか。もし本当にそうなら、いまこの時間、家の前で彼女と対峙している事自体があり得ない話だと思う。
 過去を振り返ってみても、侑の行動にわたしが口を出したことなんてほとんどない。仮にもし「女の子のいる飲み会には行かないで欲しい」と言ったところで、侑は自分が行きたいところには行くし、気分が乗らないなら行かない。そういう男だ。
 昔から好き嫌いがハッキリしていて、遠慮というものを知らない。幼馴染だったときも、彼女という立場になってからも、わたしに対しての態度は変わらなかった。些細なことで喧嘩をしても、大抵わたしが謝れば済むからそうしてきたし、侑の交友関係ついては口出しをしないと決めてある。だから今日だって、どこで誰と居るかなんて聞いてないし知らなかった。
 それに、束縛が激しいのはどちらかといえば侑の方だ。今日わたしがここにいたのだって、侑に「来い」と言われたからだ。それを"見張り"みたいに思われたなら、とんだお門違いである。

 大方、彼女は侑との関係を匂わせたくてわたしの前に姿を現したのであろうが、それも別に効果はない。もしこれから喧嘩に発展しようものなら、仲直りも含めて全部二人きりでやる。この子の存在は、どこにも必要ない。

「侑はべつに、好きにやってると思います」

 キツイ視線も煽るような嫌味も聞き流して、いよいよ部屋に戻ってしまおうと踵を返す。これ以上彼女と話しても時間の無駄だし、心が疲れてしまうだけだ。言い逃げのような形を取って扉に手をかけたその瞬間。彼女はクス、と不敵な笑みを零した。

「そうじゃなくて、宮くんの来季の契約の話」

 その、やけに耳障りの悪い声と言葉に、ひゅ、と呼吸が止まった。



***




 いかに相手のことを理解し赦せるか。それが「愛」の最終形なのだと思っていた。

 宮侑は、言うならばわたしの世界の半分だ。 
 物心ついた時からずっとそばにいて、喜びも怒りも悲しみもすべて隠さず曝け出す侑のことを、いつのまにか好きになっていた。

 両親が共働きだったため、幼い頃はほとんどの時間を彼とその双子の兄弟である宮治と過ごした。良いことも悪いことも楽しいことも全部、わたしはふたりから教わった。なにかと暴走しがちな侑を止めようとするのは治で、小さい時はいつも侑に泣かされていた。泣いている治を慰めようとすると、侑はすぐにわたしの邪魔をして怒った。三人で遊んでいる時は普通なのに、わたしと治が二人だけで仲良くするのはどうも気に食わなかったらしい。
 治と仲良くすればするほど、侑はわたしを独占しようとする。それが、なんだかたまらなかった。侑にそうされると、どうしてかものすごく満たされた気分になる。侑の束縛は、わたしにとってひどく心地の良いものだった。

 侑のそれは歳を重ねる毎にエスカレートして、中学校に上がると双子以外の男の子と話す機会すら与えられなかった。恋人という関係性にあらずとも、わたしは侑のものになった。来いと言われれば行くし、やれと言われればやる。恋心があらぬ方向へシフトし、なんでも言いなりになるわたしという女は、侑のお気に召したようだ。
 わたしがとある男の子の名前を口に出そうものなら、侑は全力でその関係を断とうとする。時には相手と殴り合いの喧嘩になったりしたものだから、わたしも身の振り方を考えざるを得なかった。高校の時はそういった噂が広まったのか、誰もわたしに近づいてくることはなかった。
 別に、それで良かった。侑への恋心は消えなかったし、不満も一切ない。たとえ侑が他の女の子と噂になろうとも、侑のファンの女の子に虐められようとも、昔のまま侑と一緒にいられるのなら、幸せだった。

 幼い頃より随分頼もしくなった治が、そんなわたしのことをずっと見守ってくれていた。侑のことで泣いていたら、わたしの気が済むまで話を聞いて慰めてくれた。
 治はわたしたちの歪な関係性をそばで見ていながら、何も言ってこない。他人からしたら「キモチワルイ」らしいことも、気にしていないようだった。単に"見慣れている"というだけかもしれないが、そういった意味においても、わたしと侑の唯一の味方は治だった。

 治だけが、わたしたち二人のすべてをわかってくれる。侑とわたしがやっとの思いで結ばれたときも、治だけが祝福してくれた。
 
 その時から変わらず、治は優しい。
 わたしの世界のもう半分だ。

 どうしようもなく弱いわたしをいつも支えてくれる優しいひと。厳しく叱られたことなんて一度もない。治とは、喧嘩をしたこともない。迷惑だってわかっていても、つい甘えてしまう。いつもいつも、──今回のことだってそう。

 あの晩訪れた女の子から、別れ際にとある話を聞いて、涙が止まらなかった。侑に話を聞こうにも、泣きすぎて上手く伝わらない。肝心なことは一切話すことが出来ずに、具合の悪い侑を苛立たせてしまう。侑の前では泣かないと決めていたのに、交友関係には口を出さないと決めていたのに。その時ばかりは、ストッパー全てが壊れてしまった。
 どうしてあの子を連れてきたの。ここで何するつもりだったの。どうして私を呼んだの。どうして嘘つくの。そんなことばかりが口から零れ落ちて、頭がぐちゃぐちゃになった。何か言いたそうにしている侑にも構わず、感情任せな言葉ばかりをぶつけてしまう。
 さんざん泣き喚いた挙句、「会話できんならさっさと寝ろ」と冷たく言われて、わたしはたまらず家を出た。侑とは、それ以降連絡を取っていない。
 

 そんなことがあった次の日の夜、わたしはすぐに治のところに駆け込んだ。朝からずっと気分が悪くて、思い出してはまた涙が込み上げてきて、連絡をしている余裕はなかった。でも、いつもの事だからと、治はきっと受け入れてくれる。治が励ましてくれたなら、侑とだっていつもみたいに戻れると、そんな確信があった。
「助けて」って声に出さなくても、治は絶対に気付いてくれた。優しさに飢えて苦しくなった時、心を毟られるような痛みに耐えられなくなった時、足りないものを埋めてくれる。

 それを"当然"のことのように思っていた。向けられる優しさを、都合の良いように解釈していた。お互いに理解しているからこそ、今もこうして繋がっていられる。そんな風に思っていた。
 わたしの世界はこの先なにも変わらないのだと。根拠もないのに確信していた。


 そない泣くなら、アイツなんかもうやめてまえ。


 聞こえた鼓動が、全てを物語っていたのに。
 わたしはまだ、あなたの嘘に気づけない。


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