どうかいなくならないで


 何年、何十年ときつく蓋をしてきたものが、みるみるうちに溢れてゆく感覚。嫉妬に塗れた汚いモノが込み上げて、自分の内側が黒く塗りつぶされていくみたいだ。何が引き金になったのかなんてわからない。ふだんの冷静さを欠くほどに膨張した熱情が、理性の糸さえ焼き切ったのだ。

「そない泣くなら、アイツなんかもうやめてまえ」

 今まで幾度となく言い淀んだことが、こうもあっさり出てしまうなんて。

 優しさを繕えないないくらい、自分もとうとう追い詰められたということか。あまりの情けなさに唇を噛む。自分はいま、どんな顔をしているだろう。どんな顔で、その言葉を告げたのだろう。なまえを抱きしめたお陰で、顔を見られなくて済んだのは幸いだった。

 侑のことで泣くなまえを見ると、胸を抉るような痛みが増す。長い間蓄積されてきたモノたちが、一挙に暴発したのだ。なまえを傷つけたくない。これ以上、なまえを泣かせたくない。自分はこれほどになまえのことを想うのに、お前は自分を傷つける男を愛して、俺にその傷を舐めさせる。酷い女だと突き放せば楽なのに、想うからこそ突き放せない。
 昂る感情に比例して、抱き寄せる腕の力は強まっていく。びくり、となまえの肩がわずかに跳ねた。痛いのか、苦しいのか。お前の手を離せない俺はもっと苦しいのだと、その小さな身体に擦り込んでゆく。
 
 心根をついに打ち明けたなら、なまえはどんな反応をするだろうか。自分への優しさが実は下心ありきのもので、実の兄弟の女を本気で愛してしまうようなモラルのない男だと、軽蔑されるだろうか。幻滅するだろうか。そんなの冗談だよね、と笑うだろうか。
 どちらにせよ、結果は視えている。俺はなまえにとって、侑に足りないものを補完するための存在にしかなり得ない。

 物語の主役はアイツの方で、俺はその副産物にすぎない。悲観しているわけではなく、俺がそういう生き方を選んだ。

 高校でバレーを辞めると決意したときもそうだ。なまえは侑と一緒になって、必死に止めてきた。これからもずっと侑とバレーをしてる治を見ていたいとなまえに泣きつかれても、もう決めたことだと俺は決して考えを曲げなかった。なまえと言い合いになったのは、それが最初で最後だったかもしれない。
 ──ただ、思ったのだ。あの時なまえが俺に言ったこと。それはきっと、すべて侑のためだったのだろう。本人にそのつもりがなくとも、俺はそう感じていた。だから余計に意固地になったし、侑と殴り合いの喧嘩になったときは、相当本気でやり合った。死ぬほどムカついた。全部お前のことだ。なまえが考えるのは結局、全部全部全部お前のことばかり。

 なまえにとっての侑は、世界の半分だ。
 それを失えば、彼女は彼女でなくなる。

 俺が愛したのは、侑を愛したなまえだ。
 そんな不毛な愛が、いつまでも消えてくれない。


「っ……おさむ、?」

 ああ、めんどくさい。
 久しぶりに訪れたこの場所で、ノスタルジーにでも浸されたのか。それとも、いまさらなまえの涙に感化されたか。ならば都合よく、あふれる熱情も汚い嫉妬も欲望も羨望も、全て洗い流されてくれればいいのに。
 声も音もなくただ地面に落ちていくだけのそれに、なまえは気づいてしまったようだ。今の今までされるがままになっていた身体が、腕の中でもがき始める。もう捕まえておく気力すらなく、流れのままに腕を解いた。

 真っ赤に腫れた丸い目が、こちらを見仰いでいる。
 その目の中には、みたことのない顔をした俺が映り込んでいる。

「なんで、泣いて」

 一切の躊躇なくなまえの指先が伸びてきて、目元をなぞった。さっき俺がしたことを、そっくりそのまま返される。……なんやこれ。クソかっこ悪い。未練がましい上に好きな女の前で泣き顔晒すなんて、俺が他人ならドン引いている。もしこんなことを侑に知られようものなら、ためらうことなく自害する。

 なまえに顔を見られた途端、あっという間に頭が冷えてきた。というか、青褪めた。触れている手を乱暴に払ったせいで、パシ、と乾いた音が鳴る。なまえはさらに目をまん丸にした。大変に気まずい空気が流れたのち、とにかく無音に耐えられず、「あー、」と適当に声を出す。片方の手のひらで顔を覆い隠すことも忘れなかった。

「……ちゃうねん。秋風が目に染みただけや」

 いや、いくらなんでもそれはないやろ。
 そんなツッコミが頭の中で響いた。
 苦しすぎる言い訳に、なまえの反応を待つ。
 恐る恐る顔を覆っていた手を下げていくと、ふわ、と秋風に前髪をあおられた。

「……っふふ。詩人やなぁ」

 一瞬の間があって、なまえはほんのすこしだけ口元を緩めた。冗談を冗談で返してくる。なまえの前で泣くなんて餓鬼の頃以来で、本心では理由を追求したいだろうに。鈍いくせ、こういうところだけは相手の気持ちを悟れる女だ。
 ひとを気遣うが故に、思うが故に、自分の首を絞めてしまう。そういうところが、なまえと俺は少し似ている。

 気まずさはまだ少し残っている。
 ただ、俺もなまえも、もう涙は止まっていた。

「……なまえん家、ほんま久しぶりや」
「……うん。成人式のとき以来、やんな」

 とはいえ、まだ何も解決していない。とりあえずまあ、なまえが泣き止んだから良しとする。
 自分はあえて何事もなかったように装い、なまえの横をすり抜けて玄関の方へすたすたと歩いていく。一歩遅れて、なまえも動き出した。



 家主に構わず玄関の戸を開け、先に入れと顎で促す。遠慮とか緊張とかそんなのはいまさらだ。この家の勝手もよく知っている。昔は家同士が歩いて五分の距離にあったので、互いの家を行き来していた。俺と侑が成人した頃に父と母は別の家に越したので、俺にとっての慣れ親しんだ実家というものはもうなくなっている。もはやこの家が、俺と侑の実家のようなものだ。

 なまえが先に靴を脱いで家に入る。大理石の玄関は手入れが難しいらしいが、ここの家はいつも掃除が行き届いていると思う。アンティーク調のインテリアがよく映える、洒落た家だ。なまえの母がそういうのにこだわるらしい。
 子どもの頃、三人でふざけてはしゃぎまわってなまえの母のお気に入りの花瓶を割ってしまったとき、酷くシバかれたのを覚えている。侑はそれ以降ずっと「なまえんちのおかんバリ怖い」とトラウマを抱えていた。
 どうやら、今は仲良くやっているらしい。

 靴箱の上に置かれた写真立ての中に、俺と侑となまえが写っているものがあった。例の、成人式のときの写真だ。懐かしい。この時俺はまだ銀髪で、なまえの髪も明るい色をしている。
 その横に、なまえと侑が二人で写っている写真も飾られていた。見たことがないやつだ。外見の雰囲気からして、ここ最近のものだろう。侑の横で笑うなまえは、誰が見たって幸せそうな表情をしている。ああ、お似合いやな。泣いてる顔より、笑っている顔が当たり前に可愛い。

 なまえは侑の前では滅多に泣かない。侑がウザがるからだ。自分の恋人に「いちいち泣くのウザいからやめろ」なんて言われて、怒りもせず素直に従うやつはなまえくらいしかいないと思う。だから侑はなまえの笑顔ばっかり知っている。逆に俺は、なまえの泣き顔ばかり見ている。

 どちらがより幸せかなんて、他人の物差しで測れるものではない。

「侑は、よう来るんか」

 捉えようによっては惨めな台詞だ。なまえは俺の声に振り返り、その視線の先を追う。写真立てに目が向き、やや間を置いてから首の動作で肯定だけを示し、唇を引き結んだ。
 ああコイツ、また泣くかもしれん。なんとなくそう思った。なまえは足元に視線を落とし、何やら考えを巡らせている。──おそらく、どうすべきか、悩んでいるのだ。

「……なあ、それ、俺に隠す必要あるん」

 ここに外からの光は入らず、照明は点けていない。ただでさえ薄暗い玄関には、陰鬱な空気が漂っていた。奥のリビングにある立派な柱時計が、かち、こち、と静かに時を刻む。
 時間は、たっぷり用意されている。先週会った時とは全く違う空気感を醸し出すなまえから、一体どんな言葉が飛んでくるか。色んなことを想像し、考えた。

 なまえのことを理解し尽くしているなんて言ったが、所詮、俺は他人だ。なまえと侑が二人で過ごしてきた時間を知らない。二人の世界に深くは踏み込めない。写真の中で仲睦まじく笑う二人の姿に、ありありとその様子を見せつけられる。
 それでも、出来る限りは寄り添いたいと思う。侑と何かあった時、なまえが頼れるのは俺だけだから。

「……なあ、治」

 侑に無いモノを俺に求めるなまえは、心底、残酷なやつだ。それでも。

「さっき、侑んことやめてまえって、治が言ったやつ、やねんけどな、」

 それでも、君のことを愛している。
 だから。

「わたし、侑と別れようと思う」


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