隙間がないなら壊せばいい


 懐かしい匂いがする。
 なまえの実家に来るのは成人式の時以来だ。免許を取ったばかりの侑の運転でなまえを迎えに来て、この家の玄関の前で一緒に写真を撮った。朱色の振袖を纏うなまえは当たり前に綺麗で、可愛くて、二人して間抜けヅラで見惚れた。
 侑は袴を着たかったと最後の最後まで駄々を捏ねていたが、結局、なまえにスーツ姿を褒められてアホみたいにはしゃいでいた。至極単純な男である。
「ふたり身長高いしスタイルええから袴よりスーツの方が似合うと思うねん」成人式の前に、なまえがそんなことを言っていた。だから俺は袴よりスーツがいいと言ったのだ、確か。普段から主張の薄い、というか主張しすぎる侑に呑まれがちな俺の意思を汲んでくれた母親のお陰で、宮家双子の一張羅はスーツへと決まった。双子だから成人式に着る物も揃えなきゃならない。そこはどうしても譲れなかったという。それが親心ってやつかもしれない。まあ知らんけど。

 そんな記憶が頭の中に流れた。
 そうだ。ちょうどその頃から、なまえと侑は付き合い始めた。

 侑からそれを聞いた時、なんて返したかは忘れた。なまえが侑のことを好きなのは既に知っていたし、侑がなまえのことを好きなのも余裕で気づいていた。わかりやすい癖に、ひとの気持ちには鈍感すぎる奴らだ。周りはとっくに気づいていても、本人たちにはまるで自覚がない。

 告白をしたのは侑からだと聞いた。
 綺麗な形に収まるまでには本当に色々なことがあったけれど、二人はいつか結ばれるんじゃないかって、漠然とした思いみたいなのはあった。だから、心の準備は出来ていた。

 俺がなまえを好きになったのは、多分、侑よりも先だ。小さい頃は気の強い侑に押されがちで、何かあるたびになまえに慰められていた。そうやって優しくされるたび、なまえのことを好きな気持ちが大きくなっていった。
 小学生になってからは侑の扱い方にも大分慣れてきて、もう泣かされるようなことは無くなったが、逆になまえが侑に泣かされることが多くなった。それで今度は俺がなまえを慰めた。
 今にして思えば、その頃からもうなまえと俺の関係性は出来上がっていた。

 子どもの頃から蓄積された単純かつ純粋な恋心。それは消えることなく、しつこく心の底で燻っている。恋の遺灰なんて残っていても何も良いことはない。さっさと朽ちて無くなってしまえばいいと思うのに、なまえの顔を見ればすぐ、熱が呼び起こされてしまう。
 燃えてしまうのだ。焦げて薄汚れた、どうしようもない熱情が。



「おさむ、早かったなぁ」
 玄関から出てきたなまえは、普段よりも少しくだけた格好をしていた。裾広がりの緩いパンツに、お尻まで隠れるほどのオーバーニット。ぺたぺたとヒールの低いパンプスを鳴らしながらゆっるいお団子髪を首元に引っ提げて、締まりのない笑みを浮かべて俺を出迎える。

 いつも通り。では、ない。目を真っ赤に腫らして、いつもよりずっと不細工な顔だ。店で見た時よりもっと酷い気がする。昨日電話を切ったあと、しばらく泣いたのかもしれない。
 女の泣き顔に唆られる奴もいるらしいが、それは全く理解不能な感情だ。ただかわいそうで仕方がない。泣かせたやつがムカついて仕方がない。……それが自分を想ってくれての涙なら、少し違った感情もわくのだろうか。

 今まで自分が見てきたのは、苦しいだけ、痛いだけの涙だ。本当はそんなの見たくないのに、なまえはいつも自分の前でその泣き顔を曝け出す。冷たく突き離せないのは、そこに欲があるからに違いない。優しくしたいと思うのは、なまえに対する汚い欲望の表れだ。
 もし、なまえが自分のために泣くのだとしたら、それはどんな時だろうか。優しく慰めるのをやめた時か。不細工な泣きっ面だと煽った時か。それとも、俺が侑のことを裏切って──。死ぬほど焦がれてやまない、そのからだまるごとぜんぶ。食って壊してしまった時、だろうか。

 今まで"そういうの"を想像してこなかったわけじゃない。誰のものになったとしても、なまえが自分の好きな女であることに変わりはない。侑の彼女だから、余計な罪悪感が付き纏うというだけのことだ。まあ終わった後は当然、地獄のような気分を味わう羽目になるのだが。

「……クズや」
「おさむ?」
「いや、なんもない」

 奪う気はない。そう思っていても、欲が理性を食らい尽くそうとする時がある。
 なまえと侑の、俺に対する無防備さ。それを信頼と言い換えているのが妙に鼻に付く。

 侑がなまえを愛したように。
 なまえが侑を愛したように。
 俺がなまえを愛しているという可能性を、どうしてふたりは想像しないんだろう。

 遠慮もなしにお互いの愛情をひけらかし、幸せそうに笑うふたりを見て、俺が何を思うのかなんて、考えたこともないのだろう。ずっと一緒に居たくせに。ふたりはずっと見つめ合って、絡み合って、こちらの視線にはまるで気づかない。

 ふたりは全然違うと言ったが。やっぱり、ふたりは似ているのかもしれない。互いの方へ向かう真っ直ぐな気持ちを抑えられなくて、周りも全部巻き込んでるくせに、ふたりだけの世界をガッチガチに作り込み、中核には絶対触れさせない。
 入り込む隙など1ミリもない。ふたりが何で繋がっているのかが見えないから、その糸を解く手段もない。仮に結び目に手を掛けたって無駄なのだろう。じわじわと糸を焼き切るような、業火でもない限り。

「治がせっかく来てくれたのに、今日はお母さんおらんねん」

 そう言って無邪気に笑うなまえが、可愛くて憎らしい。全く意識されてないんだなとわかる。
 まあ、意識する方がおかしいか。俺たちは幼馴染で、小さい頃からずっと一緒なのだ。この家で二人きりになるのだって初めてな訳がない。何度も同じことを繰り返してきた。俺と、侑は。同じことを、この幼馴染としてきたはず、だった。

「……治? どうしたん」

 どうもしない。どうもしてはならない。
 彼女には悟られてはいけない。こんな感情の歪みは。

「いや……なんもない」
「ほんまに? なんかさっきからぼーっとして……疲れてる?」

 きゅ、と眉を寄せて、なまえが顔を覗き込んでくる。心配なんかしなくていい。むしろこっちがお前を心配して、店まで閉めて、こんなところまで来てしまったのだから。
 言い返そうとした瞬間、なまえの手が、俺の手首にぴたりと添えられた。ひやりと冷たい指先に、ぐんと何かを掴まれたような感覚。

 ああ、これはアカン。やばい。
 直感的にそう思った。

「迷惑かけて、ほんまごめんな」

 潤んだ瞳。真っ赤な鼻先。震える声。
 これは全部アイツのものだ。

 勘違いしてはいけない。ひとのものを、奪ってはいけない。そんなの餓鬼でも知ってること。

 こんなの、いつもなら何てことはない筈なのに。何故か今、心臓が痛いほどに脈打った。「    」という三文字が浮かび上がる。口にしてはならない。行動してはならない。自制心を保つことに必死で、頭が酷く痛む。

「……なに、泣いてんねん」

 彼女の頬に手を触れて、溢れた涙を拭ったとて、三秒後には皮膚の上を流れて落ちていく。なにひとつとしてこの手には残らない。ならばどうして、何のために、自分はここに立っているのだろう。またあの虚しさが胸を覆う。
 忘れたらいい。辛いなら、もう諦めればいい。決して思い通りにはならないのだから。

 彼女を慰めているのだといいながら、未練がましく縋っているのは、むしろ自分の方ではないのだろうか。大人しく理解したふりをして。心の奥底ではずっと燻っている。汚い熱情が、ユラユラと燃えている。
 ああ欲しい、欲しい、欲しくてたまらない。俺だってお前を愛しているのだと、全身全霊をかけて叫んでしまいたい。

 どうして自分にはそれが許されないのか。どうしてあの時、言っておかなかったのか。本当に泣きたいのは、こっちの方だ。

「っ、おさむ、」

 頬を滑り落ちた手は、思いのままに小さな身体を掻き抱いていた。冷たい指先なんかより、柔らかなぬくもりが欲しかった。たったそれだけの欲が、理性を殺した。


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