ぼくの明日を埋め尽くして


「なあ、そろそろ許したってや」

 侑と話したあの夜から一週間が過ぎた。
 いよいよ焦り散らかした侑に代わり、やむを得ず俺がなまえに連絡を取った。こちらとしては全くの不本意だ。知らん、とわざわざ言ってやったのに、結局こうなる。
「アカン! 一生出えへん!」と侑が泣き喚いていた割に、俺が電話をかけてからわずか数コールでなまえは呼びかけに応じた。侑は割と本気で愛想を尽かされたのかもしれない。ざまあ。

『侑、そこにおるん?』
「いや……いまは俺ひとりや」
『……気遣ってくれたんや。治はほんまに優しいなあ』

 死にかけている侑とは真逆の声がした。最後に会った時はあんなに落ち込んで泣いていたのに、なまえはすっかり元の調子を取り戻している。いや、むしろ普段よりも落ち着いているかもしれない。それが逆に、あの違和感を濃くさせる要因となった。
 通話にして正解だった。声を聞かなきゃ気づけない。

「なまえ、今どこにおんねん」
『……実家。しばらくこっちおるつもり』
「そら……えらい呑気やなあ。コッチは侑が死にかけとってめっちゃ迷惑しとんねん」
『それはごめん』

 まあ、なまえが謝ることではないが迷惑しているのは確かだ。なまえと連絡が取れないと、侑が何度も電話をかけてくる。俺にかけて一体なんになるねんと突っぱねても、お前しか頼る奴がおらへんねんからしゃーないやろとギャアギャアうるさく言い返される。あんだけ店で調子ぶっこいてたくせに、あいつほんまダサすぎやろ。
 そして先ほど、とうとう侑のチームメイトが店に来た。侑のテンションが低すぎてウザいから早くどうにかしてくれとのことだ。どいつもコイツも何で俺に言うてくんねん。

 そろそろ本当に勘弁して欲しい。そうでなくとも、二人が揉めてると知ってしまったら、放っておく事なんて出来ないのだから。気になるのは主になまえの方だが。彼女は別に頑固な性格でもなんでもない。侑が百億パー悪い喧嘩でも、いつもなまえの方が折れてやるのだ。
 ただ、七日も音信不通になるなんて初めてのことだ。侑が焦るのも無理はないのかもしれない。だからこそお前がどうにかしろよと思うのだが、連絡も取れない限りはどうしようもないのだろう。なまえの実家の連絡先なんて流石に俺も覚えちゃいない。俺がそうなのだから、侑だって覚えているはずがない。

「……なまえ、なんかあったんか」

 聞いたところでなまえが素直に言うかはわからない。店に来た時は言ってくれなかった。でも、こうなってしまった以上、聞かずにはいられなかった。
 ただのカップルの喧嘩なら、絶対こんな風に首を突っ込んだりしない。他人の恋愛に何一つ興味などない。よくある恋愛バラエティを面白がって観る人間の気が知れない。それくらい、俺にとってはどうでも良い事だ。

 ただ、片割れの彼女がなまえという女だから。世話を焼く理由はそれだけだ。今も昔もずっと変わらない。この二人のことだけはどうしても見て見ぬ振りが出来なかった。
 侑もまあ面倒くさい男だが、なまえも相当面倒くさい女だ。メンタルヘボすぎ、すぐ泣く、恐ろしく鈍感で弱っちい。誰がどう見たって侑みたいな男とは付き合えないタイプの人間だ。周りの皆がそう言った。穏やかで優しくて、包容力の塊みたいな優男が、なまえにはピッタリとハマる。
 多分、侑とは真逆の、そんな奴の方が。

 でも、なまえの横にはいつも侑がいた。そういう「ピッタリハマる」奴を、侑はなまえの周りから全部蹴散らしたのだ。とくになまえを狙ってくるやつなんかには容赦がなかった。その点については自分も同じようなところがあったが、侑は俺の比ではない。なまえのこととなると人でなしに拍車がかかっていた。それくらい強烈なことが、過去にあった。
 そもそもなまえは元から侑のことしか見てなかったのに、外に気を張り過ぎて、侑は全く気づいていなかった。恋愛面でもポンコツ野郎だ。

 侑は時々なまえのことを壊してしまうんじゃないかと思うくらい、強くて乱暴な愛を向けることがある。でも、いつもギリギリのところで踏み止まった。それが出来る男だった。だから不安はなかった。不安もなければ、その当時は侑になまえを取られて悔しいとさえ思わなかった。

 そんな愛し方には、到底敵わない。侑は本当に不器用な奴で、なまえを一番愛しているのは自分だと自覚している癖に、伝えるべき本人にそれをうまく伝えられない。ただそれ以上に、なまえは侑のことを愛していた。優しさなんていらない、傷つけられても構わない。どれだけ苦しい思いをしたって、侑のことを好きでいたい。なまえはそういう女だった。たとえ侑が別の女を選んでいたとしても、きっと追い続けていたのだろう。芯の強い愛情はどんなことがあっても折れることはない。だから侑も、ああやってつけ上がる。

 侑の何がなまえをそうしたのか。なまえの何が侑をそうしたのか。それはふたりの世界。その中核に一体何があるのか。誰も知らない。俺さえも。

 なまえが俺に向ける笑みは安息で、なまえが侑に向ける笑みは、幸せそのもの。その違いが明確にわかってしまった時、俺は自分の役割を真に理解した。

『だいじょうぶ、なんでもないよ』

 わかってしまう。ムカつくほど。
 想像できてしまう。今、なまえがどんな顔をしているのか。

 ずっとその声を聞いてきた。不安も苦痛も悲しみも楽しみも幸せも全部、お前のことなら何でも知っている。向けられてきた感情は、もしかしたら片割れよりもずっと多いのかもしれない。
 侑のことを話すときのなまえは、いつだって心を溶かしている。心の中で育んできた愛情のすべてが、侑に対して向けられている。それに気づいたのはいつだったか。忘れるくらい昔のことだ。

 もうそんな昔から、俺はなまえという女に嘘を吐き続けている。そう考えたら、急激に虚しい気持ちになった。自分がなまえに向けてきた優しさは、この先いったい何になるのか。見返りなんて要らないと思えるほど、大人になんかなれやしない。燃えるような愛情は、燃えて燃えて燃え尽きて、最期には灰になる。そして誰の手にもすくわれることなく、消えてしまうのだろう。

「……それ、俺の目みてちゃんと言えたら、信じたるわ」

 ふたりの世界を羨むだけの俺に救いがあるとすれば、ただひとつ。お前の全てを理解しているのは、この俺なのだという自信。確信。事実。なまえのつくるまやかしなど、俺には通用しない。

 電話の向こうですっかり黙り込んでしまったなまえが、ますます俺をつけ上がらせた。
隠したって無駄だ。全部わかる。声を聞いただけで、お前の嘘を見抜けてしまう。

『なんで』

 あっという間に虚勢が剥がれて、違和感の正体が落ちてくる。その嘘に気づかないフリをしていればなまえは泣かずに済んだかもしれない。

 震えを帯びた声に、つい口角が上がる。
 最低だと思う。でも、俺にはこれだけしかない。心の穴を埋める方法が、もうこれだけしか残っていないのだ。

 なまえは俺を優しいと言う。
 その優しさに、どれだけ下卑た感情が混ざっていたとして、なまえは鈍感だからわからない。俺の嘘を見抜けない。

 でもそんなの、一生わからないままでいい。

「泣くなや。電話やと慰められへん」
『……ないてない』
「嘘つくなアホ。……明日、俺そっちいくわ」
『おさむ、店、あるやん』
「どうにでもなる」

 どうにでもなる。
 お前を想ってやまないこの虚しい心以外なら。


- ナノ -