それでも君を愛しているよ


「おさむ、ほんまにごめんな」

 ひとくち欠けた梅おにぎりが、皿の上にころりと倒れている。彼女にそれを出してから、もう随分時間が経っていた。ふかふかに握ったはずのそれもすっかり冷めて硬くなってしまっただろう。
 ああ、もったいないな、と眉を顰める。

 みょうじなまえは突然やってきた。店はとっくに閉めている時間だ。表には「支度中」の立札を出している。一般の客なら入店を断っていたかもしれないが、なまえはまあ、身内といっても過言ではないし、互いに気を遣うような相手でもない。
 そうは言っても、こんな時間に連絡もなしに来るなんてのは初めてのことだ。彼女の性格からすれば電話なりラインなりしてきそうなものなのに、今日はそのどちらも無い。だから多少驚きはしたものの、その暗い表情を見る限り、ここへ来た理由については何となく察しがついた。

 扉の前でひとことふたこと話をした。中に招き入れてカウンターに座らせた瞬間、なまえは堰を切ったようにしくしくと泣き出した。それを見て、疑念が確信へと変わる。彼女がこんな風に泣く理由なんて、ひとつしか思いつかない。
 カウンター内へ入り冷蔵庫の扉を開けながら「またアイツか」と呆れを含んで問い掛ければ、ぐずぐずに濡れた声でなまえが話し始めた。



「あつむと喧嘩した」
 なまえの口からもう何度聞いたかわからない。内容はしょうもないことの方がほとんどだが、今回は多分違うのだろう。だからこそ、こんな時間にわざわざ来た。

 喧嘩の理由を聞いた。
 まあ思っていた通り、溜息しか出なかった。ただ、米を握る手に力が入り過ぎてしまうくらいには、胸糞悪い話だった。ただでさえ、自分はなまえの味方なのだ。幼い頃からずっと変わらない。アイツがこのかわいい幼馴染を容赦なく泣かせるたびに、俺は横で背を撫でながら優しく涙を拭う。ずっとそういう役割だった。二十年経った今だって、その関係は変わらない。

「なまえのせいやない」
 浮かんだ言葉の中でいちばん優しいものを選んだ。いつもと同じ。何を言えばなまえの心は晴れるのか。傷ついた心が癒せるのか。いつもそれだけを考えている。なまえのためになるのなら、嘘だっていくらでも吐く。昔も今もずっとそうしてきた。優しくしていれば、いつどんな時もなまえは自分を頼りにしてくれる。
 その判断は正しかった。現になまえは今日も真っ先に自分のところへ来た。辛いことがあったから、慰めて欲しいと縋ってきている。直接言葉にされずとも、顔を見ればすぐにわかる。なまえはここに飯を食いに来るわけじゃない。俺に、会いに来ているのだ。自惚れなんかじゃない。ずっと見てきたのだから、間違えるはずがない。
 幼い頃から誰よりも近くにいて、何度もその涙に触れて、慰めてきた。

 なまえのことは全部知ってる。
 何を求めているのかも全てわかっている。

「治はいつも、そういってくれる」
「言って欲しそうにしとるからなあ」

 ふふ、となまえが笑った。そこでようやく二度目の箸が動いた。丹精込めて握ったそれを、箸の先っぽできれいに割って、ぱくりと一口。中に詰めた梅にはまだ届かない、小さな小さな一口だ。
 なまえはゆっくりとそれを味わっていた。食事をするときの丁寧な所作が好きで、思わず見惚れてしまう。箸を握るしなやかな指。飲み込むたびに揺れる白く細い喉。つやつやと濡れた柔らかな唇。目の前にあるすべてを無遠慮に眺め、恍惚とする。

 このカウンターの中から人の食事風景を何度も見てきた。食事というのは、人間の本質のようなものが見えて面白い。欲求を満たすための行為だからだろうか。急いで口にかきこんだり、腹に入ればなんでも良いと大きな口でがっついたり。箸音ひとつ立てず、機械のように手を動かす人もいる。ただ、なまえはその内のどれでもない。
 彼女の食事風景は「美味しそう」とは程遠いのに、別の欲が掻き立てられて仕方がない。ごくり、喉が鳴りそうになったのを既の所で押し込めた。ふわふわと揺れる小さな頭をカウンター越しに見下ろしながら、はしたなく熟れて沸き立つ感情には、きつく蓋をする。

「おいしいね」

 当たり前のようにその口は言った。でも、なまえが今食べているのは、すっかり冷えて硬くなってしまったおにぎりだ。
 なまえは俺がどんな料理を出しても、一言目には必ず褒めてくる。仮にまずいものを出したって、曖昧に笑って「おいしい」と言うのだろう。そういう奴だ。気が弱く嘘が下手くそで、他人にとびきり甘い。なまえという女は昔からそうだ。ぬるま湯のように心地良い優しさで、周りの人間はどろどろに溶かされていく。俺も、アイツも。

「……梅、すきやもんな」
「うん、だいすき」
「お茶かけてお茶漬けにしてもええねんで」
「ほんまに? それめっちゃおいしそう」

 うん、うん、そうやね。
 彼女はなんでもいう通りに頷く。従順だ。ひとを疑うことなんてせずに、なんでも素直に信じ込んでしまう。自分がなまえの幼馴染でよっぽど信頼されているということを差し引いても、あまりに無防備で危なっかしい。

「熱いから、気ぃつけて食べや」
「ありがとう、治」

 おにぎりを茶碗に移し替えて、とくとくとく、と茶碗に注がれていくお茶を見ながら、なまえはこどもみたいに無邪気に笑った。さっきあれだけ泣いていたのが嘘みたいだ。でも、伏せられた瞼はひどく赤い。これは明日に持ち越すやろなあと、心の中で同情する。

「……ん! やば、めちゃ熱い」
「いま言うたやんけ」
「ふーふーしたのにまだ無理やった」
「お前猫舌やねんから、冷めるまでおとなしく待ちや」
「はぁい」

 大事そうに茶碗を包む手のひら。だらしなく伸びた語尾。ふわりと緩む頬。少し丸まった背中。ぜんぶ柔らかそうで、すぐに潰されてしまいそうだ。

「治はほんまに優しいなあ」
 沸き立つ優越感と安堵感。彼女にそれを言われるたび、胸が擽ったくなる。──好きだ。大好きだった。愛していた。心を締め付けて苦しくさせるこの感じが「幸せ」というモノなのだと信じて疑わなかった。
 なまえもきっと同じなのだと。自分となまえは全く別の人間なのに、どうしてかそう思っていた。同じ感情。ふたりの心は正しく通じ合っている。言葉にして確かめることもせずに、ずっと信じ込んでいた。それが、あまりに惨めだった。

「うまいメシ食うと元気出るやろ」

 なまえがまたふにゃりと笑う。
 そうだね、と言った。

 じゃあもっと幸せそうに笑えや。
 そんなキツイ言葉、言えるはずなかった。

 顔は笑っているはずなのに、ずっと泣いているようにしか見えなかった。どんなにうまい飯をつくったとしても、なまえの心は癒せない。自分の選んだ言葉では、なまえの涙を止められない。前からわかっていたことなのに、そうだと見せつけられて実感するたび、たまらない気持ちになる。


「おさむは、こんなに、やさしくしてくれるのに」

 震える声で切り出された言葉に、ぞくりと背が震えた。その一番好きな言葉のあとで。一体、何を言おうとしているんだ。こっちは必死で優しい言葉を選んでいるというのに。この女は、いつも、いつもいつも。言葉なんて選ばない。下手くそな嘘さえつけず、素直な感情をぶつけてくる。

「どうしてわたしは、あつむのことが好きなんだろう」

 苦しい。
 幸せとは程遠い痛みだけが残る。

 びし、と固まった表情に、なまえは気がつかない。下を向いて、また泣き出したから。その目には俺の何も見えてはいないのだ。頭の中を埋め尽くすのは、ここにいる自分の存在などではない。

 なまえの心を傷つけるのも満たすのも、いつだって自分ではない。自分と同じ血が流れている、同じ顔をしたアイツの方だ。
 あつむ、と泣くなまえのか細い声は、その存在を焦がれているようにしか聞こえない。

 わかってしまう。何を求めているのかも。
 お前のこと全部、知っているから。

「流石にそれは、俺にもわからんわ」

 どうして、なんて。
 そんなん俺が一番聞きたいわボケ。
 そう言ってやりたい。でも、絶対に言えやしない。


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