それでもわたしを愛してね
「おさむ、ほんまにごめんな」
一体何に対する謝罪なのだろう。そんな風に思いながらも、やはり己を偽ることはもう出来そうになかった。
深夜零時。あのあと結局侑の家に連れてこられた俺は、八日ぶりになまえと顔を合わせていた。侑のベッドに腰をかけていたなまえと目があった瞬間、今までに感じたことのない気まずさが胸を覆い尽くす。無言の空間に耐えられなくなったのか、ここへ連れてきた張本人は「……俺ちょお席外すわ」なんて残して外に出て行った。いやお前の家やろ、ふざけんな。とはいえ、引き止める理由も別にない。俺となまえは侑の家に取り残されて、しばらく互いに押し黙っていた。
この地獄のような沈黙を先に破ったのは、意外にもなまえの方だった。ごめんな、と告げた唇はかわいそうなくらい震えていた。今まで信じてきたものに裏切られて、それでもこうやって話をしようとする度胸はあるくせに。結局こいつはいつも泣くんだ。
やっぱり、侑のいうようになまえは心底面倒くさい女だ。そして心底、愛おしく思う。
「なまえ。俺は謝らへんで」
もう、嘘をつくことはやめたのだ。その必要が無くなったから。流石にあんなことをしておいて、俺の気持ちに気づかないはずがない。侑とも話をしたと言っていた。侑は俺の気持ちに気付いていたし、あの時起きた出来事も聞いたのだろう。
「侑と話出来たんやろ? ならもう俺と話すこと、なんもあらへんやん」
そう。問題は解決したはずだ。やっぱり俺がいてもいなくても、二人は変わらない。勝手に喧嘩して、勝手に離れてまたくっついて。それを繰り返して終わり。たしかになまえが「別れる」と口にしたのは初めてのことだけれど、結局、侑が本気でかかればなまえなど簡単に抱え込んでしまえるのだ。
なまえは俺の言葉のあと、ぐっと唇を結んで押し黙った。痛みも不安もなにもかも解消されて、だからなまえは侑の元に戻った。しかし今回、俺はその役割を果たしていない。むしろ、傷を抉った方。
だから「なまえが治に会いたがっている」という侑の言葉も、理解不能だった。わざわざ謝られる筋合いもない。侑も侑で、俺となまえを二人きりにして一体何を考えているのか。
ああ、ほらまた。ふつふつと、込み上げてくる。
「治は、その」
「侑からさっき話聞いた。お前仕事も休んだんやってな。せやのに、」
「っ、だって、治が」
俺がなんや。と言いたいところだが、先に仕掛けたのは自分の方なので、これ以上追い込むのはやめておく。現になまえは頬をひくつかせている。怯えと不安の入り混じった表情だ。俺はもう、こんな顔しかさせられない。
終わりにしようと告げたのは自分なのだから。後悔なんてして良いはずがない。
「だってわたし、なにも、知らなくて」
「……知ってたら逆にビビっとるわ」
「でもわたし、ずっと治に」
酷いこと、と。言われた瞬間、また、あの熱情がぶり返す。
やっと気づいたか。ただ、だからなんだという話だ。優しさと見せかけた愛情に、なまえは罪悪感を抱いたのだろう。だからさっきも謝ってきた。
だとしたら、これ以上なまえは何を望むのか。元の関係には戻れないと教えたはずだ。俺がいたところで、もう何も与えられない。安らぎも、優しさも、何もない。なまえを愛する俺を受け入れることは、侑に対する裏切りだ。たとえ侑自身がそれを許そうとも、その事実は変わらない。変えさせてたまるか。
「でも、治への気持ちは、何も変わらないの」
どういう意味で。それを言って、何になる。せめて嫌いになってくれたなら、俺はまだ救われたかもしれない。何をしたって気持ちが変わらないとは、つまりこの先、俺を永遠に縛り付けるということに他ならない。
やっぱり、こいつは侑と同類だ。
二人が勝手に俺を巻き込んだ。望まない俺の手を引いて、こんなところまで連れてきた。──ならばその代償は、しっかりと。頂かなければならないだろう。
「なまえ」
ぐ、と少し肩を押せば、簡単にその身体は柔らかなベッドに沈んでいく。はっと目を見開いたその隙に、無防備な唇に静かに噛み付いた。
湿りを帯びた小さな舌の感触を味わうように、無遠慮に口内を弄っていく。逃げ惑う暇も与えず、絡め取った舌と舌を擦り合わせて。なまえが抵抗をすればするほど、口づけを深くして。そんな風に、身勝手に。どうしてもなまえを侵したかった。
あの日とは違う。確かな余韻を植え付けて離れていく俺の目を、なまえは潤んだ瞳で見つめていた。瞳の奥を覗いても、もうなにも見えなかった。
「俺はもう、お前に優しくするつもりはないで」
侑がここにいてもいなくても、多分同じことをしただろう。俺にそれを赦すということは、こういうことだと思い知らせるために。
もう、誰が遠慮なんかしてやるものか。どちらも手放せないというなら、それ相応の痛みを知って然るべきだ。そんな身勝手は許されない。俺の心を縛っておきながら、そんなことは。
「わかってるよ」
傷ついた顔をして。わかったようなふりをして。家から飛び出せばすぐ外に侑がいるのだから、さっさと逃げてしまえばいいのに。
「それでも、そばにいて欲しい」
なまえは嘘をつけない女だ。だから平気で相手を傷つける。そんな女を愛してしまった俺も、侑も、傷つけられるとわかっていながら、この細く弱々しい手を放せずにいる。
自分で壊したものは、二度と元には戻らない。確かに、もう元には戻れそうにない。なまえは俺という人間を知って、俺もなまえという女を知った。いくら千切っても、離れない。離れてくれない。
「酷くてごめんなさい」
あんなに愛されているのに、どうして。俺などもう必要ないと、嘘でもいいから言ってくれれば。
「でもわたしには、どうしても治が必要なの」
引き寄せられた腕の力は弱い。
ただ、どうしても逆らえない。再び重なるそれに、またひとつ、嘘が生まれる。
「仲直りできてよかったなあ」
うん、と微笑む彼女。
その細い肩を引き寄せて、自分の腕の中に閉じ込める。
「あいつとお前がギクシャクしとると、俺もやり辛いねん」
「……うん、ごめんね」
「ええよ。連れてきてよかったわ」
すん、と首筋に鼻先を寄せる。
俺と違ってアイツは残り香なんて残さない。だから。
「なまえ」
「……ん」
「なんか、されたか」
目を見れば全部わかる。
これは俺のものなのに、アイツの余韻がこびりついている。
「治には、なにもされてない」
そうか、わかった。そう呟いて、俺はなまえの全部を剥ぎ取ってゆく。
下手くそな嘘も、揺れる感情も。全部わからないふりをして、なまえのことを愛すると決めたから。
全部欲しくてたまらないのに、その心の半分は常に別のところにある。それはもうずっと前から同じ場所にあって、どんな手を尽くしても奪えないのだと知っている。それでも、自分だけを見て欲しくて、ふらふらと別の女の香りを漂わせても、なまえが泣いて縋るのは決まってあいつの方だった。でも、その涙には自分への感情が溶けている。だから傷つけて傷つけて、それでも最後に戻ってくるのは俺の元だと確かめたくて、幾度となく同じことを繰り返す。そんなどうしようもない愛し方しかできなかった。
たとえなまえがこの先誰を愛し愛されようと、永遠に俺は手を放すつもりはない。海外移籍の話が出た時も、心は揺らがなかった。何を言っても納得しそうにない奴らに対して「彼女と年内に籍を入れるつもりだ」と。バレーと彼女を天秤にかけるなんて、そんな馬鹿げたことは考えていない。ただ、どちらも手放す気はさらさらない。俺は両方手に入れる。だからこそ、タイミングは間違えてはならない。
なまえの愛は決して偽りじゃない。それでも、なまえの心は元よりひとつじゃない。ならばどうすればなまえは自分のものでいてくれるかを考えた。考えて考え抜いて、やっぱり答えは一つしか浮かばなかった。
「侑、侑、わたし、侑だけだよ」
あいつに愛されたままでいい。だって、その半分を奪ったら、お前はお前でなくなるのだから。実家に迎えに行った時、熱に浮かされたお前は俺の顔を見た瞬間、あいつの名前を呼んだのだ。お前が傷ついた時に求めるものは、どうしたって俺じゃない。何度も思い知らされる。
その夜はなまえの声が枯れるまで、俺の名前を呼ばせた。でも、なにも満たされなかった。お前の身体に痕を残せても、どうしてもこの熱情だけは植え付けられない。お前のことをこんなにも愛しているのに、どうして心は一つになれないのか。
それは俺が、あいつの片割れだからだ。お前の求める半分にしかなり得ない。あいつの存在がある限り、お前はこれからもきっと、俺に嘘を吐き続ける。泣きながら俺の名を請うくせに、求める存在は別にもいる。
ならばその嘘を全部赦して、それでも俺は、君を愛していると言い続けよう。たとえそれが己の本心でなくとも、君が愛を誓ってくれるなら。