鬱向く明日にさようなら


 私は、嘘をつくのが下手だ。正確には、嘘をつけなくなった。原因は、はっきりしている。過去の恋人に、嘘を見破るのが得意な男がいた。私の思考、感情、行動全てを掌握して、己の意のままに操る。盲目的な恋をしていたから、彼の思い通りの女になることは、決して苦ではなかった。

 好きだよ、可愛いね、いい子だ。彼のその一言で、あっという間に夢見心地に浸る。私にとっては、お守りのような言葉だった。それが健全な恋愛かと問われれば、恐らくそうではなかったのだろう。彼の愛で雁字搦めにされて、自由意志とその他の感情を全て捨てていた。それでも、今よりずっと、幸せな顔をしていたと思う。
 かつ、かつと高いヒールの音がコンクリートを叩いている。先ほどよりも肌寒く感じるのは、横を歩いていた人間が居なくなったせいだろう。風を切るたびコートの裾が揺らめいて、身体が寒さに打ち震えていた。身も心も、すっかり冷え切ってしまっている。心の中にぽっかりと穴が空いた感覚というのは、恐らく今のような状況のことをいうのだろう。

 彼氏にこっぴどく振られた。激昂した彼に、頬を思い切り叩かれた。今もジンジンと痺れていて、みっともなく腫れている。口から血の味がした。でも、怒りはない。当然の報いだった。
「貴方からの連絡に気づかないくらい、元カレとのセックスに没頭していました」なんて、ありのままを正直に吐く女が、この世にどれほどいるだろうか。私はどうしようもない馬鹿女だったらしい。久しぶりのデートだったのに、洒落たイタリアンでのディナーの最中、包み隠さず全てを吐いた。下手な言い訳はロクな結果を生まないと知っていたから、言ってしまったほうがずっと楽だと思ったのだ。
痛みで罪が償えるならそれで良い。最低な女だと罵られて、逆に救われた気持ちでいた。結局、人間誰しも己には甘い。自分で自分を責めることには限界がある。

 他人から叱られて初めて、自分の愚かさに気づくことができる。私のために手を痛めた彼のことを思うと、目元が熱を帯びていった。恋人を失ってから、気づくものは沢山あった。自分がどれだけ大事にされていたかを思い知らされて、急速に虚しい気持ちにもなった。本当に、馬鹿なことをした。

 しかし、後悔していると言えば嘘になる。降谷零との一夜は、まさに夢のような時間だった。あの夜がなければ、私は自分の気持ちを一生理解出来なかっただろう。誰と付き合っても上手くいかなかったのは、心のどこかで、まだ降谷零に依存しているからだ。彼への愛情は重い枷に繋がれて、心の奥底で眠ったままでいる。──もう、何年も前から。
 自分を大切にしてくれる存在より、私は自分の感情を優先した。降谷零と過ごした日々を、燃え盛る恋を。愛情という鎖で繋がれた、異常なまでの執着心を。
 キスをして、セックスをして、もう全てわかった。この空洞を埋めてくれる相手は、降谷零でしかあり得ない。私は、彼しか愛せない。再会した日の夜も、明けの朝も、心と身体を降谷零に食い散らかされた。癒えることのない余韻が、熱が、昔みたいに様々な感情を殺していく。

 鼻先に落ちてきた雫に、頭が現実へと呼び戻された。冷たい空気に、刺すような雨。イルミネーションの禿げた街中に、薄暗い街灯の明かりが点々としている。冬の夜は早い。あっという間に落ちてしまった太陽が、一日の終わりを告げる。
 時刻は夜九時を回っていた。土曜日の夜だというのに、この辺りは人気がなくて、少し心細い。いつもは彼氏が送ってくれていたことをふと思い出して、勝手に寂しくなった。私って本当に最低だなと思った。

 雨脚は徐々に強くなり、傘を差さずに歩くことが難しくなっていた。ヒールが高いせいで、道路を上手く走れない。狭い路地を抜けて、大通りへと駆けていく。傘もささずに走る女に、すれ違う人々が怪訝な表情を向けてくる。
今日のために買った洋服も、綺麗に巻いた髪も、全てが台無しだ。お気に入りのパンプスが、雨を吸ってすっかり重たくなっていた。虚しくて、無性に泣きたくなる。屋根のある場所を見つけたころには、全身ずぶ濡れになっていた。ざぁ、ざぁ、と音を立ててコンクリートに打ち付ける雨水が、容赦なく足首に弾け飛ぶ。

 今夜はもう止みそうにない。雨のせいで、外気が急速に冷やされていた。これ以上濡れた身体で外にいれば、確実に風邪をひく。喫茶店の軒下に駆け込んだところまでは良かったが、運の悪いことに、クローズの看板が扉にかかっていた。中に明かりがついているから、まだ誰かが作業をしているのだろう。雨宿りをされては迷惑だと追い返される前に、タクシーを呼ぶしかない。
 すっかり濡れてしまった鞄の中から、スマートフォンを引っ張り出した。今の機種は防水機能付きなのが救いだった。誰からの通知もない画面はひどく味気なくて、なんだか暗い気持ちになる。どれもこれも、全て自分が招いた結果だ。落ち込むことだって烏滸がましい。アプリを開いて、近くを走るタクシーを検索した。土曜の夜、しかも雨が降っているからか、なかなか捕まらない。

 それから五分ほど経って、ようやくアプリが反応した。ほっと安堵したところで、目の前に影が落ちてくる。
誰かが、私の目の前に立っていた。

「こんなところで、風邪引くぞ」

 手首を掴まれた瞬間、デジャヴを感じた。今までずっと、会いたくても会えなかった人なのに。とうしてこのタイミングで現れるのか。本当に、不思議でならなかった。

「その頬、どうした」

 顔を合わせて、目を見開いた。こちらが声を上げる前にそれを指摘されて、ぱっと俯いた。こんなにみっともない姿、零には見られたくなかった。どう言い訳をするか考えたが、そんな猶予は与えられず、少し冷えた手のひらが、ぐっと頬を持ち上げた。

「彼氏か」
「……っ、ちが」
「違わない」

 言い訳も嘘も、この男の前では通用しない。低い口調で詰め寄られては、何も言い返せなかった。どうしてここにいるの。どうしてわかるの。聞きたいことは山ほどあった。でも、そのどれもが、鋭く揺らめく青い瞳に殺されて、喉の奥へと消えていく。 
 頬を数回撫でられて、どう反応をするべきか迷った。被害者面はしたくない。むしろ私は加害者だ。こんなの、受けるべき痛みを受けたに過ぎない。それでも、彼の前では真実を告げることしか出来なかった。

「彼氏に……さっき、振られて」
「そう。原因は」
「……れ、零と浮気したこと、言ったの」
「お前は嘘、つけないからな」

 私を責めるわけでも、動揺するわけでもなく、彼はただ話を聞いていた。別れた経緯も、頬を打たれた原因も、全て包み隠さず話せと言うから、その通りにした。

「全部、俺のせいだな」

 零がぽつりと言った。違う、と否定するために顔を上げて、言葉を失った。

「ごめん」

 ぞく、と背が震えた。
 細まった瞳には──愉悦が浮かんでいた。頬を撫でる手は優しいのに、まるで温かみを感じない。この時なぜか、降谷零を恐ろしいと思った。このタイミングで彼が現れたのは、本当に、ただの偶然なのだろうか。ピンチの時は、いつも来てくれるヒーロー。そんなもの、現実には存在し得ない。
 だが、今の彼がしていることは、それに限りなく近いことだ。謀られたような、ぼんやりとした不信感を抱いてしまった。彼は昔からこんな人だっただろうか。盲目的に愛していたから、気づかなかっただけなのだろうか。「普通」ではないと、まだ確信もないのに、そんなことを思ってしまう。

「とりあえず、家まで送る」
「……い、いい。タクシー呼んでるとこだから」
「だめ。車回してくる。ここにいて」
「っ、零、待って」

 零が背を向けて歩こうとする。衝動的に、腕を掴んで引き止めてしまった。零はきょとんと目を丸めていた。軒下から出ても、零が大きな傘を差していたから、身体は濡れなかった。
 ばた、ばた、と傘が雨を弾く音が響いている。引き止めたのはいいが、何を言うかは全く考えていなかった。もごもごと口籠っていると、大きな手が、私の手のひらをぎゅうと握り込んだ。

「手、冷たいな」
「あ、っ」
「一緒に行こうか」

 熱を渡されて、胸がきゅっと疼いた。青灰の瞳が優しく弧を描いて、ぐっと腰を抱かれる。雨の中でも匂い立つ、独特の香り。一度吸い込めばみるみるうちに、脳が蕩けていく感じ。ふと浮かんだ不信感などはあっという間に溶かされて、消えて、無くなっていた。
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