目を開けたまま堕ちてゆく


 白のRX7が降谷零の愛車だ。別れる前に一度だけ乗せてもらったことがある。車高は低く、あまり乗り心地が良いとは思えなかった。高いヒールをはいていると乗り込むときに背を目いっぱい曲げないといけなくて、余計にそう感じた。
 車は大通りから少し外れたコインパーキングに停められていた。こんなに派手な車を繁華街の裏に停めて、悪戯でもされていないか心配になった。助手席の扉を開けて中に乗り込むと、革張りのシートが思ったよりも冷やされていて、ぶるりと肩が震えた。

「ほら、これ使って」
「そんな、いいよ。零が寒いもん」
「そんな脚出してると、風邪ひくぞ」

 運転席に座る彼からストールを差し出された。私が躊躇していると、綺麗に折りたたまれたそれが勝手に膝の上に乗せられる。お母さんみたい、というと彼は怒るが、昔から面倒見の良い人だったのは確かだ。少し頑固なところもある。これはこうだ、と思ったら、中々意見を変えてくれない。それで何度も喧嘩したことを思い出して、少し笑えた。

「なに、どうしたの」
「なんか、おかしくて」
「可笑しい?」
「零、全然変わってないから」

 見た目も、中身も。まるで昔と変わらない。そう言えば、彼は曖昧に微笑んだ。

「変わった部分もあるよ」
「……たとえば?」
「料理が出来るようになった。しかも、かなり上手い」
「っふふ、何それ。自分でいうかな」
「食えばわかる」

 言いながら、零はガサガサとビニール袋を漁っていた。手に取ったのは、常温の水のペットボトル。ここに来る前のコンビニで彼が買ってくれたものだ。

「とりあえず飲んで」
「ん、ありがと……」

 きゅ、とキャップを外してから、手渡しされた。たったそれだけのことに嬉しくなってしまう自分がいる。なにせかっこいいから、些細な仕草にもときめいてしまう。  

「なに、今日は合コンか何か?」
「……まあ、そうだけど」
「へぇ。君もそういうの行くんだな」
「付き合いでね、たまたまだよ」

 少し食い気味に言い返してしまった。これじゃ、言い訳をしているみたいだ。別に零は彼氏でも何でもないのだから、怒られる心配もないのに。でも、なんとなく知られたくないなと思っていたから、先に聞かれてしまって少しへこんだ。

「あんまり楽しくなかったんだ」

 ふぅん、と零が薄く笑った。声のトーンが、少しだけ変わったような気がする。

「そんなに酔うってことは」

 青灰の瞳が細くなり、探るような視線が這う。まるで尋問を受けているみたいだ。

「お喋りもしたくないくらい、あの男が嫌だったんだろう」

 言い聞かせるような、ゆったりとした喋り方だった。自分の気持ちを他者に決めつけられるのは不快だ。普段なら、わかったようなことを言うな、と眉を顰めている。でも、降谷零に対してだけは違う。彼は私にとって、いい意味でも悪い意味でも、特別な人なのだ。

「いや、というか」
「もう帰る! なんて大声で言い出すくらいだし」
「き、きいてたの?」
「聞こえたんだよ」

 ハンドルの上で腕を組みながら、零が深い溜息を吐いた。

「わかりやすいよ、本当」

 ふっと目尻を和らげて、優しい声で言う。でも、違う。私がわかりやすいのではなく、彼が人一倍、ひとの心の動きに敏感なだけだ。飲みやすい温度の水も、膝上にかけられた暖かいストールも、体調が良くないことも、なんだってわかってくれる。
 降谷零は、昔からそういう男だ。だから追いかけた。彼の懐に入りたくて、そのためなら、なんだって犠牲に出来た。恋に溺れる、という字の通り、彼を愛するあまり、息もできないほど苦しい思いを沢山をした。

「零、は」
「ん?」
「相変わらず、わかりにくいね」

 何一つわからない。ひとの感情の動きに敏感なくせに、私の心を弄ぶようなことをする。自ら別れを告げた女に対して、酷い仕打ちだった。彼が私のことを気遣うたびに、胸を削られるような痛みがともなう。

 どうしてこの人は、私の彼氏じゃないんだろう。そんなことを思い始めてしまってからは、もう、感情の整理が追いつかなかった。

「……君の前では、わかりやすくいたつもりだけど」

 冷えた手を、柔らかな熱が包み込む。キャップが開いたままの水を奪い取られて、そのまま指が絡んで、手を握られた。彼にここまでされて、流石に、わからないふりが出来る女ではない。じわじわと伝わる体温が、甘やかな痺れをもたらしている。
 車の中に揺蕩う、あの独特な香りが脳をグラつかせた。好みが変わったのか、付き合っていた頃とは全く違うテイストの香水を使っているらしい。彼がもし、女の好みに合わせて纏う香水を変えるタイプの人間だったら。そう考えただけで、嫉妬に狂いそうだった。彼は私の男じゃない。それなのに、今私の頭の中を支配しているのは、醜いまでの独占欲。降谷零が、欲しい。欲しくてたまらない。

「もう、帰りたい?」

 狡い聞き方だ。明日の予定を確認するわけでもなく、私の気持ちだけを問うてくる。思考や感情、全てをわかっていて、そういうやり方をする。

「それとも」

 身体が蕩けてしまいそうなくらい甘い声が、耳元で誘惑の言葉を吐いた。狭い車内で二人きり。聞こえないふりはできない。イエスかノーを、返さねばならない。

 重ねられた手が熱い。大きな手のひらが、逃げ場を奪う。震える声で呟いた、たった二文字の言葉。それが、私の世界を狂わせた。
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