「それ、暑くないのかい?」
 色の濃い長袖のシャツで覆われた腕に肌を見せることのない手は、スティーブンがいつ見ても手袋できっちり隙間無く隠されている。布地の手袋はぴっちりとナマエの手に収まり、スティーブンは時折ナマエが窮屈そうに布を引っ張っていることに気付いていた。特段肌寒くもない、ここヘルサレムズ・ロットの気候は寧ろ最近濃霧の影響で湿気が多く、スティーブンが厭う程にはじめじめと蒸している。スティーブンですらそう思うのだから、さぞかしその布の中身は蒸し暑くなっていることだろう。気遣いのつもりで口に出した台詞は、スティーブンの意図しないところでナマエをひどく追い詰めたらしい。
「ううん、大丈夫」
 どう見ても大丈夫じゃなさそうだ。だのに平気だと繕って笑ってみせるナマエに対して、知らず知らずの内に苛立ちは降り積もっていく。間接的な問いかけすら駄目なのか?スティーブンの都合が取れて、ようやっと何の邪魔もなくデートが出来るというのに、ナマエの表情は固いままちっとも嬉しそうにしない。距離は近いのに決して触れ合おうとしない手の所為で、前よりもずっと遠くに感じた。ナマエの手に一体なにが潜んでいるのか、なにを恐れているのか気にならない訳ではない。出来ることならその不安を全て吹き飛ばしてやりたい。強く抱き締めて「大丈夫だ」と囁いてやるのだ――そうは思うのに、露骨に避ける手がスティーブンを厭っているのがわかるからどうにも境界線を踏み出せずにいる。だからか恋人同士という何よりも甘い響きを持つそれは、スティーブンを存外浮き上がらすこともなかった。思いが通じ合って柄にもなく喜んでいたのは僕の独り善がりでしかなかったのか?ナマエと付き合うからといって裏の仕事は辞めた訳ではない。クラウスにだって言えないような仕事も組織の為なら遂行するし、顔を利用してハニートラップのようなことも仕掛ける。ナマエをきっとこれから傷つけることもあるだろう。僕から見たってロクな男じゃあない。それでも君は「好き」と言ったんだ。あれは全て嘘だったというのか?ナマエ、あのときとは違っていまの君の気持ちが全く見えない。だからこんなにも苛々するのだろう――もう諦めるつもりはないと覚悟した側から、ナマエがまるで離れたがっているような態度を取るから。スティーブンが距離を詰めてみようとその手に触れようと指を動かす度、ナマエの手はスティーブンを避ける。これだけ露骨にされて気付かない方がおかしい。避けてきたのはナマエの方からだというに、ナマエはまるで避けてしまったことに、自分が打たれたようなそんな傷付いた表情を見せる。思いがけず避けられて傷付いたのはこちらの方だ。スティーブンの重い嘆息が、苛む気持ちをも一緒に吐き出した。そうして頭の中の理性をかき集める。話せないようなことはスティーブンにはいくらでもある。だからナマエに覚悟が出来るまで待つつもりだった。
 努めて、スティーブンは笑顔を作る。
「…ここらに美味しいと評判のトラットリアがあるんだ」
 そこに行こう。フラれた左手の行方を大人しくポケットにやれば、ナマエはそれにまるでほっとしたように拙く笑った。ああ、苛々する。



 この手は一体なんと呼ぶのだろう。硬く樺色をした皮膚に分厚く尖った爪、鱗模様は肘の辺りまで伸びていて、女の子どころかとてもヒトであるとは言い難い程みにくい手。手袋の中身がどんなに醜いかをスティーブンさんは知らない。こいびと、というどろどろに溶かした砂糖のような響きはわたしを一寸ばかり夢物語に浸して、先のことを忘れさせてくれたけれども、いつだって後ろをつきまとう、追いかけてくるのはヒトになり損ねた手の存在だった。季節も気温も関係なく長袖の服を纏って手袋をするわたしを、スティーブンさんが不信に思うのは当然のことなのに、追及されたくないことを悟ったのかなにも聞こうとはしない。その優しさにいっそ全て預けて甘えられれば楽だとわかっている。それ程までに恐れるなら、最初から付き合うべきでなかったということも。「ばけもの」いつだか吐き捨てられたリフレインする台詞の所為で、泡がぱちんと割れるよりもずっと早くわたしは夢から目を覚ました。浮き足立っていた気持ちも一緒にしゅるしゅると小さく終息していく。心は弾んでどこかへ飛んでいってしまいそうなのに、それに委ねることは出来なかった。手を掴もうとしたスティーブンさんのヒトの形をした指が、わたしの化け物のような指に触れそうになり、臆病なわたしの指は咄嗟に彼を腕ごと避ける。今思うと「好き」だとそう言って貰えただけで、わたしは満足するべきだったのだ。中途半端にニンゲンのフリをして、恋人同士らしくまともに手を繋ぐことも出来ないのに、わたしはなにを期待したんだろう。わたしの爪は簡単に誰かを傷つけるのだから避けるしかないのに。わかっていても自分で自分がしたことに傷ついてしまってることに、笑い出してしまいそうだった。傷ついたのはスティーブンさんの方だろう。付き合ってくれるだけでも奇跡に近いのに、それ以上を望んだのはわたしの方なのに、自分ひとり悲観的になって、まるで悲劇のヒロインのような気持ちになっているのが、浅ましくて身勝手で全く嫌になる。手袋と長袖の服で隠さなければいけないような腕を持っているのも、それを隠してずっと騙しているのも、スティーブンさんはきっといやな顔をするに決まっている。そして最後にこう言うのだ。
「ばけもの」
 白状する。わたしは彼に露見するのが恐ろしくてたまらなかった。
 触れられる筈もない。
 聡い彼なら、きっと一瞬で理解するから。



 評判だというトラットリアでの、折角の二人きりの食事だというに全く味わえなかった。理由は疾うにわかっていた。ナマエは足取り重くスティーブンの一歩後ろを歩いている。じゃり、と革靴が砂を蹴る。不意にスティーブンが振り返った。
「君は一体何を考えているんだ?」
 黄昏時も既に過ぎた暗がりの中でも、険しく表情を歪めたスティーブンの顔だけはわかった。
「…ごめんなさい」
「それは何に対してのごめん?デートなのに楽しそうに出来なかったこと?それとも僕の手を避け続けたことかい?」
 なにも言えず、ナマエが俯く。まるで、ではなくこれでは完全に八つ当たりだ。スマートに思うように出来ないことに、スティーブンは自棄になって苛々と吐き出した。
「…ああ、僕のことが嫌になった?」
「ちがっ…!」 ナマエの覚悟が出来るまで待つつもりだったというのに。
「ナマエ、君の不安は何なのか、僕に教えてくれ」
 建前で、詭弁だ。親に叱られた子のように縮こまって目を潤ませるナマエを、今こんなときですら可愛いと思ってしまう辺り、もうどうしようもない。不安の原因など本当はわかっているのに、本人に言わせようとするのだから相当意地が悪い。わかっていてもナマエの口から知りたいのだ。どうやらその不安も取り除けないような、信用のない男だと思っているみたいだからな――スティーブンが白々しくも優しくそう言うと、ナマエはそっと顔を上げて暗い面持ちのまま呟いた。
「きっと、嫌いになる」
「何故それを君が決めるんだい?」
「わたし、普通の人間じゃない…!」
 手袋の中身が外気に晒される。樺色をした燃えるように赤い皮膚に白く尖った爪、形の違わないうつくしい鱗模様は、ここからだとよく見えないが恐らく手首の先にも伸びているのだろう。手だけがこうなのだとナマエは言った。手だけがこんなにも醜く、ヒトではないのだと。醜い?一体どこを見て言っているのだろうか。スティーブンの双眸からは美しい色合いと模様の皮膚にしか見えない。
「騙して、ごめんなさい…」
 騙す?スティーブンにはちっとも心当たりがなかった。例えば彼女がライブラと敵対する組織に属していたとしたらわかるが、それならそもそも付き合ってないしまず好きにはならない。騙された覚えはなかった、少なくともスティーブンには。なのでその物言いはあまりに見当違いだ。
「気持ち悪い、ですよね。わたしでも思うもの」
「どうして?」
「だってこんなの普通の女の子には無い。わたしのこの手が傷つけるから、恋人同士のように手だって繋げないし、触れることさえ出来ないし…」
 ああ、成る程。だから避けていたのか。ナマエのそれが痛い程の優しさだと知れば、もうスティーブンが憂慮することもなかった。剥き出しの固い皮膚をそっと手に取り、やさしく握る。爪が僅かに皮膚を食い込んでちくりと手を刺激したが、スティーブンは力を緩めることをしなかった。あからさまにナマエがぎょっと目を丸くさせる。なにをしているのだ、と表情が物語っている。
「っスティーブンさん…!?」
「気持ち悪い?何処が。僕はとても綺麗だと思うよ」
 手だけが異界生物のそれだからといって何になるのだ。それよりもずっとおぞましいものなら数え切れない程見てきた――とは流石に言わなかった。まるで御伽噺に出て来るお姫様にするように、恭しくナマエの手の甲へ唇を近づけてキスを送る。確かに普通の人間にはない色や形をしているが、たったそれだけのことでナマエが勝手にひとり悩み、距離を置かれていたのだと思うと寧ろそっちの方が腹立たしくなってくる。唇に触れる人肌程に温い皮膚を感じながら顔を上げると、はくはくと口を開閉させて、信じられないとばかりに瞠目するナマエがよく見えた。
「そんなの、うそ」
「こんなことで嘘吐いても何にもならないだろう――どうしたら君は信じる?」
 もう一度キスを送る。鋭利な爪をなぞり、この愛おしさが彼女に伝わればいいと思いながら、指一本一本に軽い口づけをしていく。まるで舐るようなスティーブンのキスに、恋愛初心者のナマエの顔は見る見るうちに紅潮していき林檎みたく赤らんだ。
「だって、そんな――みんなわたしを化け物って」
「悪いが、君のことをそんな小さな物差しで計ることしか出来ない矮小な人間と一緒にしないでくれるかな?」
「スティーブン、さん」
「人間じゃなくとも、姿形が変わっていても、僕は君を好きなのは変わらないし、今だってキスをしたいと思うよ」
 もうしてるじゃないか!声にならなかった叫びは息しか吐き出さないので意味がない。先程まで指ひとつひとつに熱烈なキスを送っていたスティーブンが身を起こして顔を近づけてくるので、ナマエは無意識に後ずさった。混乱してごちゃごちゃに入り乱れている頭の中では、ひたすらに自分を卑下する言葉ばかりが浮かんでいる。
「でも…っ人前では手袋無しで歩けないし」
「うん」
 逃げようとする腕をスティーブンが捕まえる。
「手を繋ぐことも出来ないし」
「うん」
 反動で足がよろめきかけるのをスティーブンが支える。
「爪は痛いし…」
「うん」
 自然と見上げる形となったナマエの滲み始めた視界に、しょうがないなあと言わんばかりに笑うスティーブンが見える。
「それで、言いたいことはもう終わったかい?」
 ごちゃごちゃの頭の中が、急にクリアになった気がした。
「ぶっちゃけ、手段なんていくらでもあるんだ。手を繋げないなら腕を組んでもいいし、それなら違和感ないだろう?」
 逃げ出さないようになのかナマエの腕を緩く引き寄せてスティーブンはたおやかに笑った。僕は別に気にしないが、君が気になるなら手袋をしていたって構わないし、それすら人の目が気になるなら二人きりになれる場所で今度はデートしよう。つまりは代替案なんて挙げればキリがないのだ。スティーブンにはライブラがあるからナマエを一番には出来ない。もしかしたら明日にでもナマエを置いて死んでしまうかもしれない。永遠は誓えない。だけどその代わり君が憂うものは全て俺が吹き飛ばしてやろう。だから逃がしてなんかやらない。物事はシンプルに、素直な気持ちが一番だ。そうだろう?
「それで――君は俺とどうなりたい?」
「わたし…わたしは…」
「ナマエ」
 一人で思い悩むからロクなことにならないんだ。二人いるのだからこれからは二人で考えよう。後押しするような声色でスティーブンが名前を呼ぶ。いつの間にか頬をつたっていた雫がお気に入りのワンピースを濡らしても、もう気にならなかった。
「スティーブンさんと、いっしょになりた」
 強く、唇が胸板にぶつかった。一瞬頭は真っ白になりそれから漸く抱き締められたのだと理解する。存外逞しかったスティーブンの両腕がナマエの背中をぎゅうぎゅうに締め付け、頭をナマエの首筋へ擦り付けた。離されて行方を迷ったナマエの腕が、力なく降ろされるのを感じたスティーブンはやれやれとばかり息を吐き、後ろ手に己の背中へ腕を回させる。
「あっ…!」
「いいから。寧ろ背中の爪痕なら歓迎だ」
「…馬鹿」
 馬鹿だ。スティーブンさんならわたしなんかよりもっと相応しい人がいる筈なのに、わたしみたいなのを選んであまつさえそれでもいいと言う。馬鹿だけど今、ぎゅうぎゅうに寄せられた温もりと、スティーブンさんのやさしいだけの言葉に涙が溢れて止まらないわたしの方が、もっと馬鹿だ。だってもう手放せる気がしない。素直にそれを言うと「それは僕の台詞なんだけどなあ」と笑ったのが耳元からでもわかり、やっぱり好きなのだと再確認した。
「君が好きだよ」
「…」
「ナマエは?」
「…すきです」
 硬く樺色をした皮膚に分厚く尖った爪、鱗模様は肘の辺りまで伸びていて、女の子どころかとてもヒトであるとは言い難い程みにくい手。それでもスティーブンさんはいいのだと言う。化け物だと言わず、まるで希少な宝石を見たかのように目を細ませて綺麗だと言う。スティーブンさんがそう言うので、わたしは今ちょっとだけこの手を好きになれそうな気がした。

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