厄年ってやつ?わたしは心中で小首を擡げながら、重たげに且つ超スピードで落下していく植木鉢を視界から追い出すようにして瞼を降ろした。大量失血死の字面は真っ白な頭を過ぎり、鉢植えがぶつかりかける一瞬の間に、わたしが死んで厳かな雰囲気のまま葬儀を執り行う様子まで描かれていたけれど、コンクリートに叩きつけられて悲惨な悲鳴を上げて飛び散ったそれがストッキングを破けさせて剥き出しとなった脹ら脛の辺りを傷付けるだけに終わったので、わたしの命運は未だ尽きてないらしい。突然の落下物にわたしよりも通りすがりの人達がワアワアと騒ぎ立てる声をどこか遠くで耳にしながら、いやいやいやと否定を唱えるが如くかぶりを振った。冷静に客観視しているようで出来ていなかった故に、自身でも知らぬ間にかいていたぞっとするような汗がじんわりと背中を湿らせる。
 厄年ってレベルじゃない。
 二ヶ月程前からわたしは異様な程の頻度で命の危機に幾度となく晒されていた。些細な悪戯が些末では済まされないレベルまで到達するのに、それ程時間はかからなかったように思う。交通事故(未遂)だったりアパートを出て数歩目で通り魔に遭遇したり(未遂)さっきのように上からピンポイントで凶器がわたしの頭上に落ちてきたり(未遂)よくこの二ヶ月死なずに済んでるなと思った程だ。親方!空から植木鉢が!んなこと言ってる場合じゃない。ザップはお前、呪われてるんじゃねえの?とけらけら他人事だとばかり笑って揶揄ってきて、クラウスさんが滅多なことは言うべきでないという窘めのことばを掛けてきたけれども、わたしはそのザップの台詞に「そうかもしれない」というふうにすとんと腑におちたのだ。だって深く考えなくとも呪われる心当たりしかない。主にライブラとかライブラとかライブラ関連で。死相が出てそう。一度感じた不安は解消しなければと友人――言っておくが極々普通の一般人である――から紹介された、近頃ヘルサレムズ・ロットのゴシップ誌なんかで取り上げられている、なんでもよく当たるらしい異界人の占い師のところへ足を伸ばしてみれば、命の危機の有無より恋愛について言及された。まともな恋愛にならないから貴女は男に気をつけなさい。え?命?特に問題ないわ、老衰出来るぐらいには長生きするわよ。余計なお世話過ぎて泣いた。恋愛なんて生まれてこの方そんな甘酸っぱいレモンのような展開に誰かとなった覚えはないんですけど?かなり的外れだったなー所詮眉唾物だったかーあーあ、占いするお金あれば今頃冬季限定異界フルーツのタルトが十個は買えたのに。そんなことをだらだら考えながら、木枯らしの鳴く財布を片手に帰路についたのは記憶に新しい。
 決定的となったのはわたしの住むアパートに強盗目的の男が侵入してきてからだ。
 わたしだって腐ってもライブラの構成員。素人なのか、卓越されたプロとは到底思えない覚束無い手つきで部屋に押し入ってきた男を、拘束するのは至難の技ではなかった。即効でHLPDに通報してその事情聴取に三時間を費やしたので、唯一の弊害と言えば真夜中に叩き起こされた挙げ句貴重な睡眠時間をごりごり削り取られたことだろう。男は薬でも使っていたのか、錯乱した様子で頭が天国にまでトんでいたらしく、まともな受け答えが望めなかった所為で只の金目当てだというふうに処理された。しかし住居不法侵入(未遂)された側としてはそれだけでは済まない。流石にここまでわたしの身に異変が起きるのは可笑しいと、護衛目的で誰かが匿ってやるべきと提案したのはスティーブンさんだった。
「えっ!平気ですよ!今まで何だかんだ言って何とかなってますし、護衛だなんてそんな大袈裟な」
「何とかなっているのがこれから先も続くと君は思うのかい?聞けば、毎回ギリギリで回避してるじゃないか。君の能力はライブラにとって失うのは惜しいし、何より仲間としてこれ以上見過ごせないんだよ、ナマエ」
「うむ、スティーブンの言う通りだ。ナマエの身に危険が迫ったときに信頼出来る誰かがいればこちらとしても安心出来る。ナマエ、君の安全の為にもライブラの為にも護衛を受けて欲しい」
 全力でわたしを説得にかかる上司タッグに誰が勝てるというのか。誰が護衛し誰の家に匿うのかというのは、いつの間にかスティーブンさんに決まっていた。
「K・Kは家族がいるしザップは論外、チェインと少年は戦闘面に於いて不安だ。クラウスでも問題はないけど、君の性格上恐縮しまくりそうだしなあ」
 仰る通りです。理詰めでいくスティーブンさんと罪悪感が刺激されるようなクラウスさんの表情に丸め込まれ、あれよあれよと言う間にわたしは元居たアパートの荷物を最小限に纏めて、次の瞬間にはスティーブンさんのお宅のインターホンを鳴らしていた。これがライブラマジックか。それから家政婦だというヴェデッドさんに仰々しく出迎えられ、スティーブンさんがにこやかに客間――わざわざわたしの為に整えてくれたらしく申し訳なさで爆発しそう――に案内されて漸く一息つく。男の人の家に居候だなんて、とは最初思ったけれど良く考えればヴェデッドさんもいるし、スティーブンさんはいつも忙しいからすれ違ってばかりだし、何より前のアパートよりセキュリティーは格段に良いから確かに安心だ。二重の意味で。居候している間の生活費はいらないと言われてしまったが、生憎わたしはそれ程図太くなれない。どうしてもお金は受け取ってくれそうになかったので、せめてもの解決策として、この状況が落ち着いたらお邪魔にならない内に出来うる限り早くここから出て行こうと密かに決めたのだ。
 そう決意したというのに。
「外出禁止!?」
「僕がいないときはね」
 居候兼ね護衛から一ヶ月も経った頃、スティーブンさんはけろりとまるで明日は晴れだねと言わんばかりの、何でもない気軽さを持ってしてそう告げた為にわたしは一瞬反応することが出来ずにいた。
「君が僕の家に来てからそろそろひと月経つけれども、状況は良くない。護衛する僕が仕事で見れないときに他の誰かに頼むってのも限界があるし、未だ原因すらわかっていないのに君を外に出すのは得策でないからな」
「えっ、いや、でも」
「昨日ちょっと外出しただけで異界人に無理矢理引きずり込まれかけたのは誰だい?」
 それを突かれると何も言えない。ぐっと押し黙ったわたしを一瞥して、視線をまたすぐ新聞へ戻したスティーブンさんが、ぺらりと指で黒っぽい紙を捲りながら有無を言わせない声色で念を押す。
「暫くは事務所にも来なくていい。用向けがあれば連絡するから携帯は常に持ち歩いていてくれ、いいな?」
 それってわたしがライブラに所属している意味は?と問いかけた口が中途半端に開いて閉じた。言ったって聞いてくれないのはわかりきっていたから。これじゃあ次の住居探しどころか、能力を買われて折角ライブラへ加入したのにそれすら奪われるなんて。そりゃあ確かに命のが大事ってのはわかるけれども、最近は危険な目に合う頻度も減ってきてるし、ライブラにだって――寧ろあの場所こそ一番安全なところじゃないか。外出禁止なんて大袈裟過ぎる。そんな愚痴はストローの中のアイスティーと一緒に吸い込まれていった。からんと涼やかな音を立てた氷はじわじわと黄金色の液体に溶け出していく。向かい側の席で肉料理をもごもご頬張っていたザップが眉を顰めた。
「んあ?」
「ちょっと奢ってやってるんだからせめて愚痴くらい聞いてよ」
「あァ?勝手に奢ってきたのはてめえだろーが。俺は頼んでねえ」
 お前はジャイアンか?ガキ大将理論か?
「つかお前外出禁止っつうのに外出て大丈夫なのかよ」
「大丈夫大丈夫、今日はスティーブンさん遅くなるの確定してるし!それにまだ何も起こってないし」
 ヴェデッドさんにも伝わっているのか、ちょっとでも出て行く素振りを見せるとクラウスさんを彷彿させる困り顔でやんわり止められるので、スティーブンさんのいないときにこうして外に出られたのは本当に久しぶりなのだ。スティーブンさんは軟禁状態のわたしに気を使ってくれて暇つぶしにでもと本を買ってくるので、一日をそれに費やすのは容易いかもしれないけれど、わたしは分厚い本と共に閉じこもっていたい訳じゃない。圧迫された中(部屋の広さを考えれば圧迫とは無縁だけど言わば比喩だ)で自分の勤めもままならないまま、こんなのがこの先もずっと続くのだとしたら、わたしは少しずつでも行動を起こして今の状態を改善しないといけない。スティーブンさんは全く信用してくれないけれど、わたしだってライブラの端くれなので戦闘の仕方ぐらい知っている。それに今日は珍しいことに未だ何も起きていないのだ。二ヶ月前と同じように普通に外へ出て普通にランチに洒落込むことが出来た。これはある種の進歩ではないのだろうか?ちょっと気が早い気もするけどこのまま不動産屋に立ち寄ってみようかな。くるくる汗をかくグラスの中身をマドラーでかき混ぜていれば、フォーク片手にチキンを貪っていたザップがウェイトレスを呼び止めた。
「フレンチフライとナポリタンを一つ」
「ちょ、まだ食べるの!?」
「今食ってンのはお前の愚痴を聞いてやってる駄賃分な。そんでこれはお前が今日勝手に外出したことへの番頭への口止め料」
「…」
 文句あっか?あ?もし番頭にバレてもいいっつーならそれでもいいけどよォーと下卑た表情を隠しもしないザップに、やっぱり誘うんじゃなかったと一時間前のわたしを後悔した。財布からなけなしのお札が飛んでいく。結論として久々に会えた同僚は依然クズのままだった。



 幾つかのパンフレットを鞄に詰め込む。中々良い物件を見つけた所為で仲介の人と長らく話し込んでしまい、自動ドアを潜り抜けた頃にはすっかり日が落ちる寸前だった。こんな時間帯に出歩いているのも久方ぶりで、心なしか足取りも軽やかだ。何事も起こらなかったのも理由として半分以上を占めている。鼻歌でも歌ってしまいそうな気分でもう見慣れたスティーブンさんの私宅の扉を開けば、玄関先に鬼が待ち構えたとばかり佇んでいた。
「?!」
「さて、まず最初に言い訳を聞こうか」
 なんで、きょう、遅くなるって言って――わかりやすく動揺したナマエが肩に掛けていた鞄を取り落とす。開きっぱなしのファスナーから賃貸アパートのパンフレットが数冊、飛び出したのをスティーブンが見下ろして目を眇めた。
「ヴェデッドもいないし君のことが心配で早めに切り上げて来たんだよ」
 ザップと会ってきたのかい?と言いながらスティーブンは呆れたふうな表情を取り繕って、それからフローリングの縁から一歩退きナマエに上がるよう促す。いつもとは違うスティーブンの穏やかとは言えない雰囲気を、ナマエは怒っているのだと解釈した。鞄をやおら持ち上げておずおずとパンプスから爪先を引っこ抜く。ナマエより数歩前をいくスティーブンの後を何となく追いながら素朴な疑問を口にした。
「どうして…わかったんですか?」
「葉巻の匂いがしたからね」
 口止め料とは一体何だったのだろう。無駄にした八十ゼーロを頭の中で数えて泣きそうになる。気まずさから俯き気味のナマエがはっと立ち止まった頃、見たことのない部屋が視界に映っているのに内心で首を傾げた。いつの間にかスティーブンの寝室に案内されていることに気付いて息を詰める。どうしてここに?
「…ナマエ」
 ん?あれ?そう言えばザップって今日葉巻吸ってたっけ?
「スティーブンさん?」
 かちっと鍵の閉まる音が静謐な室内にやけに響いて、ナマエは自分でも無意識の内に後ずさった。後ろ手に施錠したスティーブンがゆったりとした大人の余裕を感じさせる足の運びでこちらまで近づいてくる。一歩ずつスティーブンの足先がフローリングを叩く度、ナマエは二歩後退していく。なに?なにが起きてるの?どうして鍵をかける必要が?行動の意味がわからず答えを求めるようにナマエがスティーブンの顔を見上げる。スティーブンが眉根をへにゃりと垂れ下げた。
「…どうして逃げるんだい?」
 どうしてって。どうしてだろう。問い掛ける気持ちでいたナマエはその答えを持たなかった。否、本当はどこかで気付いていたのかもしれない。それに無視をしたのは自分だ。本能からとは考えもしなかった。ライブラの副官として今まで築き上げてきたスティーブンの立場と信頼がナマエの根底にあったから、ナマエはスティーブンの問いに咽喉を詰まらせた。追われると逃げたくなる性なんでと浮かび上がった冗談は掻き消される。
「スティーブンさん、何か、ヘンですよ…あの、わたし」
 スティーブンの駄々をこねる椎児を宥めるような、そんな面持ちの奥に異様ななにかを察したナマエが、口から零れゆく衝動に任せて支離滅裂な言葉を並べ立てていく。勝手に外出してごめんなさい、もうしないので、だからもう戻っていいですか?
「何処へ?」
 客間に。それ以外の答えはあるのかと訝しんだナマエがつと下顎を上げて、それからびくりと肩を跳ねさせた。うすら寒さすら感じさせる無表情を装ったスティーブンの顔は吐息がぶつかり合う程に近い。言外に含んだナマエの謝罪の意味を、スティーブンは違ったふうに捉えたらしかった。
「自分でもちょっと急ぎ過ぎたなとは思ってるさ。でも君のことだからこうでもしないと余計な気を回して直ぐに出て行こうとするんじゃないかと思ってね。…まあ、俺の判断は正しかった訳だが」
 無駄に大きく身体が沈みゆきそうなベッドのへりに手をつく。後ろには下がれず逃げ場はない。踵がたたらを踏む。硬直するナマエから鞄を浚ったスティーブンが、でかでかと新築アパートの写真を載せているパンフレットを抜き取る。まるで自分に言い訳をするような口調でそうぼやいた後に、スティーブンはナマエに見せつけるが如く落としたパンフレットをぐしゃりと片足で踏み潰した。くしゃくしゃに皺の寄った紙の集大成をフローリングにぐっと押し付ける。
「俺に内緒であのクズに会っていたのも、あまつさえそのまま不動産屋へ足を向けていたのも――不愉快だ」
 しゅるりとネクタイを緩めて引き抜いたそれで、スティーブンはナマエの強張る両手首を縛り上げた。痛い程ではなく、しかしそれでいて決して抜け出せない程度の絶妙な力加減。結ばれた己のネクタイを見てスティーブンはゆるゆると口許を笑わせる。瞬間ひゅっと悲鳴を上げた喉を戦慄かせ、それからナマエは拘束具となったネクタイに視線を移して目を瞬かせた。理解したくないとばかりに大きな眼は揺れる。
「スティ、ブン、さ…ッ?」
「心配なんだ、君がいつか僕の知らないところへ何処かに行ってしまうんじゃないかって」
 例え気心知れたライブラのメンバーでも君が笑いかけているそいつが男だと言うだけで、こんなにもひどく心を乱される。だのにぐるぐると心の内で渦巻く激情を凍てた大人びた顔で隠して、君が横からかっ浚われていくのを只待つだけなんてそんなの真っ平ごめんなんだ。ナマエの眞白いブラウスの奥で蠢く指がうすい腹を撫でる。スティーブンのつめたい指先が人肌程の温みに触れて、いつかの新聞紙を捲っていた指はたおやかにシャツを捲り上げている。伸ばしっぱなしの髪が散らばるシーツと、可哀想に声も出せぬ程怯えきったかんばせでこちらを仰ぎ見てくるナマエを俯瞰しながら、やわい素肌をつうとなぞっていく。浅ましく触れていく指に引きつった反応を見せるナマエが愛おしい。フロントタイプのホックをぴんと意図も簡単に外してみせたスティーブンが、下着の内へ骨ばった男の手を滑り込ませた。やだ、とナマエの両脚が暴れてシーツを蹴り上げる。逃げだそうと懸命な片足を掴んだスティーブンが、その白い踝へ口付けを送った。唇の柔らかな部分からの接触に僅かな声を上げたナマエを喉奥だけでくつりと笑って、それから屈ませたスティーブンの上半身がその首筋へ顔を寄せていく。
「誰にも渡さない。ザップにもクラウスにも。愛してるんだ、ナマエ」
 わかってくれとは言わない。だからナマエ、このまま俺に捕らわれたままでいてくれ。耳朶に触れた息の、生暖かさに震えたナマエのはだけた鎖骨を唇で啄んだスティーブンが、うっそりと微笑んだ。

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