「はあ。潜入っスか」
 執務室のソファーにどっかり沈み込んだザップが気怠そうにそうぼやく。大股開いて座っている所為で、隣に座っているレオナルドが居心地悪そうに縮こまっていた。それにだって気付いている筈なのに、ザップという中身にロクなものを詰め込んでいない人間は、全く配慮しようとしないので見ていて可哀想になってくる。とうとう見かねたナマエが「レオ、こっちに座れば」とレオナルドから見て丁度向かい側のソファーのスペースを一人分開けると、有り難いと言わんばかりの眼差しを向けられ、気の抜けたように息を吐くのだから相当この先輩に苦労しているのだろう。まだライブラへ加入したばかりだというのに。それを言えば見事にブーメランが己へ突き刺さるので、ナマエは大人しく口を噤んだ。
「ああ。最近巷で噂になっている裏オークションを知っているか?」
「それって人身売買の奴っスよね」
「知っているなら話が早い」
 近頃隔離居住区の貴族(ゲットー・ヘイツ)の間でしめやかに行われているという、愛玩目的の異界生物を対象とした違法オークション――表向きはただのパーティーだが、その会場に潜入して情報を取り、状況に応じては突入という簡単な仕事さ。にこやかな調子を崩さぬままスティーブンがそう続けるので、ザップは口元をぴくりと引きつらせた。口ではそう言うがどう考えても簡単とは言えない。目だけが笑っていない何故だか機嫌の悪そうなスティーブンに、そう反発出来る程ザップは自分の命が惜しくない訳でもなかった。スティーブン私用の机を見れば溜まった書類が山を作っている。加えてスティーブンの目元にくっきり残っている隈。ザップはスティーブンの苛々の理由に気付いて、内心で間の悪い時に来ちまったと悪態を吐いた。任務では、新入りのナマエは兎も角ザップは数々の騒動の所為――ライブラ関連だけでなく異性トラブルも含まれる――で顔が知られている可能性がある為、仮面を着用するらしい。幸い「そういう」裏目的のあるパーティーなので仮面を付けたりする人は珍しくないという。
「同伴必須のパーティーだからなあ。とりあえず潜入はザップとナマエで」
「えっ」
「はァ!?」
 レオナルドの横で静かに紅茶を啜り、完全に我関せずを貫いていたナマエにとってスティーブンのそれは正に青天の霹靂の言葉だ。しかしそれよりも意外なことに、諸目をひん剥く勢いで驚いたのはザップだった。背凭れにだらりと預けていた背中を飛び上がらせて、スティーブンに向かって食ってかかる。
「いやいやスターフェイズさん、いくら何でも女装した男をエスコートするなんて嫌っスよ!それならまだ犬女の方が幾らかマシってモンで――」
 そこまで言ったところで、ザップは不自然なぐらいに沈黙した異様な雰囲気に気付き「んん?」と首を傾げた。レオナルドは疎かスティーブンまで目を丸くしてこちらを見ている。今の発言に何かあるのか?状況を理解出来ていないのはザップただ一人だ。
「…へえ。そう思ってたんだ、成る程。へえ」
 やけに低いナマエの声がザップの鼓膜を揺らす。誰しもが固まったままの状況、その声色に持ち前の察しの良さで危機感を感じ取ったザップが、ナマエの方へ振り向くと同時にナマエは片足を限界まで振り上げて――そのままザップの鳩尾を蹴り上げた。「グッ?!」呻き声を上げてその場に蹲るザップにこれ以上ない程蔑視の目を投げつけたナマエが、スティーブンの方へ軽く会釈して執務室から出て行く。この間僅か十数秒。誰も止めなかったしザップの失言にレオナルドは声すら出ない。バン!とナマエによって叩きつけられた扉が蝶番をギイギイ言わせる。
「いっ…ふ、ざけんなあのヤロォー…!」
「ふざけてんのはお前だザップ」
 まさか本気で気付いてなかったのか?半ば呆れた顔を隠そうともしないスティーブンの表情に、ザップの顰めっ面からクエスチョンマークが浮かんだ。鳩尾を渾身の力を込めて一撃入れられたのだって、ナマエが何の理由もなしにやったのだと思ったのだろうか?有り得ない。普段ナマエの穏和さを知っているレオナルドは、未だナマエが怒った訳を理解出来ていないザップに対して、久方ぶりに「馬鹿」だと心の底から思った。スティーブンが凍てついた眼差しを惜しげもなくザップへ向ける。
「ナマエは歴とした女性だよ。お前がわかっていなかっただけで皆知っている。というか普通、見ればわかるだろう?」
 敢えてレオナルドが言わずに置いた「馬鹿」を表情であからさまに表現したスティーブンが、どうしようもないと言いたげに頭を抱えた。レオナルドも全く同意見だったが、それはザップの叫びに遮られる。
「は…ハアアアアアア!?」
 先程よりか数倍目を剥いたザップ――そんなことある訳ないけどその内目玉が取れそうだ――が今日一番の絶叫を見せた。これは本当に本気でわかっていなかったらしい。レオナルドさえナマエのことを「ちょっとボーイッシュな女性」というふうに捉えていたというに、レオナルドより経験豊富を謳っているザップがこれでは、少し認識を改める必要があるかもしれない。ナマエの方はナマエの方で、別段女の子らしい格好をしていた訳ではないが心は性別に沿っている。ザップの冗談とも取れない(というか本気だった)物言いに、きっと傷付いている筈だ。というかあんな発言されて傷つかなかったらタフ過ぎて逆に怖い。スティーブンがナマエにも配る筈だった件についての資料をぺらりと捲り、険しい顔でピッと指をザップへ突きつけた。隈の所為で迫力も剣呑さが増している。恐らく気のせいではない。ザップのトンデモな勘違いの所為で厄介事が増えたからだろう。
「とりあえずお前は謝ってこい。謝って何とか彼女にパーティーのパートナーを承諾させるんだ。いいな?」
「ま、待って下さいよスターフェイズさん!アイツが女?あんな男みてえな格好して男口調のアイツが?!つーかッ同伴だったら何もアイツじゃなくたって!」
「生憎K・Kとチェインは今回サポート役だ。まあ、ザップ、お前がどうしてもパートナーを“女装した男”にしたいって言うんなら別だが――そうだなあ。少年ならザップより背も低いし線も細いから、何とかなるだろう。それでも俺は、全然、構わないんだがな?」
 誰がどう聞いても構いますと言うような口調だった。当のレオナルドと言えば矛先を突如こちらに向けられて、口をあんぐり開いて絶句している。いやいやいやちょっとスティーブンさん!僕が!僕が構いますって!仕事とは言えど、女装する可能性が浮上してきて思わぬ危機に顔に焦燥を滲ませる。勢いよく頭をブンブン左右に振るレオナルドのことなど総無視したスティーブンが、どうする?と言わんばかりにザップの方を一瞥した。
「…〜だああッ!わかりました!わかりましたよ!アイツに謝ればいいんスよね!?」
「謝って終わりにさせるなよ。ちゃんとパートナーに誘うんだ、お前が」
 仕事に支障を来すような真似をしたらわかっているな?据わった目に色々な意図を含ませたスティーブンに、ザップは開けっ広げに嫌そうな顔をしながらも、それから苛立たし気に無駄に長い足を伸ばして執務室を出て行った。今頃ザップはナマエが籠もっているであろう自室に向かっている筈。思いがけなく女装危機を回避出来たレオナルドが、資料に目を戻したスティーブンへ向き直す。
「だ、大丈夫ですかね…?」
 正直なところ不安しか感じない。脳に削りカスしか詰め込んでないようなザップが、ちゃんとフォローなんか出来るとは思えない。そもそもフォロー出来るレベルなのかアレは。へにゃりと眉を下げるレオナルドに、スティーブンは何でもないような表情で爆弾を盛大に落とした。
「まあ、駄目なら駄目で無理矢理にでもパーティーには二人出させるから問題はないね。仕事だと言えばナマエも強く拒絶出来ないだろうし」
 鬼だ。鬼がいる。そうは思うものの、仕事に関してこと容赦ない本人を目の前にして言える筈もない。レオナルドは今度ナマエに会ったらせめてもの慰めとして、存分に労ろうと決意した。



 事務所にある一室の前の扉をザップが許可無く開くと同時、間髪なく足が飛んでくる。今度は予測できたのでそれをギリギリのところで避け、そのまま室内へ身体を屈ませて中へするりと入り込むと、目を真っ赤にさせたナマエがふるふると肩を怒らせながらこちらを睨めつけていた。一度ならず二度も蹴られかけたことに、スティーブンから釘をさされたことすら頭からすっぽり抜け出して、血の上りやすい頭に任せて怒鳴り散らしてやろうとした声も思わず止まる。
「このっクズ!!出てけ!不法侵入者!」
「不法侵入者っておま…」
 事務所の部屋を間借りしてるお前が言うことじゃねーだろ!とザップが笑い飛ばしたくなったのも何のその、簡易ベッドに付いている枕だのクッションだのを投げつけてくるので、ザップは口を瞑った。今更ながら湧き上がってきたナマエに対しての罪悪感が絶ち消えそうになるも、ザップにしては珍しく根気良く場に粘り続ける。言うまでもなくスティーブンの絶対零度の視線と、女装したレオナルドをエスコートする自分を想像してのことである。鳥肌モノのおぞましい想像に焦りからザップは口を滑らせた。
「あーあー悪かったって!良くみりゃお前女だったわ!な!?だからパーティー出てくれるよな!?」
 この台詞をスティーブンが聞けば絶対零度の視線どころか血凍道を使われかねない程酷い誘い方だった。しまった、とザップが思ったのも束の間。幸いにもここにはザップとナマエしかいなかったが、これでナマエがザップを許す訳もない。益々感情を高ぶらせたナマエががなり立てる。
「ふざけんなこの猿ッ!そんなこと欠片も思ってない癖に!」
 口を強く噛み締めて喚くナマエの表情が歪んで、それから堪えきれないと言うばかりにぼろりと大きな粒を瞼から落とした。一度決壊してしまう涙腺は元に戻せないのか、それは次々と頬を伝って滑り落ちて、上質なカーペットにぽつりぽつりと地図を作っていく。デリカシーの欠片もないザップでも、見ることのなかったナマエの泣きじゃくった顔に、思わず言葉を詰まらせた。豪速球で飛んでくるクッションに身軽に避けていた筈が、そのときばかりは反応出来ず甘んじてそれを顔で受け止めて、ザップは形容し難い声で唸る。
「そりゃ、ちっとも女の子らしくないかもしれないけど…!」
 長いストレートの髪は戦闘に於いて邪魔になると、ライブラへまだ加入前にばっさり切った。スカートでは思うが儘足を動かせないとパンツタイプばかり揃えた。声だって他の同世代の子より全然低くて可愛くもない。胸だってここの人たちみたく大きい訳じゃないし、スタイルも凡庸だ。それでもナマエは世間一般的に言う女の子でもある。本当はスカートだって履きたいしふわふわとした女の子らしい格好にだって憧れがある。メイクやネイルに興味がない訳じゃない。戦場では不向きだからと態と男っぽい格好にしたのは自分だったが、けれども心はズタズタに引き裂かれたような気分だった。ナマエだって、まさか自分が今まで男と間違えられていたなんて思わない。
「…だから、悪ィとは思ってるっつーか…」
 しゅるしゅると収まる怒気と共に、沈みゆく気持ちで俯くナマエに対し、何やらぶちぶちと言い訳を重ねていたザップがああもう面倒臭ェ!と頭に乗っかったままのクッションを部屋の隅にぶん投げて、ドカドカと大仰にナマエの方へ歩み寄った。蹴られたのは腹立つが、自業自得なのは先程散々思い知らされた。ザップの前で泣いてしまう程にナマエを傷つけてしまったのも。だがザップはレオナルドの様に素直に自分の非を認められないし、スティーブンみたく女性を優しく慰める術を知らない(そもそもスティーブンはそんな間違いを犯さない)。だからザップはそのどれでもない、態度で示すしかなかった。しゃくり上げつつもこちらを警戒して仰ぎ見るナマエの、こぼれ落ちそうな程潤んだ瞳に何故かドキリとさせながら、ザップはぐいっとナマエの濡れた頬を拭う。それはお世辞にも優しくとは言えないものだったが、ザップらしかぬその動作にナマエの案外長い睫は二、三度縦に動く。
「オメエが傷付いたのはわかったから、泣くんじゃねえよ。クソ…」
 自分でもらしくない行動だと理解しているのか、涙でゆらゆらと揺らぐ視界でも、ザップの耳がほんのり色付いているのがナマエにもわかった。照れてる?淫語を恥ずかしげもなく連発する、下品の塊のようなザップが?ぱちぱちと瞬きをすれば目の縁に溜まった雫が幾つか零れる。そこで漸くナマエは、不器用ながらもザップが本気で謝ってくれているのだと知った。でなければ照れてまでこんなことしないだろう。
「同伴、断ンなよ。番頭ってああ見えて怖ェからな」
「…なにそれ、スティーブンさんが怖いからなの?」
 くすりと口元が笑う。乾いた頬の皮膚が引きつって僅かに痛んだが、ナマエは拗ねたような響きの持つザップの台詞に、さっきまで泣いていたのも忘れたかのような表情で目尻を弛ませた。ザップはと言えば自分が笑われたことよりも、初めて見るナマエの「女らしい」表情に目を瞠目させる。思えば触れてみた頬は存外ふっくらと柔らかく、よく見ればぽってりと色めく唇が艶めかしい。気を抜くとその唇に目が行っている自分に気づき、ザップは妙に気恥ずかしさを感じてぱっと諸手を上げた。
「…うっせ!あーっと、用事思い出したからもう行くわ!つう訳でナマエ、お前はちゃんとパーティーに出ろよ!?」
 余りに無理矢理な理由付けだったが、このままここに居ると余計なことまで口走ってしまいそうでくるりと踵を返す。びしっと確認するように再度言いのけてから、ザップは二人きりの空間から逃げ出そうと床を蹴った。
「…蹴って、ごめん」
 蚊の鳴くようなナマエの声がザップの背中を追い掛けても振り返らない。ナマエのそれは感情任せの声色でも、弱々しいものでもなかったからというのもあるが、一番は自分に余裕がないからだろう。何せザップは今、腑の底から湧き上がってくるような、自分でも消化仕切れない不可解な感情に手一杯だったのだから。ばたんといつになく静かに閉じた扉に凭れて、片手でいつもよりも熱を持った顔を覆う。じわりじわりと嫌でも染み渡っていく感情が、ザップに現実を教える。
「…マジかよ…」
 本当に、すげえ面倒なことになった。というか割とマジで信じたくねえ。そうは思うのに、この感情は溢れるばかりで冷めやらぬのだから、つまりはザップに打つ手はないのだ。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -