いまにも落ちてきそうな程、いくつかの雲の重なりで出来た天上はひどく濁っていた。そう暫くしない内に大粒の雫を生み出し始め、硝子に叩きつけられては痕を残す窓を見たところ、外ではそれなりに雨が強く降っているのだろう。ナマエは綿密に練った一日のスケジュールがあっという間に崩れ落ちていくのを感じて、落胆を乗せた息を吐いた。折角の早起きもお気に入りのピンで纏め上げていた髪も、無駄に洒落込んだ格好も全て水の泡となってしまったのだ。勿体ないとは思うけれど、珍しく土砂降りとなっているヘルサレムズ・ロットでわざわざウィンドウショッピングなんぞしたくはないし、自ら濡れ鼠になる馬鹿もいない。テンションがわかりやすく落ちていくのを自分でも感じながら、聊か乱暴に髪を解いてソファーへ深く腰かける。窮屈に引っ張り上げられた髪が解放されて下へ下ろされ、手櫛で二度三度髪を伸ばす。向かい側のテーブルにて、コーヒー片手に持ち寄りの仕事をしていたスティーブンがつい、と顔を上げた。
「何かどこかへ行く用事でもあったのか?」
「隔離居住区に新しく出来たっていう雑貨のお店に行くつもりだったの。こんな天気じゃ行かないけどね」
 久々に取れた休みを有効活用する道は無くなってしまった。我が儘を言ってしまえば勿論、同棲しているワーカーホリック気味な恋人とデートに行くのが一番だけれども、ナマエがスティーブンを誘うことは滅多にない。普段から仕事に追われているスティーブンの都合のつく日だけがデートの日と成りうるので、断られるのをわかってまで誘う勇気はナマエになかった。それにいまだってライブラから持ち帰ってきた書類に夢中な恋人は、私宅にいる間も休まるときはそれ程無いのだ。だからせめて家にいるときぐらいゆっくりさせてあげたい。気を利かせるつもりで、偶には一人になりたいだろうと思って出掛けるつもりだったが、それも潰えてしまった。スティーブンの手によって捲られる書類の束を見ながら嘆息する。ぺらり、ぺらりと単調的に捲られていく紙をただぼうっとしながら眺めて、それから如何にスティーブンの邪魔にならず一日ひとりでどう過ごすかをナマエは考え始めた。キュルキュルと巻き戻していった頭の中に、暇つぶしのつもりで借りていたビデオの存在が浮かぶ。そういえばレンタルビデオショップで借りたDVD、まだ見ていなかったなあ。どうせなにもすることはないのだから、スティーブンの仕事の邪魔をしないように大人しくビデオ鑑賞でもしておこう。確か鞄に入れっぱなしだった筈だ――返却期限の迫っているそれはメロドラマ――それもワンシーズン分はあるのだが、四十二番街の住人御用達ビデオショップではそれが人気らしい。別段甘ったるくてどろどろしてそうなメロドラマを見たい訳ではなかったが、こちら側のビデオショップにはグロテスクとグロテスクとアダルトビデオぐらいしか置いていなかったのだ。偏り過ぎる。暇つぶしに借りたビデオでグロッキーな気分になりたくはない。角の生えた珍妙な店構えをしたレンタルビデオショップが頭中過ぎって、ナマエはそれを慌てて掻き消した。思い立ったが吉日とごそごそ鞄を漁り、手を付けられることのなかった薄く埃の被った紺色の袋からパッケージを数枚取り出す。余程推し商品なのか、透明な箱にはでかでかと「話題作!」と蛍光色のラベルが貼られていた。あんまり期待はせずに見よう。そう思いながらナマエは早速プレイヤーにビデオをセットする。
「テレビ使ってもいい?」
「あんまり大きな音だと困るけど、いいよ」
 言いながらもその垂れた眼(まなこ)は書類に向けられたままだった。スティーブンの気が散るようなことをしたくなくてビデオを使うのに、もとより音量を大きくするつもりはない。ナマエは二人分にしては馬鹿でかいテレビ画面に詰め寄って独り占めをし、慣れない手つきでリモコンを操作した。移動した所為でソファーから固い床へランクダウンだが、スティーブンを視界に入れた上でメロドラマをゆっくり見れる気はしないので、これで良かったのだと思う。再生ボタンを押したところでも、相変わらず書類が捲られるさざめきだけがナマエの耳を追いかける。
「愛してるよ、僕のエンリッタ」
 オープニングを終えると冒頭から陳腐なメロドラマが画面を流れ始めた。どうやらエンリッタとやらがこのドラマ内でのヒロインらしい。この時点で「うわあ」とは思わないでもなかったが、体操座りをして大人しく見ていればなるほど、お店から推されるだけはあってそこそこ面白い。かなりベターな展開だかこれはそれなりに楽しめそうだ。だが男から囁かれる、こっぱずかしい台詞の数々がスティーブンに聞かれてやしないか、ナマエは無駄に背中をヒヤリとさせた。聞かれて困るものでもないが、今時誰も使わないような台詞に訳もなく恥ずかしかったのだ。恋人の存在を気にしない、という手はナマエに通用しないのでもう一度音量を下げる。悲劇的でオーバーな演出が若干目についたものの、見ている内に気が付いたらのめり込むようにしてテレビ画面に釘付けとなっていた。多分というか絶対、ヒロインの恋人役らしいこの俳優が原因である。
 似ている。
 誰にというかスティーブンに。
 頬の傷跡こそないものの、背格好や低い声に甘いマスク、色々と手慣れていそうな雰囲気がスティーブンに酷似していた。それと若干癖っ毛なところも。ナマエは煮詰め過ぎたジャムの如く、甘い台詞を絶え間なく吐き続ける(偽)スティーブンを食い入るように見つめる。普通にかっこいい。いや、俳優として活躍しているのだからそれは当たり前なのだが、スティーブンに似ているというだけでこんなにもフィルターがかかるとは思っていなかった。残念ながらレンタルもののパッケージなので、出演者の名前などは記載されていない。エンドロールまで待つしかないか。そう思いながら(偽)スティーブンを目で追う。どれもこれもスティーブンが言わないような台詞の目白押しだったので、ナマエは危うく何度か吹き出しかけた。一度スティーブンに似ていると思ってしまうと、もうそれにしか見えなくなるという現象はナマエにも適用した為、スティーブンらしき男が他の女を口説くという妙な場面を複雑な心境で見守っていく。恋人役の出番は冒頭から中盤にかけてまでで、シーンが切り替わると案外あっさりと画面から退場し、それからはナマエも真面目にドラマの内容に注視した。思っていたよりも満足感を得た九十分間は終わり、プレイヤーに次のDVDをセットしようとパッケージを取り出す。うきうきと緩んだ口元は、わざわざ気配を殺して忍び寄ってきたスティーブンによってワッと開かれた。
「随分と見入っていたようだけど、そんなに面白かったのかい?」
「わあっ!?」
 耳朶に触れた生暖かくも艶の込められた息に、ナマエの肩はバネのように跳ね上がる。心臓がばくばくと大きく振動し、咄嗟に耳を塞いで勢い良く振り向くと、やけににこやかな様子のスティーブンがこちらを見下ろしていた。
「し、仕事は…?」
「もう終わったよ」
 恐る恐る問い掛けるとあっけらかんとした声が返ってくる。意図の読めないその声色に警戒を露わにしたナマエも何のその、そのままスティーブンはナマエの背中にぴったり身体をくっつけるようにして床に腰を据え、長い二脚の足でナマエを閉じ込めた。両腕は勿論ナマエのお腹に回されている。突然の接触に戸惑いつつ、気恥ずかしさと嬉しさにもじもじとさせていると、スティーブンが「ん?」とばかりに白々しく首を傾げた。
「次の、見るんだろう?」
「え、えっ!?スティーブンも見るの?」
「君をそんなに夢中にさせたものに興味はあるかなあ」
 心なしかワントーン下がったようなスティーブンの声の調子に、どぎまぎとしているナマエは気づかない。うんともすんとも言わない内に、スティーブンはナマエの手からパッケージをするりと抜き取り、勝手にプレイヤーに設置してこなれた手つきでリモコンを操作し始める。「あっ!」と声を上げたナマエは、何か問題でも?と言いたげなスティーブンによってあえなく黙殺された。ナマエは長い脚の中で小さくなりながら、俄かに頬をひきつらせる。
「(何か…機嫌悪い?)」
 大人しくしていたのに一体何を自分はやらかしてしまったのだろうか?ナマエは胸中首を捻ってみるが疑問は解消されそうにない。頭の中を駆けずり回ってみても、心当たりは見つからなかった。スティーブンが進んでメロドラマを見るなんて一生に二度目は無さそうだ――下らないことを考えつつスティーブンがDVDを再生させオープニングが始まったところで――そこでナマエは漸くあることを思い出した。
「(スティーブンに似てる俳優さんんん!)」
 スティーブンに抱きかかえられながらスティーブンに似た俳優が出ているメロドラマを見るなんて、どんな羞恥プレイだ。それも似ているとはナマエが一人勝手に思っていたことなので、余計に気まずいというかどんな顔して見ればいいかわからない。どうしよう?いやどうしようもない。がっちり絡められた脚に逃げ場はない。そうこうしている内に短いオープニングムービーは終わって、いよいよ一話の続きが流れ出した。開始五分早々でいきなり登場した件の俳優に思わず肩を震わせる。
「…さっきから見ていて思ったんだが、この役者が好きなのかい?」
「えっ!好き…というかまあ、うん…」
 ある意味好きではある。スティーブンに似ているから。
 曖昧に答えを濁したナマエに対してスティーブンの声は益々冷え込んでいく。
「…へえ」
 見ていてって一体どの辺りから見られていたんだろう。一人悶えながら考え込んでいるナマエは視線をテレビに逃がした。ドラマに集中しよう。全く、というのは無理だがスティーブンを意識しないようにすれば、この意味もなく湧き上がる羞恥心もその内消える筈。そんなナマエの思惑はあっさりと断ち消えることとなった。スティーブンの揶揄混じりの声が、直接耳に吹き込まれたからだ。
「愛してるよ、エンリッタ…だっけ?」
 どこからというか最初から聞かれてた!ぞわぞわと背筋を這い上がり、腰が砕かれそうになる程色気を含ませたスティーブンの囁きは、ナマエの鼓膜を巧みに揺らがす。ぱくぱくと水を失った魚のように口を動かすナマエの唇に、スティーブンはおとがいへ手をかけそのまま触れ合うだけのキスをした。あまい台詞を並べ立てるドラマの中の恋人の声が、どこか遠くから聞こえてくる。画面に向けられた意識を全てこちらへ振り向かせるかのように、触れるだけのやさしい口づけは、唇を合わす毎に違う激しさを持ち合わせる。無理やり捻った首にナマエが痛みを感じる頃には、すっかりへろへろに蕩けさせていた。唾液で濡れて真赤となった唇を時折食み、スティーブンはナマエの下顎を伝う、銀色の糸を拭うように舐める。
「はっ、は、な…なに…」
「わからない?」
 息も絶え絶えに疑問を投げかけたナマエのおとがいから手を離す。スティーブンが歪ませた口元から、確かな醜い感情が滑り落ちていく。
「折角二人とも休みだというのに君は一人でどこかへ行こうとするし、かと思えば画面の中の知らない男に夢中で――気分が悪いよ、全く」
「だ、って仕事…それに邪魔になるからと思って」
「あの程度なら三十分もかからないよ。邪魔だって?目移りしがちな君のことだ。寧ろ近くにいて貰わないと困る」
 目移りしがちとはかなり心外だ。わかりやすいスティーブンの嫉妬だと理解していても、そればかりは撤回させて欲しい。ナマエはへろへろになった腕でネクタイを引っ張り、スティーブンの方へ顔を寄せた。
「あの役者さんは、スティーブンに似ていると思ったから」
 だから好きなだけ。じわじわと熱の上がっていく顔を伏せていると、暫し沈黙が落ちる。あまりの恥ずかしさにスティーブンの顔を見ることが出来ず、ネクタイから手を離してテレビの方へ向き直した。本当はこの場から逃げ出してしまいたいけど、逃げられそうにないしスティーブンが滅多に見せない嫉妬への嬉しさもある。足の中で体勢を直したナマエが、画面の中でヒロインが恋人役の人に抱き締められている、というのを認識したのは一瞬だった。沈黙から一転、スティーブンが突如バチン!とテレビの電源を落としたのだ。その手にはしっかとリモコンが握られている。突拍子もない行動にナマエは目を白黒させている内、足の縛りは解かれ、横抱きにされていることに気付いたのは動揺から覚めた後だった。
「え?えっ!?」
「最初に言っておくけど、明日の出勤は昼からで良い」
 電源を消したとは言えプレイヤーにDVDは入りっぱなしだしそもそも再生されたままだ。これから身に降りかかるだろうことを段々と理解して、不穏すぎるスティーブンの台詞にナマエの顔から熱が引いていく。まさか立たせないつもり?怖ろしくて聞けやしない。抵抗したくとも横抱きにされた状態ではそれも適わない。軽々と持ち上げられた身体はナマエの意志も関係なく、真っ直ぐ寝室へ向かう。
「だから――ゆっくり二人で休日を謳歌しようか」
 態とらしいまでに輝くスティーブンの笑顔に、ナマエは恋人に何がこうまでスイッチを入れてしまったのか、自分の運の悪さを呪った。スティーブンが自分で見たいと言った癖に!ベッドへ優しく倒され、爪先がシーツを蹴る。あのドラマの続きをDVDの返却期限までに見終えることは、どうやら出来なさそうだ。

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