悪趣味なショッキングピンクの蛍光ランプでぎらぎらと装飾された看板を尻目に、地下へと続く石畳の階段を降りていく。八センチの細いヒールはごつごつとした石を叩く度、こつんと小気味よい響きを立て、やがて見えてくる古めかしいウッド調の扉がナマエを迎え入れる。頭部だけが奇形に歪んでいるマスターが、店内へ足を進めたナマエの方をちらと見て、ギョロリとした眼を幾度か瞬きした後伏せた。このバーの常連ともなるとマスターの巨大な眼に一々飛び上がることもなくなる。その外見に違って寡黙で無愛想な店主の顔パスを受けて、ナマエは色とりどりのボトルが陳列されているカウンターまで一直線、軽やかにヒールを鳴らしていった。そしてもうすっかり見慣れた、トレンチコートを羽織っているダニエル・ロウの隣の丸椅子へどっかり座り込む。
「ミント・ジュレップをひとつ」
 そこで漸くロウがナマエの方へまなこを向けた。酒に別段明るくないナマエにはロウが何を呑んでいるのか判りっこなく、その指が掴んでいるグラスがロックグラスであることが辛うじて判るぐらいだ。ナマエはカウンターテーブルの狭い一人分の領域に肘をつき、ひらりと隣へ手を軽く振ってみせる。
「こんばんは、偶然ね」
「はっ、よく言いやがる」
 手前が仕組んだ癖に。そう吐き捨てたロウが半分程残っていた酒をぐいっと呷った。ここに来るまでに何かあったのか、ロウの機嫌は異様に悪い。頬が僅かに赤らんでいるのはナマエが来るまでに相当呑んだからだろう。それでもロウの双眸は決して酔ってはおらず、声色にも理性が律している。完全仕事モードのロウが何となく面白くなく感じて、自分で呼び出した癖に内心で不満を漏らす。なによ、仕組んだとは人聞き悪いわね。声に出すことのなかった半ば図星の言葉は、けれどもナマエの表情から手に取るようにわかったらしく、ロウがあからさまに鼻で笑う仕草を見せた。それに益々苛ついて、真赤のネイルが所在なさげにカウンターを叩いてリズムを刻む。都合良く出来ている耳はこのときだけ何一つ機能してくれず、ロウの悪態にひとつひとつ反応してしまう。まるで子供のそれだ。理由は疾うにわかっているが対処は出来そうにない。気取った女のフリをするナマエの精神年齢は到底大人とは言えなかった。チャームとして出されたミックスナッツをがりがり噛み砕いているロウを横目にぼんやりしていると、そこで漸くロングタイプのカクテルがナマエの前へ躍り出された。バーボン少な目ミント多めのそれは、マスターが把握しているナマエ好みのレシピだ。ミントの葉を飲み込まない様避けて、一口を舌で舐めたナマエを確認してからようやっとロウは口火を切った。
「で?あんたが言う目撃情報ってのは何だ」
「なあに?早速本題?漸く一息つけたところなのに」
 馬鹿言え、とロウが顰めっ面を披露する。
「あんたが署では嫌だっつうからこっちは妥協してやってんだ」
 俺も暇じゃねえんだよ。言いながら煙草に火を着けるロウに、それでもナマエから見ると言う程厭っているようには見えなかった。もしかするとただの願望かもしれない。自分に都合の良い解釈だったが、ナマエは敢えてそのままにすることにした。真相は深く考えずともわかる、ヘルサレムズ・ロットで今騒がれている連続殺人犯の情報をいち早く聞いて捜査を進めたいのだろう。そう目の前に餌をぶら下げて誘ったのはナマエだが、今になってそれは嘘だと打ち明けるのには憚られた。激情されたっておかしくない命懸けの嘘だったが、それでも構わない理由をナマエは持っていたのだ。人によっては下らないと一蹴される理由だが、そうでもしなくてはこの男は中々付き合ってくれない。マドラーで意味もなくグラスの中身を掻き混ぜ、内側と外の温度の差にグラスが汗をかき始めた頃、決心したのか観念してナマエが口を開く。
「嘘」
「は?」
「だから、目撃したってのは嘘。連続殺人犯なんて見てないわ」
 くるくると渦を巻くお酒と質量の減った氷をぼうっと見詰めるナマエを、ロウはどう捉えたのだろう。少なくとも良い感情ではないのは今のナマエにもわかる。恐ろしさすら感じさせる沈黙が二人の間を過ぎ、痛すぎる静けさに堪えきれなくなったナマエが、出されたお通しを抓み始めた頃、地の底を這うような棘(おどろ)々しい声がナマエの耳を劈いた。
「嘘、だあ…?」
「うん、ごめん」
「ごめんじゃねえよクソッ!漸く手懸かりが掴めると思ったらこれかよ!」
 がんっとロックグラスを勢い良くカウンターへ叩き付けたロウに、シェイカーを丁寧に拭きながら静観していたマスターの厳しい視線が飛んでくる。虹彩の目立つ眼がこちらをねめつける姿は中々迫力があり、こちらが睨まれた訳でもないのにナマエはつい仰け反った。忌々しげにナマエを睨んでくるロウは、マスターに目を付けられるのが嫌なのか意外にもそれ以上何も言いやしない。席を立たれる覚悟までしていたナマエにとっては斜め上の展開である。これならもう少し突っ込んでみても大丈夫かも。「あら」ストレスをナッツにぶつけ始めたロウに対して調子に乗って白々しくも声を掛けてみれば、常より数倍ぎらついたロウの目がナマエを射抜く。
「てっきりこのまま帰っちゃうのかと思ってたのに」
「お前は俺に帰って欲しいのか?」
「いいえ?意外だっただけ」
「公務執行妨害でお縄にかけてやってもいいんだぜクソアマ」
 口穢く罵るロウが、本当のところ優しいのだと知っているからナマエはロウをからかうのを止められないのだ。悪癖だと自覚しているのに、止めるつもりは更々起きないので厄介である。ある程度の境界線を超えなければ許容してくれる、存外懐は広かったりする男を気に入っているナマエは、これ以上揶揄えば本気で帰られると口にチャックをすることにした。察するにどうやらチャージ代金分は付き合ってくれるらしい。灰皿へシケモクを押し付けるロウがふうと煙い息を吐き出しながらナマエへ問う。
「んで、今日は一体何の用があって呼び出しやがったんだ」
「何かあったというより、会いたかっただけ?」
「帰る」
 茶化しながら言うナマエに、一瞬で真顔になったロウが本当に席を立つ素振りを見せたのでナマエは慌ててロウを引き止めた。拍子でまだ半分程残っていたカクテルが揺れ、中身も僅かに飛び散ったがそんなことを気にする余裕もない。心底ウンザリした様子のロウを傍目、何とかその場へ留まらせるのに成功したナマエは、勝手にロウの分の追加の酒をマスターへ頼んだ。居座らせる気満々だ。ナマエがロウの胡乱げな視線をのらりくらりとかわして、ご機嫌窺いをするようにうかがい見る。
「ここはわたし持ちだから、ね?」
「俺が付き合うのは決定事項かよオイ」
 やれやれと深く息を吐くロウが新しい煙草を取り出す。腰を上げかけてそれから諦めたように深く降ろしたロウに、にっこりとナマエは微笑んだ。勝った。心中でこっそりガッツポーズをする。暫しのプライベートな時間を勝ち取ったナマエの口元は知らず知らず弧を描く。そんなナマエの様子を見てロウが理解不能と言いたげに疑問を口にした。
「つうかなんで俺なんだよ。あんただったらもっと他に相手ぐらいいるだろ」
 ロウの何気ない台詞がナマエに突き刺さった。そこに何の意図もないと理解しているが、思わず声色が低くなる。自然と俯く頭が重い。
「…他のひとは嫌。貴方が良かったの。でもこうでもしなけりゃ会ってくれないような気がして」
 大人の余裕ぶった表情が一転して物悲しげに笑ってみせたナマエに、ロウは不覚にも息を詰まらせた。事件に関しての、そんな大きな嘘をついたところでロウを怒らせるとナマエは知っている筈だ。奇妙な縁から成り立った、少しでも噛み合わなければすぐに途切れてしまう危うい関係だとも。それでも、そうまでしてナマエが会いたかった理由ってのは――ロウは自分が「有り得ない」予想に辿り着きかけてるのに気付いて、自らそれを振り払った。不自然に黙ってしまったことを覆うように、冗談のような口調で戯言だと零す。無理矢理吊り上げた口角が何故か痛かった。
「…俺にハニートラップは効かねえぞ」
「知ってるわ」
 融解する氷がグラスの中でカランと鳴る。わかりにくい告白だ。ストレートに想いをぶつけられる程、ナマエは子供でなかったし人並みに幸せになるなど許されない理由がある。だからロウの答えが果たしてはぐらかしなのか、はたまた本当に気が付いていないのか、ナマエは思考を放棄することにした。



 どうしてこんな風になってしまったのかナマエにはわからない。そも、わかっていたらこんな風にはならなかっただろう。すっかり指先にまで染み付いた鉄錆にも似た臭いは、箒で払い落とそうが水で流せない程わたしの皮膚にこびり付いている。どこに行けばいいのか、もうずっと迷っている気がするのは気のせいではない。人を屠った後はいつもそうだ。自分のしていることが、憎しみに駆られて理性すら失っていく自分が恐ろしい。薄暗い路地裏で、血溜まりに浸っている手はあまりに汚らわしくおぞましさすら感じる。こんなときにロウに会いたいと思うのは、自分の頭がとっくにいかれているから?ひとり自嘲を零したナマエは、けれども止めようとはどうしても思えなかった。最初は今みたいな路地裏に連れ込まれそうになって偶々立ち寄ったロウに助けて貰ったのが始まりだった。普段“狩る側”の自分が助けて貰うなんて、とそれに新鮮味を感じてロウに近づいた。ただそれだけだ。今になってみれば浅慮で愚かとしか言いようがない行動だ。連続殺人犯が警察と関係を持つなんて正気の沙汰としか思えない。危ない綱渡りな上少しでもこちらがそんな素振りを見せれば聡い彼のことだ、全て露見して終わりになるだろう。それだけではない。感情に任せて誰かを殺すのにも、そろそろ限界がきている。ナマエは肉塊のへばりついたそこへ膝を降ろした。あのとき近づいたのは誰でも良かった訳じゃない。一度懐の内に入れば暖かくて、嫌味を言いつつ何だかんだ言って我が儘に付き合ってくれて、それでも仕事になればどこまでも公私を分けることの出来るダニエル・ロウでなければ駄目だった。
 駄目だったのだ。
 でも近付き過ぎたのだと、今なら思う。
「武器を捨てて投降しろ」
「…ロウ?」
「まさかお前だったとはな」
 ポリスーツ隊も従えずたった一人で、溝より酷いにおいの立ち込めるそこに立ち塞がるのはナマエの予測した通りの男だった。その手にちゃっかり収まっているごつい銃を片手に、慎重さが滲み出る足取りでこちらに近寄ってくる。内臓すらぐちゃぐちゃにされ、まるでスクランブルエッグのような有り様の遺骸にロウは眉を顰めた。何処にでもあるような家庭用包丁でこんなことをやってのけるなんて、お前は料理人か何かか?いつもならばするりと口をついて出てくる軽口も、喉奥で詰まって声になりやしない。何とも言えない表情をするロウを見やってナマエがふっと笑う。
「ねえ、これは偶然?」
「馬鹿言え、ンな訳あるか。よりにもよって俺の担当区域でポカやらかしたのがお前の運のツキだ」
 バーで二人会った後すぐ起こされた犯行には、被害者の血が付着された明らかに女物の髪の毛が残されていた。今まで決して足を掴ませず、証拠を抜け目なく消してきた犯人がここに来ていきなりの、それもかなり大きなミス。何かの罠だとは考えもしたが、それでも検査から浮かび上がってきた人物を探し出してみれば件の犯行。
「そう、自分の迂闊さにわたしは殺されるって訳ね」
 異様に落ち着いたナマエの様子にロウが内心首を傾げる。束の間、ゆらりと立ち上がったナマエにロウはハッと銃口を向けなおした。
「ロウ、あのとき助けてくれたのは本当に偶然?」
 いきなり何の話だ。とは思わないでもない。ロウが訝しんでいるのにも気付いている筈なのにナマエは全く意に介そうとしない。ナマエが言うあのときというのが、いつだか絡まれているのを助けたときというのに気付いて、ロウは重く口を開いた。
「…それが一体何の関係があるってんだ?」
「答えて、お願い」
 ナマエがまるでいつかのように泣きそうな表情で目を細ませる。ロウは“うっかり”口を滑らせた。
「アレはただの偶然だ偶然。そもそも犯人ってわかってりゃあの後見逃す筈ねえだろ」
「…そう、それなら良かった」
 ロウには何が良かったのかわかりやしない。こっちは信じたくもなかったことをむざむざと見せ付けられて苛立っているというのに――そこで、ロウはこの状況にあるまじきミスをした。苛立っている?何故?思考が停止しかけるのを何とか奮い立たせる。この世界じゃ裏切りなんて塵のようにあちこち転がっているというのに、今までそうとは気づかず殺人犯と幾度も相見えていたことに苛立ったのではない。ナマエが殺人犯であるからこんなにも感情が波打ち始めたのだということに、ロウは自分で気付いて愕然とした。
「最初から仕組まれていたとしたら、悲し過ぎるもの」
 いつからだ。一体俺はいつからこいつに――ナマエに心を許していた?背筋がうすら寒くなるのを感じながら、ロウは銃の安全装置をゆっくり降ろす。ロウの立場とこんなときでも嫌になる程機能する理性が、感情に蓋をする。
「言っただろ――そういうのは俺には効かねえってな」
 ポリスーツ隊を付けなかったのも、危険を省みず単独行動をしたのも、全てこいつを信じたかったからだ。前と同じ台詞の筈なのに、決意が揺らぎそうになるのは自覚したからだろう。だがもう引き返せない。お互い馬鹿のままではいられない。きっとナマエもそれをわかっている。
「…知ってるわ」
 ――でも、罠なんかじゃなかった。この気持ちは決して嘘偽りではなかった。ただナマエが認めたのも、ロウが自覚したのも、気付くには何もかも遅過ぎた。「でも」ナマエが己の得物である血の乾いた包丁を持ち直す。動きを見せるナマエにロウが銃を構えたまま、体勢を固くさせる。
「本当に、好きだったの」
 ナマエが包丁を手放したのも、ロウが引き金を引いたのも、また同時だった。銃声が嘶いて壁まで貫いてゆく。後戻りは出来ない。涙すら、流せなかった。

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