普段マグナムを握る手はワイングラスのステムを支えている。ボトルと同等の量を飲み干したってちっとも酔えやしない自分のザル加減を呪いながら、こんなことになるならキャンセルすれば良かったとテーブルに肘をついた。そろそろ潮時かな。いつまで待とうともきっと埋まることのない席はもうずっとわたしの向かい側にある。この席の持ち主は今頃他の女とヨロシクやっていることだろう。情報を得る為の手段の一つとは本人談だが本当のところはわかったものではない。嬌声に囲まれて案外楽しく過ごしているのかも――何せ“彼女”は仕事を言い訳にすれば悋気の一つも見せない聞き分けの良い女だしね。嘲った笑みが口の先から漏れ出そうになって、そこで漸く自棄になった自分に気付いたナマエがハッと唇を引き結んだ。
「(こんな下衆な勘ぐりが出る時点で、終わってるわ…)」
 デザートも食べ終えてワインもグラスにはひと粒たりとて残っていない。もう待つ理由もない。椅子を引く前にバッグの底から取り出したスマートフォンで別れを意味する四文字を打ち込んだのは、確かに酒の勢いもあったかもしれないが、同時に関係を続けることに疲れを感じていたからだ。許容出来なくなっている自分に気付いて、なれもしないのにスティーブンの唯一になりたくて、我が儘を飲み込むことに限界を感じている。

 潮時だと、思った。

 ライブラというそこそこに大きな組織で一介の戦闘員として自分の力を発揮出来ることを、ナマエは決して悔いていないし寧ろ誇りに思っている。尊敬に値する上司の下で働けて、出勤日数に比べて休みの割合は労働基準法もクソ食らえな具合だが、それさえ目を瞑れば何より自分の能力を活かせる職場でそれなりに背中を任せられる仲間もいて、まあ悪くはない。命のやり取りに関してはヘルサレムズロットに住居を構えてる時点で今更だろう。不満はなかった。まさか上司に恋をするとは思っても見なかったが――尊敬に値する一人であるスティーブン・スターフェイズの恋人になれたときは、それこそ上司と部下の枠組みから外れたことに馬鹿みたいに舞い上がって――まさか叶うと思っていなかったのだから当たり前だ――らしくもなく女の子らしい服を買い込んだりもした。デート用だと計算外の出費を自身に言い訳しながら、実際のところその服をデートに活用出来たのは一体何回だろうか?きっと両手で足りる程しか使っていない筈だ。プリーツにヒラヒラのワンピースもコーラルピンクのフレアスカートも、ちょっとだけ背伸びしたつもりで買ったセクシーなパーティードレスも今やクローゼットで冬眠中。お笑い草だろう。あんなにも望んでいた立場を捨てて今は上司と部下の枠組みに戻りたがっているのだから。カツカツとヒールがコンクリートを打ち鳴らす喚声に一抹の煩わしさを覚えながらも、心は不思議と夜のしじまより凪いでいた。さっきからスマートフォンはぶるぶるとひっきりなしに震えているが知ったことではない。そうだ。もっと早くこうすれば良かった。いやそもそも恋人になどならない方が良かったのだろう。昔と変わらず上司と部下の関係でいれば、変に期待を持つこともスティーブンのハードディスクに対して嫉んで嫌な女になることもなかった。スティーブンの仕事に理解のある女でいるには、わたしには荷が勝ち過ぎたのだ。

 酒臭い息を吐き出して手探りでスイッチを押す、ということにはならなかった。何故なら疾うに電気の付いていた玄関先でスティーブンが壁に凭れ掛かっていたのだから。
「(部屋番号間違えたかな?)」
 一瞬ギャグのようなことを素で思ってからナマエはすぐに思い直した。帰路についている間中スマートフォンの着信が増えていっていたことから、二十パーセントぐらいの確率で予測していたことだからだ。何故そんなにも少ないのかと言うとスティーブンが仕事を抜け出してまで来るとは思えなかったことと、スティーブンのことだからスッパリバッサリ割り切ってくれると思っていたことに尽きる。結局そうはならなかったが。スティーブンは間抜け面で突っ立ったままのナマエを玄関から見下ろして、それから眉を顰めた。
「おかえり。入らないのかい?ここは君の家だろう?」
「ええそうですね、わたしの家です。ですからスティーブンさんは出て行って下さい。あとついでに合鍵も返して下さい」
 メール見ましたよね?矢継ぎ早に放たれるトゲトゲしい台詞にさしものスティーブンも苛立ちを隠そうとしない。ナマエとて何も最初からこんな風に言葉を投げかけるつもりはなかった。もしもスティーブンが一番最初に口にした言葉が謝罪の意を込めたものであったなら、ナマエは自分なりに気持ちを尽くしてお互い納得のいく別れ方をしようと思っていた。流石にメールで一言「別れよう」は説明不足過ぎると反省したからだ。外気に当てられて思考が冷えた今でも別れないという選択肢は湧いてこないが、それでなくとも今後のライブラでの関係の為に二人で話し合うべきだと――思っていた。スティーブンが開口一番皮肉を漏らすまでは。
「…合鍵は返さないし、あのメールを認めたつもりはないよ」
「なら口頭で言いましょうか?別れようって」
 今度はわかりやすくスティーブンの顔が歪んだ。
「僕は了承していない」
「そうですか。でもわたしは別れたつもりでいますから。もういいでしょう?鍵はこの際明日渡してくれればいいので。疲れてるから早く寝たいんですよ、わたし」
「…僕のことが嫌いになったのか?」
 アルコールで血の巡りが良くなった頭は覚めていると思っていたが、本当のところ自分が思っている程冷静になりきれておらず、女によくあるヒステリーにならずともナマエは怒っていた。スティーブンに対してこんなぞんざいな扱いはしたことがない。ナマエはいつもスティーブンを優先して、自分の我が儘でしかないと我慢して、女の匂いをさせるスティーブンの仕事を文句言わず見送ってきたから。そうして最後には耐えきれず爆発してしまった。嫌いになったのか?嫌いになれる訳がない。ナマエの好意のベクトルはいつだってスティーブンに向かっている。自分の心を占領しているのもスティーブンただ一人しかいない。でももう無理だ。感情に任せるがまま態と相手を傷つける台詞を選んで、スティーブンの表情が凍えるように変わったことに余裕の失ったナマエは少しも気付くことが出来なかった。
「そうです、嫌いになりました。これで満足で――」
 言い切らぬ内に急速に腕が引っ張られ、たたらを踏むナマエのことなどお構い無しと言わんばかりに、スティーブンは先程まで自分が背にしていた壁へナマエを貼り付けた。思う以上に強く身体を打ちつけたのか、反射的にナマエが痛いと訴えかけてみたところで今のスティーブンに届く様子はない。じんじんと痛む肩にむかむかと腹の底が煮えるのを内心で感じ取りながら、抗議しようとスティーブンの方を仰ぎ見て、それからゾッとする程凍てた双眸がすうっと剣呑に細まっているのを見て、ナマエはやっと「やばい」ことに気づいた。咄嗟につっかえそうとした胸板にやった両手はスティーブンの片手一つでナマエの頭上に抑え付けられる。嫌味な程長く鍛え上げられた足が膝を割りナマエを逃がさんとしている。「へえ?」怖ろしいまでに低い声色でスティーブンは優しくナマエを追い詰めた。
「どの口が、そんなことを言ったのかな?」
「や、いや、はな、離して!」
「嫌い?よく言うよ。僕を好きだのなんだの言って、散々僕の下でだらしなく涎垂らしてヨガッておいて今になって嫌いだなんて」
 ひどいなあ、という台詞とは裏腹に一ミリたりとも思っていないような酷薄な笑みを浮かべて、スティーブンの左手は強制的に開かせたナマエの太股をするりと撫ぜた。同時にやわらかな肌を覆っていたストッキングを摘んで力任せに引き破る。保護色から覗く生白い素肌へ手を差し込み、情欲を誘うような指使いで内股をなぞらえた。間違いなくスティーブンはこっちの意志なんか無視して事を及ぼそうとしている。一貫として拒絶の体を崩さないわたしに苛立って、力を持ってしてわたしを屈服させようとしている。獰猛につり上がった双眼に見下ろされながら、いつもと違う粗雑な触れ方にどうしようもなく泣きたくなった。どうしてこんなことをするの。いやだ。ひどい。やめて。ナマエの脳内を沸騰させていた激情は嘘のように鎮まって、心までも穴が開いたようなやるせなさがナマエの眦を震わせた。スティーブンの膝頭が徐にショーツのクロッチ部分を擦り上げて、息を上げそうになるのを食いしばって堪えながら見たくないとばかり瞑った瞼からとうとう雫が零れ落ちていく。スティーブンの手が止まった。瞼を閉じたまま頑として見ようともしないナマエのささやかな抵抗すら、些末と言わんばかりにスカートの下で蠢いていた手はピタリと停止している。
「そんなに嫌かい?泣く程?」
 そうじゃない。そんなことで悲しい訳じゃない。それがわからないスティーブンが悲しいのよ。
「…今日が何の日か知ってる?」
 唐突な問いに面食らったのか、ナマエとわたしの名を呼ぶスティーブンの声が僅かばかり平常を取り戻しているのを感じて、からからに乾いた喉がひゅうッと鳴った。
「今日夜七時にいつものブラッセリーで待ち合わせって」
 言ったのはスティーブンの方じゃない。

 定期的な休みなどなくて互いの誕生日から始まりクリスマスもイースターもロクに祝えたことはなかったけれど、二年前の今日交際を始めた記念日は、どうにかして休みを取れたのだとスケジュール帳片手にスティーブンは笑った。わたしの了承もなしに勝手にシフトを変更させて「ここ休みにしておいたから」と、上司の権限を乱用したのは貴方だった。スティーブンお気に入りのレストランで食事をしてその後は二人でゆっくり過ごそう、シャンパンを開けてもいい――そんなふうに語って一ヶ月も先のことを準備してくれたから、わたしも貴方が似合うと喜んでくれた服でコーディネートして、前菜が並べられて、メインがきて、デザートを平らげてもまだ待っていた。着信のない携帯に薄々勘付きながらもまだ縋っていた。ねえスティーブン。スティーブンはいつから女物の香水をシャツに焚きしめるようになったの?貴方、とっても匂うわ。
「帰って」
 もう顔も見たくない。


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