ナマエさんはお弁当手作りしているんですね。ツェッドが初めて目にするジャパニーズ・フードの詰め合わせに、思わずといった様子で素直な賞賛をぽろりと零した。生成色をした小さめな弁当箱には、ツェッドでもわかる程手の込んでいる色とりどりのおかずが並べ立てられている。肉団子らしきものや緑野菜の和え物はツェッドでも辛うじてわかったが、それ以外の一品一品はどれも見たことのない珍しいものだった。感嘆の息を落とすツェッドに満更でもないようなナマエが「大したものじゃないんだけどね」と頬をやんわり紅潮させてはにかむ。元々極東の国の血が入っているらしいナマエにとって、日本食は舌に馴染み深い文化らしかった。現に慣れているのか器用にも二本の細い棒を使いこなしている。箸というそれはテレビでしか見たことがない。いつの日か食したスシも手掴みが主流だった。新鮮さに目を瞬かせるツェッドの隣で、気怠そうにコーラを胃の中へ流し込んでいたザップがひょっこり顔を伸ばした。
「へえ、お前でも料理出来んだな。つうか何だコレ、陰毛か?」
 不躾にも人差し指と親指を弁当箱に突っ込んだザップは、ひじきの和え物を摘んであからさまに「ウゲェ」と嫌そうに顔を顰める。瞬間、ツェッドの凄まじく正確な判断能力がこのクズの権化のような男に肘鉄をお見舞いすることを選んだ。「グウッ!?」コンマ一秒レベルの俊敏さを持ってして強制的にザップを黙らせる。ドゴッと渾身の力が込められているだろうそれは思い切り鳩尾へヒットしたらしく、ザップが息をし辛そうに呻いていたが同情の余地はない。無礼にも程がある。かわいそうにナマエは突然の下ネタと暴言に唇を戦慄かせて声すら出せないようだった。余程のショックを受けたと見える。ツェッドは本来何も悪くないのだが何故かその姿に罪悪感を感じて、横で蹲りながら悪態を吐いているザップへもう一発をお見舞いした。忽ち地に沈むザップに侮蔑の一瞥を投げかけたツェッドが、ナマエの方へくるっと向き直す。
「…!?!」
「すみませんナマエさん、この人の言うことは出鱈目ばかりなのでまともに受け取らなくていいですよ。それにその、僕はとても美味しそうな…和え物に見えます」
 嘘ではない。細くて黒い小さなものの固まりは確かに未知の食物であったし、美味しそうと言うには若干気持ちが伴っていない気がしたが、きっとこれもジャパニーズの文化ってやつだろう。生魚を嬉々として食す時点で変わっている。ツェッドのちょっと苦しいフォローは思いやりこそ伝わったらしく、ナマエは気まずそうにしかし柔らかな笑みを零させた。
「ううん、考えてみれば黒い食べ物なんて変わっているものね。海藻の煮物なんだけど、美味しいし身体に良いの」
 言いながら箸で掴んだひじきなるものを口に運んだナマエは、ツェッドの言う通りザップの最低な下ネタ発言を聞かなかったことにしたようだった。ほっと無意識に安堵した息を吐く。余計でしかない横槍をいれる者は未だカーペットに身体を這わせているので、暫くは茶々を入れることもないだろう。物珍しさについつい弁当箱の中身を興味津々に見つめるツェッドが気になったのか、とうとうナマエがきんぴら牛蒡を掴む箸を止めた。
「…良かったらツェッド君も食べてみる?」
「えっ!いえ、それはナマエさんのものでしょうし…」
「少しぐらい気にしないで、それにザップを撃退してくれたお礼」
 先程から殆ど無意識の内に人の食事風景を眺めていたのだとやっと気付いて、恥ずかしいやら申し訳ないやらでツェッドは穴に埋まりたくなる衝動に駆られた。見られている側はさぞかし食べ辛かったに違いない。だのにそんなことには触れず、どれ食べてみたい?と悪戯っぽく口許を綻ばせるナマエに自然とツェッドの目尻も緩んだ。蔓延する和やかな空気はそのまま、そこでいつの間にやら稼働していたエレベーターが止まり、一拍もなく同時に戸が開かれる。
「――ああ、ツェッドとナマエか。ん?ザップはどうしたんだ?」
 ギルベルトはクラウスの送迎でいないからと、コーヒーを注ぎに給湯室へ消えていたスティーブンが、しゅうしゅうと頭から煙を出しているザップを見下ろして目を瞬かせる。どうしたんだ?と問うた癖して一寸の沈黙を置いた後「いつものか」と一人納得を済ませたスティーブンは、湯気の揺らめいているコーヒーカップ片手にひょっこりと広げたバンダナと弁当箱の方へ顔を覗かせた。さっきまでと全く同じ光景にツェッドがぎょっとさせるも、すぐに浮かし掛けた腰を降ろす。信用の差だ。スティーブンはツェッドと違い日本食にもある程度嗜みがあるらしく――接待で指定されることもあるのだとかなんとか――ザップが下品な名称に称したひじきやその他諸々の、彩りよく盛り付けられたそれらを一瞥して感心の声を漏らした。
「凄いな、美味そうだ。中々手が込んでるじゃないか?にしてもヘルサレムズ・ロットでジャパニーズフードを買うのは大変だろう」
 健康志向の者からはカロリーも抑えめで薄味の日本食というのはそれなりに高級品らしい。日本食に良く似た偽物なら安価らしいが、味も違うのでやはり本場から輸入しているものが一番美味しい。只それだけ一気に値段が跳ね上がる。国で買うより倍の値段はするとナマエが嘆いていたのをスティーブンはいつだか聞いたことがある。
「そうですね、まさか送って貰う訳にはいきませんし。あ、宜しかったらスティーブンさんもどうですか?」
 今もツェッド君にお裾分けしようと思ったところなんです。ツェッドにも?へえ、ふうん、そう。ツェッドに続いてスティーブンの世辞のない賛美に耳が心なしか熱くなったナマエが、誤魔化すように箸を持ち直して問い掛けた。一方で何故だかスティーブンの雰囲気にうすら寒さを感じたツェッドが口を噤む。褒められると何か施したくなるのはナマエの癖だ。お返ししなくてはと思ってしまうナマエの律儀過ぎる性格を、小狡い大人代表のスティーブンはきっちり把握していた。
「いいのかい?」
「はい!ちょっと作り過ぎたなって思ってたところなんです」
「それじゃあ貰おうかな」
 えっ。ツェッドがそう思った瞬間には既に遅かった。ナマエの出汁巻き卵を摘む箸を持つ手首を徐に掴んだスティーブンが、そのまま流れるような手つきで口許まで運ばせる。ナマエもナマエで図らずもイチャイチャカップルのやるような体勢となったことは流石に予想外だったのか、只でさえ熱い耳にもっと赤味が増したような気さえした。ぱくぱくと呼吸を得られない魚のように唇を震わせるナマエとあまやかな雰囲気に当てられて停止したツェッドを余所に、スティーブンはふんわりとした甘味が主張する卵を咀嚼する。舌の中で十二分に味わってから嚥下した後、スティーブンは弛んだ口角を隠すように片手で口元を覆った。
「…美味い」
 それっきり黙した後取り繕うかの如く「美味しいよ、ありがとう」と再度零したスティーブンが、ナマエの頭頂部を軽く撫ぜてくるりと踵を帰した。二人とも完全に置いてけぼりだ。この箸は一体どうすればいいんだろう。というかえっ今何が起きたの?ナマエは無言でツェッドと目線をあわした。スティーブンは先程のことなどなかったとばかりに、ちょっと冷めたコーヒーを啜りながらデバイスで何やら操作している。
「た、食べる?」
「いえ、遠慮しておきます…」
 ナマエの住むアパートメントのクラシカルなキッチンに、生成色の弁当箱とそれよりも大きめなスチールブルーの男性用の弁当箱が並べられるのはそれからそう遠くない未来なのだが、ナマエはふつと湧き上がった胸の内の正体を未だ知らない。ツェッドはうすら寒さの理由に遅ればせながら気付いて、すまなそうに且つきっぱりと首を横に振った。

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