本当に面倒なことになったとスティーブンは気付かれないよう嘆息を零した。こうなってしまうと只の野暮用にわざわざ車を使う必要はないからと、ギルベルトの気遣いを丁重にお断りしたのは間違いだったか――少しばかり後悔したくなる。蛍光色の電飾の下、些末事を滞りなく済ませたスティーブンが怪しげな男に気付いたのは、踵を返してそう暫く経たない内だった。こういう事に慣れていないのか辛うじて気配は殺そうとしているものの、玄人に比べれば素人に毛が生えたレベルにわかりやすい尾行だ。勘弁してくれ。もうすっかり明かりの落とされた住宅地の裏通りで、スティーブンの後を付け狙っているらしい男へ肩を窄める。こうまでわかりやすく気取ることの出来る男のお粗末な実力にどうすればいいんだ。喜べばいいのか?かと言って油断は禁物。この男が偶々気配の消し方と尾行の基本がなっていないことだとして、腕力やら能力――はたまた魔術に適した技術を持っている可能性はここヘルサレムズ・ロットに於いて決して珍しいことではない。念の為だと警戒を怠らず人通りの少ない道まで誘導してきたはいいが、如何せんスティーブンには思い当たる節が有りすぎて男の目的が一体どれなのかさっぱりわからなかった。その背にはスティーブンは男一人では到底背負いきれない程の恨みを買っているのだから、特定しろと言うのも無理な話だろう。撒くのは簡単だ。ついでに言えば叩きのめすのも。だが芽の出た不安因子はなるだけ潰しておきたいと考えるのがスティーブン・A・スターフェイズという男の性質だ。男の意図やら思惑は明確にしておきたい。このまま泳がせて向こうの目的を探ってみてもいいが、しつこく追ってくる癖何もあちらからアクションを起こしてこないのだから、いい加減氷のように頑強な理性も切れそうだ。撒くが故に繰り返している遠回りにも限度がある。只それよりも――配慮をしない馬鹿共の所為で仕事が増え、馬鹿共がオネンネしたであろうその後も後始末に奔走していたスティーブンとしては、その幾つかの理由以上に自宅のベッドが恋しくて堪らなかったのだ。くそったれ。沸々と湧き上がる悪態は、飲み干しても嘆いてみてもこの状況に何ら影響することはない。仕方ない、こちらからおびき寄せるしかない。疲れ目の眉間をぐ、と人差し指で解し目についた一本の路地裏へするりと身体を滑り込ませた。罠だとも知らずのこのこ三下のお手本かのように、スティーブンの後へ続いてくれた男へ餞別だと、苛立ちに任せて衝動のままコンクリートを革靴で軽く擦る。
「っ!?」
「ははっ、バレていないとでも思ったかい?」
 何の疑いもなく路地裏に足を伸ばした辺り戦闘面では実力派とは言い難いだろう。これならスティーブン一人でも充分事足りる筈だ。一人分の幅しかない通路に伸びる両足を凍らせ、愕然としながらも見る見る内に顔面を蒼白にさせる男に、スティーブンは輝かんばかりの嘲笑を贈った。
「悪いが疲れているんだ――さっさと吐いた方が身のためだよ」
 そして早く終わらせて俺を寝かせてくれ。



 下らない私怨だ。人間だったモノの残骸に一瞥くれて携帯端末に慣れた番号を打ち込む。いつの日か叩いたエンジェルスケイルの関係者だったらしく、スティーブンの後を付いていたのだって自分の商売を悉く潰されたから、復讐のつもりで何か弱味を握れればと言う男の頭の悪さを露呈させるような理由だ。力量もこれまたスティーブンの予測通りお粗末なものだったが、まさかこの腕前でライブラの手を逃れた者がいたとは思わなかった。もしかしたらこの男のように、大捕物から逃げ切りライブラへの怨嗟で身を窶しながらどこかに身を隠している奴もいるかもしれない。そうなるとかなり厄介だ。頭が痛くなるのを感じながら男の後始末についての簡易的な連絡をしていると、遠くでかつんと甲高くコンクリートを叩く音が聞こえた。瞬間的にスピーカー部分を手で遮り壁に預けていた背を起こす。咄嗟の判断で終話キーを打ち込んだが優秀な部下は言わずともわかってくれるだろう。それがスティーブンのいる路地裏まで段々と近づいてくるのを感じて、スティーブンは踵をくるりと反転させた。この男の仲間か?若しくは単独犯と見せかけて囮だったとか――寧ろその方が都合が良い。一度に向かって来られた方が纏めて叩くことが出来るのだから。白い息を吐いて鳴らした革靴がぱきりと薄氷を作る。きょとんとした女の顔が青白く見えるのは、街灯の所為かはたまた別の理由からなのか――湿っぽい路地裏から出たスティーブンはちらと辺りを見渡した。
「ひっ」
 敵だったとして武器を手に振りかぶって来るか、それとも悲鳴を上げて逃げられるか――女の反応はそのどちらでもなかった。レディーススーツとパンプスがスティーブンの目に止まる。引きつった掠れ声を漏らした女の視線の先が、べったりと血で濡れた左手にあるとすぐに気付いて、革靴の中の強張った爪先から力が抜けた。ある意味これは敵より面倒なことになったな。「…え?血?」お得意のポーカーフェイスを装備することも忘れて声に詰まっていると、暫し瞠目していた女は徐に鞄からハンカチを取り出した。
「あの、良かったらこれ使ってください」
 女の指先が僅かに震えていることに目に入らない程鈍くなったつもりはないスティーブンは、秒単位で即座に対応出来るよう万全を期していた足を半歩退いた。薄氷がアスファルトに溶け込む。一度深く眼を伏せて再び開く頃には、もう既にスティーブンは対女向けの優しくて情欲的な笑みを覆わせていた。
「…ああ、いや、大丈夫だよ。大した怪我ではないからね」
「でも…菌が入ってしまったら」
 スティーブンはそこで心から笑ってしまいそうになった。自分の安全の確保より得体の知れない、自分から見ても不審者レベルに怪しい男への配慮とは、抜けているどころでは済まない。どんなお人好しだ。一目みればわかる――とまで傲ったつもりはないが、それでもスティーブンが一瞬ばかり見せた“隙”の数々に本気で気づいていないところを見ると、本当にただの一般人らしい。それもヘルサレムズ・ロットでは類を見ない「良い人」だな、多分。ただの一般人がこんな時間に人通りのない場所で何してたんだ、とは思ったけれど、口に出してしまえば恐らく自分を「ただの人」だと思っている女からしてみれば、スティーブンのそんな台詞はブーメランにしか聞こえないだろう。それかスーツ姿な辺り会社帰りなのかもしれない。どれが真実なのか突かずスティーブンは大人しく口を閉ざした。
「…そうだね。じゃあ、有り難く貸して貰うよ」
 そもそもこれは傷なんかでなく、男が無駄に悪足掻きした所為で被る羽目となった返り血なのだが、勿論スティーブンは本当の理由を黙した。怪我だと勝手に勘違いしてくれるならそれに乗っからない理由はない。浅緑色に小花柄。なんとも女性らしいハンカチだと思いながら受け取り「怪我をしているように見える」左手に布をあてがう。本来ならばここでお礼を言ってお別れ、で済ましたいところなのだが、路地裏の奥のグロテスクな物体の所為でスティーブンはここを退くことが出来ない。氷と血のアンバランスで卒倒モノの組み合わせを一般人の彼女に見せることも出来ない。スティーブンはにこやかに微笑みを携えて、さり気なく裏通りへの入り口を見えないよう塞いだ。
「あの…」
 退くつもりのないスティーブンに流石に不審を感じたのか女が眉根を下げる。
「ああ、ここ通るつもりだった?工事中みたいでね、生憎行き止まりだよ」
「え!そうなんですか…」
 只の方便だ。だのに一寸も疑いもせず初対面の男の台詞を信じた女に、スティーブンは内心で感嘆の息を吐いた。その性格でよくここで今まで生きてこれたな。疑心というものが彼女にないんだろうか?浅緑の鮮やかな色が自分によって汚されていくのを見て、ふとスティーブンは思い立ったがまま、おろおろと不安そうにこちらを見ている彼女へ問う。
「良ければ名前を教えてくれないか?ハンカチのお礼をしたいしね」
「そんな、お礼なんて」
「いいから、僕がしたいんだ。…それとも嫌だったかい?」
 血塗れのハンカチを畳み駄目押しのつもりで小首を傾げてみれば、元来断れない性分なのだろう――もごもごと言いにくそうに口を動かした後ぽつりと名を明かすので、スティーブンは先までこうまで警戒していたのに馬鹿馬鹿しさすら感じてしまった。
「そんなんじゃ!ええと、ナマエと言います…」
「ナマエ、ね。このハンカチは洗って返すよ。ありがとう」
「いえ、お大事に」
 自然と会話を終わらせたスティーブンに丁寧に浅く一礼をしたナマエが踵を返して大通りの方へ駆けてゆく。ナマエの纏う草臥れたスーツがひらりと揺れる。スティーブンが先程まで付けていた色っぽくて甘やかな仮面を外し、真赤に薄汚れたハンカチを広げた。怪我だと嘯いた左手には傷跡ひとつ見当たらない。
「随分と機嫌が良さそうですね」
「そう見えるかい?」
 お大事に、とは久しく言われたことがなかったから珍しかったのかもしれない。ヘルサレムズ・ロットに於いてあっという間に騙され身包み剥がされ道端に放り出されそうな、善人の塊みたい性格をしていたな、彼女。普通知らない男に名前を教えるか?自分から強請った癖に呆れたふうな息を吐いても、吊りあがった口角はそのままだ。更けきった墨を零したように黒い夜に、緊急だと呼び出されたスティーブン私用私設部隊の男が、心底愉しげな己の上司の表情に不可解げに目を白黒させていても、スティーブンは全く気にならなかった。悪いけど後は頼んだよ。奥に佇む男へそう言い残して張り詰めていた息を夜の空気と一緒に溶かす。さっきまでさっさと眠りにつきたいと、確かにスティーブンを苛んでいた気持ちは不思議と急速に萎えていた。



 新品と見紛う程にきっちり染み抜きされ洗われアイロン掛けまでされたハンカチと、包みに同封された簡素なメッセージカードがナマエのアパートメントに届いたのはあれから凡そ三日ばかし経った頃だった。
「わたし…住所教えたっけ」
 Thank youと書かれたカードを手に取りあの日のことを思い出してみようと試みるが、ナマエの脳内からはどうにもそんな事実は思い浮かんでくれない。連絡先どころか名前しか教えてないような気がする。「…何で?」何故だか得体の知れない怖ろしさが背筋駆け巡った。真相は依然として闇の中だ。

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