ナマエがお偉い方のもとへ嫁ぐらしい。
 最初それを聞いたとき、スティーブンは「ああ、知ってるよ」と何でもないふうを装って応えた。本当は何でもなくないのだがスティーブンの表情はいつの日か言われた冷血漢の仮面を被っている。傍でその縁談話に聞き耳を立てていたK・Kが、あくまで平静なスティーブンの顔を見てアンタみたいな男よりずっとマシだと憤った。わかっている。K・Kが憤ったのはスティーブンのことが嫌いだからとか、いやもしかするとそれも入ってるかもしれないが、そんなちゃちな理由が主ではないのだと。平常を貫いたスティーブンに対して彼女は何かしらのアクションを期待していたのだろう。なら要望通りに嘆けば良かったのか?それとも諸目を悲嘆に潤ませたナマエの後を追いかけて、行かないでくれと縋れば正解だとでも?スティーブンはそのどちらも取らなかった。お偉い方の嫡男に見初められたナマエはきっと幸せになれるだろう。戦いや死の匂いの立つ場所に身を置くこともなく、ブルガリアンローズの咲き誇る庭園で、一生のお姫様を約束されるのだから。こんな年の離れた男、それも仕事の為なら他の女も平気で抱く上に、いつ死んでもおかしくない状況へ幾度となく晒される組織に末席を置き幾度となく死地へ乗り込んでいく男が、そのめでたくも高貴な縁談話を前にして「俺が幸せにするから行かないでくれ」とはとても言えなかった。
 言えなかったのだ。
 それでも本当は言いたくてたまらなかった。
「あーあ、かわいそうなナマエっち。今頃アンタの素っ気ない態度に枕を濡らしているでしょうね!」
「スティーブン…君はその、ナマエ君の恋人なんだろう?縁談など、スティーブン、君がまさか許す筈もない」
 K・Kのパンチの効いた嫌味も、クラウスの心配を押し出した声すら苛立ちを生む。表情を作ることがいつの間にか得意になってしまったスティーブンは、強がりも一歩間違えばナマエのもとへ駆け出しそうになる足も、全てを押し殺して二人へ穏やかに笑った。
「クラウス、君も知っている筈だ。あのお偉い方の機嫌を損ねることが万一にもあればライブラにとって重大な金銭的損失に繋がることになると。彼女は賢いからそれをわかっている、だから何も言わないのさ。それに彼女が嫁げば先方とのより強いパイプもでき」
 饒舌な説論はそこで途切れた。しゅうしゅうと呻り声を上げた壁には立派な弾痕が、スティーブンの座っている位置ぎりぎりのところで存在を残している。スティーブンはK・Kの常より数倍おっかない顔を見上げた。
「良い?スカーフェイス。これ以上その不愉快な口を開けば、今度はアンタの額に鉛弾をブチ込んでやるわよ」
「…もう撃ってるじゃないか」
 大人しく降参のポーズを取る。悪態をついたK・Kが銃口を降ろす。
「スカーフェイス、元々アンタのことは気に食わなかったけどそれでもナマエっちは幸せだと思っていたから」
 眉間を細い指が覆っていく。唇が戦慄いてそれから最後まで口に出すことはなく、K・Kは軽蔑したような目つきでスティーブンを見やった。「アンタにナマエっちを幸せにする資格なんてない」そう言い残したK・Kがバン!と騒がしく戸を押して出ていった。壁に叩きつけられた扉の蝶番がかわいそうにぎいぎい軋んでいる。戸惑っているのかクラウスは側でただオロオロとするだけだ。スティーブンは嵐が過ぎ去ったと言わんばかりに息を吐いた。
「さて、K・Kもいなくなったことだし僕はちょっと電話してくるよ」
「スティーブン…君は本当に」
「よしてくれクラウス、それが最良なんだ。そしてそれ以上はない」
「だが心は別の筈だ。スティーブン、君とナマエ君が望むならば私は縁談を破棄しても良いと思っている」
 二人は恋人同士なのだから。クラウスの声はスティーブンに届かない。先程K・Kによって痛めつけられた戸を今度はスティーブンが閉めたからだった。クラウスはああ言ったものの実質こちらに拒否権などない。唯一無二の、かわいいかわいい嫡男の恋慕を叶えてやろうとする親心が無駄に働いている先方は、断れば資金援助を取り止めるという脅しにも似た話を投げかけてきたのだ。そうまでしたのはきっとスティーブンとナマエが既に結ばれていると知っていたからだろう。嫡男に無断で調査でもしたに違いない。そこにナマエの意志など存在しないのだ。求められるのははいかYESの二つだけ。まさかライブラとナマエを天秤にかける日が来るとは思わなかった。スティーブンはたたらを踏み、それから足先をナマエの住むアパートに向ける。
「ああ本当に」
 反吐が出る。



 インターホンを押すと泣き腫らした目をしたナマエが出迎えた。真っ赤になった目は充血しており、乾いた頬からさっきまで泣いていたのだと推測する。スティーブンの姿を確認した途端閉じようとする扉を、自慢の脚で押し留めたスティーブンはそのまま玄関先にするりと身体を滑り込ませた。
「駄目じゃないか、ちゃんと誰か確認してからドアを開けなきゃ」
「帰って」
 取り付く島もない。息と一緒に掻き消えそうな声が吐き出され目は合わなかった。スティーブンは溜め息にしては長く息を吐くと、今にも部屋に逃げ込みそうなナマエの腕を掴む。君に二、三個確認したいことがあってね。白々しく口に出した台詞は、自分でも気づかぬ内にナマエをひどく傷付けたようだった。
「確認?わたしがちゃんとスポンサーのもとへ嫁ぐかどうかの?」
「ナマエ」
「わかってる、わかってます…スティーブンさんならきっとライブラの利益を選ぶって!でもどうしてそんな」
 平気そうな顔をするの。掴まれた手の所為で顔を隠せないナマエは、せめてもの抵抗にと下に向いた顔を決して合わせようとはしない。もう泣き疲れて一生分の涙を流した筈なのに、スティーブンを前にすればその腫れぼったい目はまた滴を作る。裏切りにあったような気分だった。いつも読んでる小説のようにロマンチックに駆け落ちなんて望まない。ライブラの損害を考えれば縁談破棄も許されない。それでもなにかを期待した。自分でもよくわからない、恐らく希望というものをスティーブンに望んだのだ。
「スティーブンさんが良かった」
 床に大きなシミが出来る。
「…どんなに酷い男でも?」
 スティーブンの革靴の先が零れ落ちた滴を跳ね返す。
「そんなの、今まで一度も思ったことないのに」
 スティーブンが良いの。どんなに相手の男の人が良い人で、お金持ちで、仕事の為に女の人を抱いたりしない人でもあなたがいい。熱烈な愛の告白はスティーブンにしっかり届いたみたいだ。
「…地獄に落ちることになってもかい?」
「なに、それ」
 突拍子もないスティーブンの問いに堪えきれずナマエが小さく吹き出した。スティーブンが掴んだままだった腕を引いてナマエを抱き寄せる。今度はナマエも抵抗しなかった。スティーブンの背中に腕を回して温もりを忘れることのないよう、強く力を込める。
「君はクリスチャンだから、一応確認しないとと思ってね」
 どういう意味?とは聞けなかった。言っている意味がわからず思わず顔を上げたナマエから見えたのは、作り物ではないスティーブンの不敵な笑み。
「こう見えて、手に入れたものは手離さない主義でね。君の気持ちさえ変わらないのであれば、もう僕が遠慮する必要なんてないな」
 平常?平気な顔?一体何処を見たらそう見えるのだろう。つまるところ、君をよく知らない男なんかに易々渡すつもりなど、最初から微塵も存在しないのだ。



 ナマエさんが死んだ。例の嫡男との婚約を一ヶ月後に控えたその日、血界の眷属(ブラッドブリード)との戦闘で命を落としたらしい。死因が不確定要素なのは僕はその場に着いておらず、スティーブンさんとナマエさん二人が応援が来るまで血界の眷属と対峙していた際に起こったことだったからだ。遺体の損傷は激しく、顔はぐちゃぐちゃにされていたみたいで棺桶を覗き込むことも叶わなかった。それでもその遺骸をナマエさんだと認識したのは当時着ていた服と体格、髪の色なんかが一致したからだ。葬儀にきた件の嫡男はそれはもう大層悲しんだ様子で、勿論ナマエさんと関わりのあった人たちもおいおいと絶え間なく涙を拭っている。例外は僕を含むライブラメンバーだけだった。恋仲であった筈のスティーブンさんも僕が良く知る他のメンバーも、かく言う僕も涙は一滴たりとも流れない。それは薄情なんかじゃなくて、きっと恐らくみんな感づいていたからだろう。確認も出来ない程にぐちゃぐちゃにされた顔、逆に言えば一致したのはその日来ていた服装と大凡の体格や髪の色だけ。そして最期を看取ったのはスティーブンさんただ一人。勿論、あれから僕はナマエさんの姿を見ていない。だけども誰もが確証に近い答えを持っていて、それでもザップさんは疎かクラウスさんまでもが確信を付こうとはしない。葬儀が過ぎてお偉い方とのあれやこれが片づいても、肝心のスティーブンさんが何も言おうとしないのでつつくことが出来ないのだ。クラウスさんが知らないのなら僕が聞いても答えてくれる筈がない。もしかしたら本当は本当に死んだのかもしれない、というそんな有り得る可能性を吹き飛ばしたのはきっと皆同じ日だ。
「やあ、どうしたんだい少年。そんな呆けた顔をして」
 スティーブンさんの左手の薬指。永遠を約束した真新しいエンゲージリングに、僕は確かに彼女の存在を認知したのだった。

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