※若干三巻とリンクしてます

 軽めのノックを三回。それが合図だった。
「スティーブン?」
「やあ、ナマエ。遅くに悪いね。…入っても?」
 アパートの軋む扉は三回鳴って、わたしを呼び寄せる。お風呂に入る準備をしていたわたしが、慌ててドアノブを押すと、少しばかり疲れた顔をしたスティーブンの姿がそこにはあった。柔和な笑みはいつものそれだが、こうもわかりやすく疲労を混じらせているのは初めてだ。らしくもないと心配になり、わたしは持ったままだったバスタオルを置き、スティーブンを部屋へ招き入れた。この際入浴は後回しだ。
「大丈夫だけど…それよりどうしたの?あの、何だか疲れてる?」
「…いつも通りを装ったつもりだったんだが、意味なかったな」
 普段疲れを見せようとしない人が、こうもあからさまにいつもと違う雰囲気を醸し出してれば誰だって気づく。気怠げな雰囲気を纏ったスティーブンが、促されるままフローリングへ足を降ろし、二人用のワインレッドのソファーへ腰を浅くかけた。そして流れるような動作で、わたしも一緒にソファーへ引きずり込まれる。繋がれた手はそのままで、気恥ずかしさを感じても、それより嬉しさのが勝ったので振り解きはしない。突然の訪問にらしくもない行動の連続。わたしは生憎と頭が悪いので、このときスティーブンが何を望んでいるのか、何をして欲しいのか全くわからなかった。キャパオーバーでも起こしそうである。
「えっと、スティーブン?」
「うん?何だい?」
「何だい?じゃなくて…わたし、どうすればいいの?」
「何もしなくていいよ」
 え、と驚きに中途半端に口が開いた。それは…わたしに何も期待してないとかそういうことだろうか?ネガティブモードに入りそうになったわたしに、スティーブンは何ともなしに告げた。
「ただ、隣にいてくれるだけで良い」
 繋がれた手に力が込められても全然気にならない。わたしはいま、この急上昇した熱を冷ます方法を探すのに必死なのだ。「そ、そっか」スティーブンのように余裕を装って返事してみたけれど、動揺から声が裏返って逆に死にたくなっただけだった。
「…ええと、何か話した方が良い?」
「君が話をしたいなら」
「…静かな方が良い?」
「君が隣にいるならどっちでもいいよ」
 おかしい。スティーブンがスティーブンじゃない。いや違う、横でぼんやりとしている男は確かにスティーブン・A・スターフェイズその人だ。きっとよっぽど疲れているのだろう。それかスティーブン自身に何かあったのかもしれない。もしそうだとしたら知りたい気もするけど、なにも無理に聞くようなことでもない。結局わたしはスティーブンの言われるがまま、ソファーに座って大人しくすることしかないのだ。せめてもの慰めになればいいと、繋いだ手をゆるく握り返すと、スティーブンの冷たい手がぴくりと反応したような気がした。
「…今日、家でホームパーティーをしたんだ」
 え!?と今度は別の意味で声を上げそうになった。唐突すぎる告白に反応出来ず、そんなの聞いていない!と癇癪を起こすことは出来たけど、そこまでわたしは子どもじゃない。多少のショックはあったものの、続きそうなスティーブンの語り口に無言で先を促す。
「ヴェデッド特製のローストビーフも用意して、それで――それで皆とても喜んでくれたよ」
「呼んだのは、スティーブンの友達?」
「…そうだね。そうだった」
 過去形の言葉に思わずわたしは隣を見やる。スティーブンの横顔はここのどこでもない場所を見ているような、うつろなものだった。きっとそこで何かあったのだ、スティーブンをこんなにも気落ちさせた何かが。それ以上スティーブンが話そうとしないのは、わたしが聞いていいラインはここまでだとそういう意味だろう。馬鹿な振りをして、何もわかっていない素振りを見せて聞いてみても良い。それでもそうしないのは、仕事に関して何も話そうとしないスティーブンが、件について話してくれるとは到底思えなかったからだ。わたしは確かに頭は悪いけど、空気は読める女でいたい。本能的にそう察したわたしは態と声色を明るくさせた。
「なら、次のパーティーの予定は?」
「え?」
「今度は二人でパーティーしましょう?スティーブン」
 ヴェデッドさんには劣るけど、あなたの好きなもの何でも作って、それからパーティー用の大きいクラッカーを用意してもいい。わたしの家じゃ狭いからスティーブンの家で、どうかな?ころころと笑うわたしに、スティーブンはふと口元を緩ませる。それから繋いだ手をさり気なく絡ませて、わたしの提案に乗っかるようにして相槌を打った。
「なら僕はとっておきのワインを用意しようか」
「やった!リクエストは?」
「君の作るものなら何でも――と言いたいところだけど、そうだな、ビーフシチューがいい。前、作ってくれたことがあったろう?」
「OK、じゃあそれと、ヴェデッドさん特製ローストビーフで決まりね」
 くすくすと笑いながら冗談の続きのような応酬を繰り返す。その間にもじんわりと伝わっていく手の温もりが優しくて、どうにも離れがたくなる。途切れた掛け合いの合間に、何かを吐き出すようにふーっと長く息を吐いたスティーブンが、こちらを窺い見て目元を緩く下げた。
「…ありがとう」
「何が?」
「いや――やっぱり好きだなあって思っただけだよ」
「っ?!」
 不意打ちに喉が詰まる。何度か噎せて、それから咽喉を丸ごとひっくり返したような声が飛び出た。
「えっ、あ!ヴェ、ヴェデッドさんのことかな!?」
「そうじゃなくて――君、わかってて聞いてるだろう」
 わかってた、わかってたけど!わたしの自意識過剰だったらあまりに恥ずかしいから、そんなことでしか誤魔化すことが出来なかったのだ。好きなんて台詞をスティーブンは滅多に言わないのだから尚更。でもその分プレミア感の増した耳当たりのよいそれは、わたしをわかりやすく舞い上がらせる。
「あ、あああの、わたしそろそろ、おふろに、はいらなくちゃ…」
 舞い上がると同時に、その二倍くらいの恥ずかしさは沸き上がり、用意した言い訳を手にわたしはぶんぶん手を振り回してみる――が、いつの間にかきつく縛られるように、わたしの指に絡みついたスティーブンさんの指は離れるのをよしとせず、わたしはすっかり困り果てた。きっともうスティーブンは元気、でないにしろ普段通りに戻った筈だ。つまりそれは、ということはいつもわたしをからかって遊んでいるスティーブンに戻ったという訳で――嫌な予感はすぐに現実となる。徐に立ち上がったスティーブンにわたしも引っ張られ、勝手知ったる足取りでスティーブンが向かったのはバスルームだった。間の悪いことに、お風呂に入る前だった為湯はもう沸かした状態で置いてある。
「ちょ、なにしてるの!?」
「何って、風呂に入るんだろう?ついでだから僕も一緒に入るよ」
「いやいやいや、待って!待ってってば、何でそうなるの?!どの流れから!?」
 半ば錯乱気味に引き止めようとするわたしの顔は、きっと林檎のように真っ赤の筈だ。繋がれた手を思い切り引いてブレーキをかけようとするわたしを、羽虫程の抵抗にしか感じてないだろうスティーブンは、何でもないような顔してバスルームへ引っ張っていく。
「うーん。今、この流れからかな」
「それじゃわかんないよ!ね、そう、そうだった!わたしの家の浴槽狭いから、スティーブンと二人でなんて絶対入らないよ!だから無理です!無理!」
 喚き続けるわたしを脱衣所へ連れ込んだスティーブンが、締めていたネクタイを解き始めるのを見て、わたしはいよいよもう猶予がないと青ざめ始めた。しかしその間にも手はしっかり繋いであり――というか今気付いたけどこれ、恋人繋ぎだ――到底逃げられそうにない。そもそも脱衣所にまで来てしまった時点でお終いな気がする。
「ああ、それなら問題ないな」
 僕の膝にナマエを乗せれば一人分のスペースで済む。事も無げに言い切ったスティーブンの台詞に、変態!と返しかけた声も全て、いつの間にか間合いを詰めた唇に飲み込まれていた。互いに濡れた唇が異様に熱く感じたのは、バスルームから漏れ出す湿気のせいなのか、はたまたもっと別の理由からなのか――スティーブンの宥めるようなキスで簡単に揺らぎそうになっているわたしには、わかりそうもない。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -