スティーブンがナマエを食事に誘うのに成功をもぎ取ったのは、目を合わせてくれるようになってから凡そふた月後のことだった。
 クラウスと回し読みした資料が再びスティーブンの手に戻りその指がフィルムよりは分厚い紙を捲りながら、スティーブンは如何にも仕事してますといったふうな生真面目のする顔を取り繕っていたが、頭の中では延々とヘルサレムズ・ロット界隈で評判のリストランテを寄せ集めたグルメブックを捲っている。贅を尽くした内装と料理で彩られた中華、異界の名も知れない食材を使ったフルコースが有名なフレンチ、ヘルシー且つ美味しいとのことで健康志向の人に話題の料亭、どれもスポンサーの誰かだったりハードディスク代わりの女と行ったところだった。一ページの紙に記された文字を網膜に焼き付けながら、浮かび上がる店の名前に赤ペンでバツを打っていく。スティーブンの策略に利用した店へナマエを連れていくのに、なぜだか以往もなく憚られた所為で一時間程続いたバツを描く作業の末に、スティーブンは結局先々月クラウスと食事を楽しんだトラットリアを選んだ。ここなら文句もないだろう。なにせ自分よりもずっとずっとグルメなクラウスの折り紙付きだ。
 実のところ、ちらちらこっちを気にしてくる癖中々乗ってこないナマエに業を煮やしたスティーブンが「少年とは仲良くランチへ洒落込むのに、僕とは行けないのかい?」という半ば脅しも含んだ、余りにスマートではない誘い文句でようやとナマエは頷いたのだが、それは決して突っ込んではならない。スティーブンはバツだらけのグルメブックを脳髄から消し去ると、三時間後に控えた約束の為に使い古した万年筆を手に取った。



 ナマエは緊張で味もわからないトマトクリームの色と匂いをしたパスタを咀嚼して、それから程なく思い出したようにぎこちなく微笑んだ。
「おいしいです」
「ああ、良かった。実はクラウスとも来たことがあるんだが、ここのパスタをクラウスはいたく気に入っていてね」
 ぷりんとした艶の良い海老をフォークに巻き込んだスティーブンが、にっこりと作り慣れた大人の余裕成分たっぷり目の笑みを浮かべる。いつ食べてもスティーブンの舌を喜ばせるペスカトーレは、心なしかいつの日かクラウスと共に食したあのときよりも美味しさが増しているような気がして、スティーブンは自分のちょっと浮ついた気持ちを沈める為にコホンとひとつ咳払いをした。コホン。テーブルを照らす白熱灯に煌めいたナマエの虹彩のうつくしい双眸が、内容量残り半分となったお皿からスティーブンの方へと向けられる。
「…美味しいかい?」
「?はい、とても」
 前菜を口に入れてから一字一句違わぬ二度目の問い掛けにナマエが小首を傾げる仕草をした。うん、良かった。ムール貝から肉厚の身を引き剥がす。似たような問答を繰り返してから、スティーブンは柄にもなく自分が緊張していることに気づいて愕然とした。談笑の邪魔にならない程度のざわめきと、雰囲気の良く落ち着いた華美過ぎない店内、パスタが終わればドルチェと食後のコーヒーだけが二人のいる八番テーブルに到着されるのを待っている。条件は十分揃っていた。緊急を知らせる為だけのデバイスがスティーブンのスーツの裏っ側で震えない限り、静粛且つ少しだけ緊張の孕んだ二人の邪魔は入らない。手練手管を尽くして何にも知らないお嬢様ひとり籠絡することなど、スティーブンにとってお茶の子さいさいである筈だというのに、スティーブンは魚の小骨でも引っかかったみたいにすらすらとチョコレートソースよりも甘ったるい台詞を並べることが出来なかった。代わりに口にするのはクラウスの育てている花の成長具合だとか、ザップが仕事中にドジを踏んだのを三倍くらい面白可笑しく誇張した色気のいの字もないそんな話だ。それでもつらつらと重ねられるスティーブンのトーク技術にナマエの緊張も解れたのか、次第に不自然でない笑みを漏らし始めたのでまあ良しとする。
「お待たせ致しました、こちらデザートのガトーショコラとジェラートになります」
 パスタを食べ終えてひと息ついた頃やってきた二枚のお皿が二人を遮った。甘いものが好きなのは一部を除いた全ての女性に於いての常識である。コース用に配慮されたミニサイズのケーキとつややかなバニラアイスを眼下に見下ろして、ナマエはわかりやすく目元を綻ばせた。ジェラートの表面に散らばっているバニラエッセンスは、ナマエの目からはきっと星の飛礫にでも見えているに違いない。コース料理の後にガトーショコラは聊か重たい気もするが、両目を輝かせて喜ぶナマエに水をさすこともないだろう。かく言うスティーブンも別段甘いものは得意でないというに、この店のものはとかく何でもフォークの進みが速い。お嬢様の他称に違わぬ綺麗な所作を持ってしてケーキをフォークで一口分に切り分けたナマエがそれを口に運ぶ。
「美味しい」
 何回目かの賛辞はここ一番はっきりとしていた。
「そんなに気に入ったのなら今度誰かと来ればいいさ、何もこれが最後の晩餐じゃあるまいし」
 スティーブンがまことに言いたかったのはこんなことではないのだが、ここまで来ても素直になれない口は「ならまた今度一緒に行こう」とは紡げなかった。いつもよりテンションが違っているのをスティーブンの傍らで三分の二は残っている食前酒の所為にして、ココアパウダーでおめかしされたお皿の縁から手に取ったスプーンを侵入させる。簡単じゃないか、次の約束を取り付けることなんてモルツォ・グアッツァの予約状況より数倍やさしいものだ。一体何を躊躇しているんだ俺は。ナマエが食事のお陰で潤った唇を、開こうか開かまいか暫し逡巡してからちらりと歯を覗かせた。「そうですね、よろしければ」そう言えば今気づいたが、ナマエの手元にある食前酒のグラスは空っぽだ。
「うん?」
 続きを促したスティーブンがスプーンで乳白色の固まりをそっと掬う。よし、言うぞ。これを食べ終わってナマエの言葉を聞き終えてひと段落ついたら「また行こうか」とこの子供っぽい大人なナマエに主導権を握らせぬよう余裕をチラつかせるのだ。意を決してスプーンを口に運び入れたスティーブンの舌先が、その甘さに痺れとろける冷たさを嚥下して
「スティーブンさんと、また」
 噎せた。

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