スティーブンさん、と穏やかな春の陽射しよりも暖かい声が脳髄から共鳴する。私宅にひとり戻ったスティーブンはポケットの中で温めた記録媒体をスーツから取り出して、膨大なデータがパンパンになるまで詰まったそれをぴんと弾いた。いつもより心なしか着崩れたワイシャツの窮屈な釦を外し、よれたネクタイを緩ませてふと気怠さの混じった息を吐く。剥き出しの媒体はノート型のパソコンのUSBポートに差し込まれて鈍く反応を見せた。無線マウスを動かしファイルにポインターを合わせて二回クリックする。
「(香水臭い女だったな)」
 数時間前のことを脳内で再生しながらスティーブンはぐりと眉間を揉み解した。オリエンタル系のパルファムの匂いは鼻腔どころか直接胃の腑の中までどっしりと来そうなもので、お陰で未だグロッキー状態から抜け切れていない。女が必要以上にべたべた引っ付いてきた所為でシャツにも匂いは染み込んでそうだ。絡みついた腕を引き剥がして、半径五メートル内にも近付かないでくれと言いたくなる衝動をおくびにも出させなかった俺を誰か誉め讃えてくれ。ぐったりとデスクに頬杖をつきつと目を窄めてディスプレイに映されたデータの数々を確認する。(…まあ情報だけは役立ったか)革張りの椅子の背凭れに上半身を預ければ、ぎしっと僅かな軋みを上げた。

 こんなとき、ナマエに無性に会いたくなる。

 スティーブンさん、と穏やかな春の陽射しよりも暖かい声が脳髄から共鳴する。スティーブンよりずっとしなやかな優しい温度を保つ手は全てを包み込んでくれるかのように柔らかい。たっぷりとした艶のある黒髪は己のと違ってうねりもなく、さらりと手触りが良くていつまででも撫でていたくなる。ぷくりとなる朱色の唇は何度口付けても飽きることはない。いつも相手取るような女は家庭的な暖かみを持たないし、欲と媚びへつらいにまみれた表情で肉欲をスティーブンに強請っている。無駄に飾りつけられた尖った爪がスティーブンの背中によく痕をつけるので、好きでもない女の度の過ぎたネイルなんてものは不快でしかなかった。データを移し替える作業を淡々とこなしながらふと思い直す。
「(いや、比べるのは彼女に対する侮辱だな)」
 ナマエの寛容さはスティーブンにとって毒だ。スティーブンが裏で何をしているのか、どんな手段を使って情報を集めているのかナマエはきっと薄々気付いている。本当ならばその段階でスティーブンを滅茶苦茶に詰って罵ったって誰も咎めやしないのに、ナマエはそれを選ばなかった。時折痛ましげに瞼をゆるゆると伏せて、その裏に傷みと悲観を秘匿して只ひたすらに堪えている。責められないことの方が余程辛いと知ったのはその頃だった。それでもスティーブンには正当化するだけの理由がある。恐らくナマエが泣きじゃくって懇願しても、スティーブンにとってその行為に利益がある限り止めることはないだろう。もしそれすら見抜いた上で何も言わないのだとしたら、末恐ろしいものがあるが。

 もう名前も思い出せない女への嫌悪は堪え切れたというのに、会いたいというナマエへの救いようのない衝動は抑えきれそうになかった。

 時計の短針は三を回っている。いくらなんでも床に着いている時刻だろうし、スティーブン一人の我が儘で就寝につくナマエをわざわざ呼び出すなんて真似は流石に出来ない。そこまで非常識ではない。代わりにスティーブンはデバイスのメール機能を開いた。逡巡する指が暫く画面の上をうろついて文字を打ち込み始める。(もしメールの受信音で起こしてしまったら、ごめん)口に出すことなく謝罪の意を唱えながら送信ボタンをタッチする。同時に莫大なデータはスティーブンのパソコンに無事移し終わり、スティーブンは用済みとなったUSBを軽やかに抜き取って放り投げる。硬質な床に甲高く落下したそれは、一拍の猶予もなくスティーブンによって粉々に砕かれた。



 カーテンの揺れる隙間から零れる陽の眩しさにナマエは睫をぱちぱちと開閉させた。目覚まし時計より早起きしたらしく、この日ばかりはけたたましいアラームに起こされることはない。アラーム機能をオフにしたナマエは、あともう少しだけ眠ってしまおうかと温い布団を手繰り寄せる。何せ昨夜はスティーブンが用事があるのだとかで早く退勤した為に、いつもよりナマエの仕事量が多かったのだ。瞼を容赦なく突き刺してくる陽射しを無視しようと寝返りをうったナマエは、傍らに置いていた携帯のランプがちかちかと忙しなく光らせているのを目にとめた。
「何…?こんな朝に…」
 ぶつぶつと不満を小さく漏らしながらも緩慢な動作で携帯を手に取る。どうやらこのランプはメールを知らせてくれたらしい。ロックを解除してスクリーンに表示されたメッセージを確認した途端、ナマエの頭は一気に覚醒した。再度潜り込もうとしていた布団を蹴り上げる勢いで飛び起きる。真ん丸に開いたナマエのまなこが幾度かメールの字面をなぞり終えると、ナマエはいつもより三十分早い出勤に向けてせかせかと着替え始めた。

 ――ナマエ、皆が事務所に集まる前に、少しでもいいから出来るなら二人だけで、君に会いたい。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -