スティーブンがナマエのことを視界に入れるようになったのはいつからだろう。きゅっと弛んだ目尻に憧憬が籠もっていたのに、己で気付いたときにはもうどうしようもなかったとは言い訳に過ぎない。捨てきれなかった思いが腹の底でくしゃくしゃの潰えた塊になっていく。ナマエの薬指の中で煌めいている指輪を目で追いながらカチ、と手中に収まっていたボールペンの芯を意味もなく玩んでも波打つ感情はちっとも晴れない。一週間後に控えた護衛任務の為の資料を捲る指は全く進んでいなかった。
(わかっている)
 もういい加減折り合いをつけるべきだ。不毛な恋に心を砕くのは止めにして素直に祝ってやればいい。簡単なことだ。そう思うのに、嫌という程理解している筈なのにスティーブンは認められそうにない――正確に言えば諦めることを認めたくはなかった。冷血だと自負していた心は未だにじりじりと焦がれるような痛みを伴って、スティーブンを苛んでいる。よりにもよってどうしてナマエだったのか。突出して美人という訳でもなくば何かが特別秀でている訳でもない。戦闘能力を買ってはいたが誰かと比べてしまえばすぐに埋もれてしまう。それでもスティーブンにとっては大切な仲間の一人の筈だったが、どうしてだろういつの間にかその垣根を越えてしまっていた。厄介なことにスティーブンという男は大して好きでもない女には手練手管を駆使出来る癖して、本当に大切だと慕う相手を落とすことには慣れていないのだ。幾らか生きていればまともな恋の一つや二つ、スティーブンにだって覚えはある。しかし別れ際に大した感傷を感じたことは一度としてなかったので言うほど重きを置いてなかったのだろう。それが今になってこれだ。本気の恋ってのは得てして厄介なものだとスティーブンが息を募らせる。好きになった切欠こそ既に思い出せなかったが、傍にいて欲しいと思うようになったスティーブンの心のうちは本物だった。もう長らく付き合っているという恋人との惚気話に到底表に出せないような煮えた嫉みを隠して、その度に良かったな、と物分かり良いフリをして誤魔化してきた。だって他にどう言えばいい?ありのままに心のうちを零せばやさしい彼女を困らせる。それはスティーブンの本意ではないし子供じみた我が儘に過ぎない。ただそれ以外にかけられる、正しく似つかわしい台詞を知らないのだから仕方がないだけだ。何度なく言ってきた気持ちの籠もっていない「良かったな」がリフレインする。こんなのは片思いというより只の横恋慕だ。どうせなら奪ってしまえばいいとは思ったことはある。頬を紅潮させ弾んだ声色で笑みを零すナマエの心の隙間を探そうとも。だがスティーブンは己の立場というものを良く知っていた。組織の為我らがリーダーの為身を粉にし窶すことも厭わなず、死ぬ覚悟も誰かを殺す覚悟だって疾うに持ち得ている。非道だとわかっていながらけたたましく悲鳴を上げてみっともなく命乞いをする、裏切り者だか間者だかを惨たらしく殺したこともある。だがその行為に罪悪感などなかった。そんな常人の感覚はどこかへ忘れ置いてきてしまっていた。それどころかライブラの為だと常に自分に言い聞かせて、扉を開けば変わらず在る仲間の自分を迎え入れる声に勝手に赦された気分になっていた。そんな浅ましくも汚れた自分の手を、一体誰が喜ぶというのだ。自嘲を落として彼女の薬指から逃げるようにスティーブンがそっと深く瞼を伏せる。ナマエが告げた突然の婚約の報告に湧いた事務所の中では、早くもクラウスがおめでとうパーティーの段取りを決めていた。一人輪に入り切れていないのはスティーブンだけだ。スティーブンの指がボールペンを掴み損ねてテーブルの上を転がる。幸せを思うのなら、願うのなら、このまま送り出してやるべきだ。ナマエが選んだのだ、どうせこんな自分よりずっとまともな男だろう。きっと彼女は普通の幸せを手に入れる。ああそうだ、全く僥倖なことじゃないか。
 ただもしもそれが許されるのならば、ほんとうは。
 俺が。
「式には皆さんも招待しますね!」
 ナマエの幸せに満ち溢れた声が、彼女を祝福するメンバーの声が今ばかりは痛かった。心の底から祝える気がしない。だけどもまさか自分だけが言わない訳にはいかない。幾ばくかの葛藤の末にやけに重たい口がうすく開かれる。それと供にぎゅっと目を細ませていつものちょっと色の含ませた笑顔をスティーブンは作った。こんなのはUSB代わりの女に向けるものであって、ナマエに効果がないとスティーブンは知っていた。只の悪足掻きだ。
「おめでとう」
 他の誰かが口に出した台詞に倣うようスティーブンも祝いの言葉を吐き捨てる。思ってもいない癖に全く白々しい。おめでとう。おめでとう。口の中で声もなく復唱する。あのとき告げた「良かったな」よりもずっと痛い言葉だった。度々視界の端をちらつく、見せつけるようなエンゲージリングの銀色の目映い輝きがスティーブンの双眸を時折眩ませる。
「ありがとうございます、スティーブンさん!」
(ああ、いっそ捨てられてしまえばいいのに)
 そうしたら慰める体を装って彼女を横から掠めとることが出来る。我ながら最低で最悪の考えがスティーブンの頭の中を過ぎって、掻き消すが如く霞のように消えていった。わかっていながら他に例えようのない紛れもない本心に、本当にそうなってしまえばいいとどうしようもなく思ってしまう。ナマエの口許を緩やかに吊り上げた破顔が瞼の中でフラッシュバックしていく。ごめん、俺ではない誰かの隣に立つ君の幸せはやっぱり願ってやれない。歓喜のざわめきから作り上げた表情のまま半歩退いて臍を噛み、無意識に伸ばしかけた手を粗雑にポケットへ突っ込ませる。終ぞ言えなかった好きの代わりが、色褪せることのないナマエへの気持ちを萎らさせていく。
 ひどく、喉が傷んだ。

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