※両片思いだけどまだそれ程距離が縮まってない頃

「先程眠られたばかりなのですよ」
 スティーブンさんはもう出勤しているのだろうか。就業時間にはまだ早く、珍しくもいつもより余裕を持ってアパートから足を伸ばしたのが凡そ三十分前。ヘルサレムズ・ロットに於いてそこら中で繰り広げられるゴタゴタだったり、煙を出している薬やフラスコやらを片手に「初回に限り格安の二十ゼーロ!」と客寄せして来る異界人を避けて辿り着いた職場の、もうすっかり慣れた手つきで事務所への戸を開けば、わたしよりも早くギルベルトさんがぽつねんと壁の隅で佇んでいた。鳴った扉の軋みで気付いたのか、わたしに視線をくれると一礼してきた為思わずお辞儀で返す。「お早いですね」「いえいえナマエさんこそ」二人で瑣末な会話を続けながら、ずり下がるビジネスバッグを重たげに持ち上げて、観葉植物が備え付けてあったり吊り下げられているだだっ広い事務所の中へ足を踏み入れた。
 そして冒頭に戻る。
「夜から急に仕事が立て込んだようでして」
 事務所に置いてある、三人掛けぐらいの大きなソファーの肘掛けの向こうまですらりと長い脚を投げ出したスティーブンさんの瞼の下は、疲れを象徴するようにうっすらと隈が存在を残している。厚手の毛布はきっとギルベルトさんが用意したものなんだろう。家路に着く気力もなかったのか、前見たときと同じスーツ姿のままで、常ならきっちり締められているネクタイは乱雑に緩められていた。本当に少しだけ仮眠を取るつもりだったんだろう。出勤時間の五分前には起こしてくれとギルベルトさんは頼まれていたようで、わたしがスティーブンの寝姿を見れたのは偶然が重なった奇跡に近かった。
「よっぽど疲れてたんですね…」
 鞄を向かい側のソファーへ徐に置いたわたしが心配半分好奇心半分でスティーブンに歩み寄る。だってこれほど貴重な姿はない。完璧でスマートでわたしとは全然違って大人なスティーブンさんの、偶に見せるゾッとする程に冷たい眼は重く伏せられている。顔色は白いし寝息がか細いので本当に生きているのか疑うレベルだ。
「紅茶をお持ちしますね」
 柔らかなカーペットに膝をついてわからないことを良いことにスティーブンさんの寝顔を見つめていると、何を思ったのかギルベルトさんがそっと隣の給湯室へ消えて行った。スティーブンさんを起こさないようにとの配慮だろう。でもわたしとしては寝ている人――それも曲がりなりに片思いしてる人――と二人きりというのは何となく気まずい。考えずに安易な行動してしまったことを反省する。お陰でギルベルトさんが勘違いして余計な気を回させる結果となってしまった。いざ残されてしまうとどうすればいいのかわからず、とりあえず前髪が眼の辺りに掛かって鬱陶しそうだったので退けてやる。起きたらどうしようという異様な緊張感を持って指で払った所為か、スティーブンさんはすやすやと眠りについたままだ。というかこれは起こした方がいいの?でもギリギリまで寝させてあげた方が…うわ、睫毛なが…。整った睫毛に根っこの方に残っていた女の部分が勝手にショックを受ける。
「あんまり無茶しないでください…」
 傷の走る頬へそろそろと触れてみれば、まるで死人のような冷たさを持っていて吃驚した。触れながら思う。わたしなんかではスティーブンさんの背負う重荷の十分の一にもならないだろうけど、それでも少しでも分けて欲しい。何ならわたしじゃなくてもいい。クラウスさんとか、K・Kさんとか、誰かスティーブンさんの休息場になってくれる人がいるのなら――そこまで考えてわたしは内心頭を振った。ちがう、誰かなんて嘘。わたしがそれになりたいのだ。スティーブンさんから頼って欲しい。あんまり一人で抱え込まないで欲しい。全部わたしの願望。でも、紛れもなく本心だった。前より距離はずっと近くなったとは思う。最初は自分のことで精一杯で本心が見えないスティーブンさんが怖くて避けてしまって、それなのにあの日スティーブンさんはわたしに優しく声をかけてくれた。だから今度はわたしが何かしてあげられたら、そんなふうに思うのにスティーブンさんは偶にわたしを揶揄うばかりで決して肝心の弱いところ、本当のところは見せてくれない。
 遠いと思った。
 同時にどうしても縮められることはないのだと。
「…スティーブン、さん」
 こんな無防備な姿をわたしに見せることもスティーブンさんにとっては誤算の筈だ。もっと見せて欲しいと思うのはきっと只の我が儘だろうけど、拒絶されるぐらいならこちらから歩み寄るしかない。先ずはスティーブンさんの仕事を少しずつ手伝ってみるところから始めてみようか――スティーブンさんには断られそうだけど、これでもわたしだってライブラの一員なのだ。戦えないなら戦えないなりにやれることは精一杯頑張りたい。機密とかでない限りはわたしでも手助け出来る筈。それで少しでも好きな人の負担が減るならわたしの時間なんてどうってことはない。
「好き」
 届かなくて良い。望んでいいなら届いて欲しいのが本当のところだけど、それよりも今はスティーブンさんに休んで貰うことが、少しでも近づけられるようにするのが一番だ。だからわたしも頼られるように精々頑張らなくては!気合いを入れるようにすっくと膝に力を込めて立ち上がる。幾ばくかの名残惜しさを感じながらスティーブンさんの頬から指を離した。蝶番の軋む音は紅茶の馨しくも甘やかな香りを引き連れてくる。起きなくて良かった、多分わたしはいま情けない顔をしているから。

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