※モブ視点とステブン

 ここヘルサレムズ・ロットに本格的に腰を据えてもう三ヶ月となる。三ヶ月も異界の交わる街に住居を構えていれば、ここの滅茶苦茶さにも度々遭遇する命の危険にだって嫌でも慣れてきたりする。唐突に転勤辞令が出たときは本気で会社を辞めてやろうと思っていたし、当初来たばかりの頃は片手で足りない数程、心臓がどこかへ飛んでいってしまいそうになる目にあっていたので、俺はというと完全に精神的に参っていた。幸い会社の同僚や上司たちは良い人ばかりで、仕事や人間関係に悩むことはなかったが、如何せん住む環境が悪すぎる。気分転換にテレビを付ければ見た目がグロテスクな生き物によって何人が負傷したとか、或いは自己責任で避けて下さいとかそんなのばっかりだ。これでは命がいくつあっても足りない。そんなときに出会ったのが彼女だった。
「あっ、すいません!大丈夫ですか?」
 前方不注意でぶつかった俺に丁寧に頭まで下げて心配そうに見上げてくる、小柄で可愛らしい女の人(…子?)に心臓が撃ち抜かれたような衝撃が、突如走った。違う意味で心臓が飛んでいきそうになる。ぶつかった瞬間、脳裏を過ぎるカツアゲと恫喝とカツアゲという文字はあっという間に消え去った。東洋人なのか、何処の国の人だかは俺にはわからないが、黒髪で若干幼げな顔付きもドストライクで――前述しておくが決してロリコンではない――兎に角俺は気付いたら彼女の手を握り締めてしまっていた。
「え?あの…?」
 突然の俺の奇行に困惑している。当たり前だ。かわいい。優しさのつもりなのか手を振り払われることもない。かわいい。大事なことなので二回言った。
「あーっと、えっと」
 もう後の祭りだ。握った手の、陶器のように滑らかで小さなやわらかい温もりに、ぽやーっと意識が浮いていきそうになるのを無理矢理脳髄へ叩き込む。オロオロと、ただどうしたらいいのか困った表情を浮かべている彼女に向かって、俺は取り繕った笑みを浮かべた。まさか日頃営業で使っているスキルがここで役に立つとは。
「君、名前は?良ければお詫びに一緒に食事でも――」
「ナマエ」
 人の良い顔をした列記としたナンパは、彼女の後ろから追いかけてきた声によって遮られた。俺に手を握られた状態のまま振り仰ぐ彼女がぱあっと顔を綻ばせる。
「スティーブンさん!」
 えっ。
 心の声がそのまま吐き出されることはなかった。胡散臭い笑み(俺が言うのもおかしいけど)を浮かべた一人の男は、ゆったりとした、大人の余裕を感じさせる動作で彼女に近寄りさり気なく肩へ手をやる。
「やあ、偶然だね」
「スティーブンさんもお昼休憩ですか?わたし、今からオススメしてくださったサブウェイ、というものを食べてみようかと…」
「ああ、それなら僕も一緒に行こうか。丁度サブウェイを買いに行く所だったんだ」
 完全に俺は蚊帳の外だ。思わぬ敵の出現に完全に固まってしまっている俺は、唯々二人の仲睦まじい姿を見守ることしか出来ない。というか入る隙間もない。白々しいまでに彼女の方しか見ていなかった男が、そこでようやっとちらとこちらを見る。
「それで――ええと、君は?」
 目を見た瞬間、とんでもない地雷を踏み抜いたのだと自覚した。男の目はまるで氷のように底冷えする程冷たく、凍てついている。背筋を走る悪寒と滲んでいく冷や汗はそのままに、俺は未だ固まることしか出来ない。何も言えずにいる俺に対して、男の口元だけが笑う明らかに作った表情が注がれていく。これは――間違いなく――殺られる!この三ヶ月で培った逃げ足は真っ当な判断をしてくれた。竦み上がりかける肩を隠さず、大仰な動作で彼女から手を離し、それから早口言葉みたく謝罪の言葉を口にして俺は勢い良く踵を返した。ドストライクの女の子を落とすより命の方が大切に決まっている。片手で数え切れない程経験した、心臓がどこかへ飛んでいきそうになったことよりもつい先程の男の目の方が余程恐ろしいと、俺は懸命に足を動かしながら心中で涙した。ああ神様、俺はやっぱり帰りたいです。



 スティーブンが少し睨みを効かせただけで、存外あっさりと退場していった間抜けな男に、スティーブンはナマエにわからぬようほっと息を吐いた。ナマエに会えたのは本当に偶然だったのだが、その後さり気なく近寄ったのは彼女の存在を認知したからだ。最近漸く慣れてきたのか、林檎のように真っ赤な顔をして誘いを断られることもなくなりつつあるナマエを、例に漏れずランチに誘おうとした矢先にこれだ。ナマエはナマエでよくわかっていないみたいなので、どう注意すべきなのか――そもそもナンパだと認識すらされていなかった男に同情すべきなのか、スティーブンは暫し判断しかねた。そう言えば。スティーブンがはたと思い直す。あの男、彼女の手を馴れ馴れしくも握り締めていたっけか――スティーブンは同情と一緒に男の存在をほっぽりだした。嫉妬というか悋気というか、そんな醜い感情が内心で湧き上がっていくのを何とか堪え、スティーブンは表面的な笑みの中にそれを隠す。肩にやったままだった手の行き先はナマエの手に向いた。
「こんな人混みの中でははぐれないか心配だからね」
「え!?ちょ、スティーブンさんっ!」
 ぎゅっと小さくて細やかな温さを持つ掌を己の手で閉じ込める。子供扱いだと憤慨するナマエを余所にスティーブンはこっそりと笑った。ナマエに態とそんな風に思わせる為に吐いた台詞なのだから、言い訳はしない。だけども実際はたかが見知らぬ男に手を握られたぐらいで、こんなにも苛ついて見せ付けるように彼女と睦まじく会話をして――これではどっちが子供なんだかわかったもんじゃないな。そうは思っても、それでも口では不満を零す彼女が時折嬉しそうに口元を弛ませそうになっているのに、振り解かれることのない手に、これ以上ない程満たされた気持ちはスティーブンの中で水増ししていくので、結局己の“子供っぽさ”には目を瞑ることにしたのだった。

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