これの続き
※恋人設定

 電話口で辺りに反響する程の声量で叫き立てるスポンサーを、スティーブンが奮闘の末どうにか宥め賺して落ち着いたところで通話終了のボタンを押す。どうやら先日のドンパチ騒ぎで(主にメンバーが)暴れ回ったときに、衝撃の余波で一点物の花瓶が割れてしまったことが彼にとって大変お気に召さなかったらしい。正直スティーブンの知ったことではない。そもそも花瓶が粉々に砕けてしまった元凶はライブラでなく、街中で障害物(という名の建物)を壊し回った新興マフィア共なのだから文句はそいつに言ってくれ!と言いたくなったのを何度唾と一緒に飲み込んだことか。先程よりも心なしかげっそりと窶れた顔で、スティーブンは震えることのなくなったデバイスをポケットへ突っ込んだ。ヘルサレムズ・ロットでは元より、花瓶一瓶どころか高層タワーが一夜にして倒壊することすら日常茶飯事の範疇に入るのだ。人界に足を着けているやつは全く、こっちの都合も知らないで好き勝手無茶振りばかりを言う。異界交わるこの街を観光地か何かとでも思っているのか、別荘を建てること自体悪いことだとは言わないがそこで何かしら――例えば突如武装したマフィア同士の抗争に巻き込まれたとて文句は言えない土地だと言うことを、連中は理解しようともしないのだ。それでも、その少々おつむの足りていない金持ち数割のお陰でライブラの活動資金は潤っている訳だから頭が痛い。自ずと寄ってしまった眉間の皺をぐいぐいと揉み解しながら、スティーブンは放置された書類のチェックに戻らなければとドアノブに手をかける。確か携帯出来る食料として重宝しているショートブレッドが、まだ事務机の引き出しに残っている筈だ。仕方がない、昼はそれで凌ぐか。本当は優雅にランチとまで行かずともこのままサブウェイを買いに行きたいところだったが、頭の中で捲られたスケジュール帳の中身がそれを許さない。諦め半分そのまま戸を開いて踏み込んだ執務室の敷居、スティーブンの双眸は目の前のソファーへ腰掛けるナマエを真っ先に映した。正確に言えばレオナルドの口内に何やら指を突っ込んでいる、昼休憩真っ只中であるナマエの姿だ。近過ぎる二人の光景にスティーブンの中で暫し時が止まる。器用なスティーブンのまなこはやおらナマエを見て、レオナルドを見て、そしてもう一度ナマエへ帰った。
「あ、スティーブンさんお帰りなさい」
 半月型に緩んだ口元は朗らかに笑んだままだ。レオナルドの口腔にほそい指が入った状態のナマエは何でもないような顔をして、スティーブンにいつもと変わりない「おかえり」を告げる。ドアノブを握った状態のまま、沈黙を守り続けるスティーブンにレオナルドは何を思ったのか、見る見る内に顔色を蒼白にさせて「違うんです!」と言わんばかりに俊敏な動きでナマエから後退っていくのだから、一時停止から解放されたスティーブンはごちゃごちゃに掻き乱される感情を押し潰した溜め息を吐くしかなかった。スティーブンと居るときに漂うような、溶かしきれないどろどろの砂糖のように甘く蕩ける雰囲気は二人の間に皆無。一目見ればそんなことすぐに理解出来る筈なのだが、瞬きを繰り返す度腑の縁から煮えるような胃のむかつきは増していく。なので疚しいことをしてる訳でもなし、そんな顔しなくても取って食いやしないさ少年――とはスティーブンは言えなかった。イチャつくカップルのようなシチュエーションをスルー出来てしまう程、スティーブンは出来た人間ではないのだ。一人わかっていないような顔をしているナマエがこれほど憎たらしいことはない。スティーブンとて理解している。ナマエのレオナルドに対するそれは、現実にいない弟にするような世話焼き程度にしか思っていないのだと。事実一人っ子のナマエは自分より年下のレオナルドを弟だの何だのとよく比喩している。だが何処の姉弟に――稚児なら兎も角年頃の男女が――わざわざ手ずから食べさせてあげるような真似をする奴がいるんだ。ヘルサレムズ・ロット中を探し回り歩いたっていないぞそんなもの。わかっていると心中で言い訳をしながらそれでもちっとも折り合いがつけられないのは、理性と感情が全く釣り合っていない証拠だろう。だからスティーブンは先まで頭を占めていたスポンサーに対しての痛烈な皮肉やら、引き出しの中で眠っているだろうショートブレッドのことなんかも、全て追い出すことに決めた。
「少年、ちょっといいかい?」
 だんまりを破って出来うる限りの優しい声色を心掛けたつもりだったが、レオナルドからするとそのやけに穏やかな声が恐ろしいったらないらしい。もしや裏で何かされるのではと思いつつ震え上がる足に叱咤して跳ね躍った肩で返事をするレオナルドが、スティーブンのいる扉の前までいつもより頗る重たい足を引きずりながら歩み寄る。今時死刑宣告を受けた囚人でもこんな酷い表情はしない。なにせ顔いっぱいに悲観が詰められている。半ば巻き込まれたに過ぎないレオナルドを見下ろしたスティーブンは、徐にレオナルドの右手を掴んで掌にチップを握らせた。
「昼休憩の途中で悪いがお使いを頼みたいんだ。ああ、何も急ぎじゃないからな――ゆっくりしてくるといい」
 大した金額ではないがちょっとしたお駄賃のつもりだ。言外に含んだスティーブンの意図に気付いたレオナルドが、千切れそうになるくらい首を可哀想な程縦に振って先程スティーブンが潜った扉から出て行った。ゆっくりしてこいというかあれでは暫く帰って来るなと言ったのも同義だ。食べかけのハンバーガー所か財布諸々の入った鞄を置いて音もなく飛び出して行ったレオナルドに、ナマエはクエスチョンマークを浮かべてこちらを振り返る。
「あんなに急いで出るなんて、レオ君何かあったんでしょうか?」
「いや、ただ僕がお使いを頼んだだけだよ」
 どうやら二人の間で交わされた薄ら暗い取引はナマエに聞こえていなかったらしい。きょとんと間抜け面を晒しているナマエから目を離さず、スティーブンは扉の傍からかつかつ革靴を鳴らしてソファーの前まで距離を詰めていった。ローテーブルに散らかったファーストフードの油っこい匂いがスティーブンの鼻腔をつんと刺す。このハンバーガーとポテトやらも、きっとレオナルドが散々遠回りをして帰ってくる頃には温いを通り越し冷たいにまでなっているだろう。だがどこまでも被害者なレオナルドを同情してくれる者はその場に限って誰もいなかった。いるのはどこまでも確信犯なスティーブンとどこまでも鈍いナマエだけだ。スティーブンは後ろ目に事務所の唯一の扉がぴっちり閉まっているのを確認して、それからわざとらしいまでに取ってつけたような声を上げながらナマエの背面をとった。
「へえ、チョコレートか。最近オープンした店のものだね」
 小箱に印字された文字は最近雑誌でも取り上げられた店の名前だ。見覚えがある。情報代わりの女がやたらデートはここに行きたいと誘ってきた店だっけか、と思考を巡らせたスティーブンが問う。あのときはどうだったか。店の名前を知っていてもスティーブンには店のチョコレートを食べた覚えがないので、結局デートをする前に言い出しっぺの女は用済みとなったんだろうことは窺い知れた。
「あ、もし良ければスティーブンさんも食べますか?」
 まだいくつか余ってるので――そう言いながらナマエが閉じたばかりの蓋を、まるで宝石箱にするような丁重さを以てして開ける。酸化した油っぽい匂いから、途端に艶のあるチョコレートの甘やかな香りへと塗り替えられる。甘いものは別段好きではないスティーブンでも、質の良いカカオの香りは素直に食指の動きそうな代物だった。と言っても食指が伸びた本当の理由は別のところにあるのだが、ナマエはスティーブンの意図に気付いた様子が欠片もない。というのもナマエの座るソファーの裏手に周り込んで背凭れ越しに屈んだスティーブンの距離は存外に近く、ナマエはスティーブンの吐息が時折首筋を擽られるのに、照れればいいのか離れればいいのか迷うのに忙しいようだった。ナマエがレオナルドの口に入れたものは一体何なのか見る為、とそれらしい理屈を並べ立てたスティーブンがわざとそうしたのだとは言えまい。
「シャンパーニュとアマレット、それとオレンジリキュール。どれが良いですか?」
 挙げられた銘柄はどれも著名な洋酒だ。こういう本格的な店のチョコレートというのは市販のものよりアルコール成分が多いのを、果たしてナマエは知っているのか?疑問は水のように飲み込めなかった。「…君、お酒飲めないだろう」揶揄も過分に含んだスティーブンのそれはナマエを十二分に怒らせるものであったらしい。
「…!ば、馬鹿にしてるんですか!ちょっとの洋酒くらい平気です」
「ふうん、じゃあ、折角だしシャンパーニュを貰おうかな」
 なにが「折角」なのか。自分で言って置いて白々しいな全く――そんなふうに内心嘯くもスティーブンにとって都合よく運ばれていく事に真っ黒い腹は隠してにっこり笑う。貰おうかな、と言った癖して摘まれない一口分のチョコレートが未だ箱に収まったきりなのに、ナマエが小首を傾げた。
「あの?食べないんですか?」
「ん?君が食べさせてくれるんじゃないのか?――少年にやったみたいに」
 少年、を強調したのも嫌味ったらしい言い方になったのも間違いなく濁りきった感情からなのだが、スティーブンは尽きることのない自分の欲深さを表面的な仮面で隠した。目を剥いて狼狽するナマエは心底そんなつもりはなかったのだろう。だがもし相手がレオナルドじゃなくザップなら問答無用で今頃君を組み敷いているところだ――これぐらいの意趣返しは認められたっていい筈だ。
「!?いやっ、あれはその、特に理由はなくて」
「ただの友人関係である少年には出来るのに、恋人の僕には出来ないのか。君は全く酷いなあ」
「っわ、わかりましたよ…!」
 逡巡するナマエの指は暫し迷ってチョコレートを拾い上げようとしないので、スティーブンはうすい唇を上下に開いてわかりやすく催促をしてみた。押しに弱く何だかんだ言いつつもスティーブンに滅法弱いナマエは、そうまでされるともうやるしか道は無くなってしまう。レオナルドにやるのとスティーブンにやるのとでは、レオナルドには申し訳ないけれど随分違うのだと恐らくこの恋人は知った上で物分かりの悪いフリをするので、ナマエは大人しく一口分のチョコレートを摘み取りスティーブンの口へ運んだ。スティーブンの唇はナマエの指ごと挟んで口腔に入れた。
「ん。これは中々美味いな」
 カリッとチョコレートを食んだ瞬間に実の弾けたような、洋酒がふんだんに使われた柔らかなガナッシュの香りがスティーブンの鼻腔を突き抜けた。雑誌に取り沙汰されるだけあって味は評判通りらしい。人肌に触れては一瞬で溶けたチョコレートを飲み込むスティーブンを仰ぎ見てこれで満足か、とナマエの表情が物語る。それからすぐさま指を引き抜こうとするのをスティーブンの骨ばった手が阻止した。ナマエの手首を緩く掴み上げたスティーブンがちらりとナマエを見下ろし、口内に入った指へ徐に舌を這わす。
「――っ!」
 ぬるり、とナマエの人差し指に僅かにへばりついたチョコレートの残滓を余すことなく、スティーブンの滑らかな舌は丁寧に拭き取るように舐っていった。ねっとりとしたまるで閨事のときのような舐め方にナマエはいつしかの夜を勝手に連想させて、頬をじゅくじゅくに熟れ過ぎたトマト色へ染め上げる。レオナルドにお裾分けしたトリュフみたくココアパウダーはかかっていないのだから、スティーブンがそんな丹念に舐め取ってやる必要はない。つまりわざとだ。華奢でしなやかな指がスティーブンの舌に絡み吸い付いて、ナマエの丸い爪先にキスをする。ちょっとした仕置きのつもりでもあった悪戯を、たっぷり楽しんでからスティーブンは漸く舌を離した。燻ぶっていた腹の虫は幾分かおさまったらしく、スマートな大人の余裕を持った笑みが携えられている。
「ごちそうさま」
 くらくらとお酒を飲んでもいないのに酔いそうになる思考の中、スティーブンのその台詞が果たしてどちらの意味を持っているのかナマエにはわかりそうになかった。

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