窓枠の外側からそよぐ光はやわらかな暖かさを持っている。湿気て冷えた空気は相変わらずだが、霧の烟るヘルサレムズ・ロットにしては日の量が多い気もする。もうそれなりの期間を太陽に当たらない街で過ごしたナマエは、水の匂いに混じって反射してゆく日に少しの寂寞を感じて、勤務前の静謐さを帯びた執務室からバルコニーへとつい足が伸びた。クラウスが育てているという鉢植えの数々も、霧の曇天より少しでも明るい方が嬉しいに決まっている。ちょっとだけなら。心中で誰ともなしに言い訳を繰り返したナマエがほう、と息を吐いた。子供がするみたいにフェンスの向こう側まで手を伸ばす。ささやかな暖かさはその手を受け止めて、ナマエの指先に触れた。
「おはよう」
「ひいっ?!」
 瞬間、間近で耳朶に響いた低い声と触れた癖っ毛の感触に甲高く悲鳴を上げた。ナマエが諸手どころか上半身を外へ投げ出しそうになったのを、意図的に気配を殺していたスティーブンが引き上げる。飛び上がった肩の強張りと、色々な意味での胸の高鳴りは暫く解けそうにない。
「ス、ティーブンさん…っ!?」
「危ないなあ。君、僕が抑えてなきゃもう少しで落ちるところだったんだぞ」
 えええスティーブンさんが近付かなきゃこんなことには!殆ど叫びに近い反論は、舌で丸め込んで押し込んだ。こんなふうに何の意図もなく(ないよね?)近寄られると困る――というのは建前で本当は嬉しかったりするのだから、かなり複雑なのだ。ああでもやっぱり困るかもしれない。挨拶だけであんなにも色気を出せるなんて知らなかった。出来ればもう二度としないで欲しい、一々飛び上がっていては身が持ちそうにない。スティーブンがこれを知れば「飛び上がらなくなる日は来ないのか?」とでも言いそうだ。夜のしじまのように穏やかだった心臓が、スティーブンによって途端に大きく波打つので、ナマエはどういう表情をすべきか一寸迷った。スティーブンもスティーブンでわかってやっている訳だが、ナマエがそれに気付くのは恐らく当分先のことだろう。もしかすると一生来ないかもしれない。何秒か悩んでからナマエはとりあえずお礼を言うことにした。何はともあれ助けられたのは事実なのだから、言うべきだよね。
「えっと、あの…ありがとうございます…?」
「どういたしまして」
 語尾に隠しきれなかった戸惑いが含まれてもスティーブンは我関せずだった。この分だと不服を漏らすどころか追求も出来そうにない。「こんなところで何してたんだい?」てっきり仕事しろと言われると思っていたナマエは目を瞬かせる。談笑の続きそうな問いかけにうまく答えられずにいると、スティーブンは僅かに肩を竦める動作をして苦く笑った。
「勤務時間の前にまで仕事しろとは言わないさ」
 ナマエにとって僕はそんなに仕事の鬼に見えるのか?別に好きで徹夜してる訳じゃないんだが――不満を内心ぼやいていれば、自分の徹夜に付き合ってくれていたナマエのことをふと思い出して、スティーブンはなにも言えなくなった。止めよう、言ったって説得力が無い。そう帰結させて言いづらそうな様子を見せるナマエの反応を大人しく待つことにした。
「あの、大したことじゃないんです。日差しが暖かいなって思いまして…」
「日差し?」
 思わず空を見上げる。スティーブンの目にはいつも通り霧で曇った空しか見えない。確かにいつもよりかは多少視界が良好だが、それまでだ。いずれにしても日差しを感じる程ではない筈。
「日なんてここまで届くのか?」
「ええっと、今日はいつもより明るいからそう思ったんですけど…手を翳すと暖かいなって」
 心底不思議そうなスティーブンの表情を見てもしかして勘違いだったかも、とナマエは今になって恥ずかしさが込み上げた。しかし言ったからにはもう取り消せない。こうやって、と言いながら再度手のひらをフェンスの外側に乗り出してみると、またもやぐいっと腕を引っ張られた。
「だから危ないだろう?」
「わ、こ、子供じゃないんですから…!」
 落ちません!と胸を張って言えないのはここが何が起きてもおかしくないヘルサレムズ・ロットだからか。突如として異界生物が現れフェンスを破壊した、となってもありえる街で全否定は出来ない。完全に子供扱いのそれだ、とは思いつつも沈黙する。掴まれた腕がシャツ越しにもわかる程熱い。ナマエとは似ても似つかない、スティーブンの大きくて骨ばった手がゆるく指に絡んだ。フェンスから身を起こしても離されない手に、頭の中を駆け回って沈黙の気まずさを回避しようとしていたナマエの思考は、恥ずかしいやら嬉しいやらで真っ白に塗り替えられていく。まさにキャパオーバーを起こす寸前だ。微量な太陽の光よりもいまは自分の頬の方が温(ぬく)いに違いない。ぐるぐると目を泳がせるナマエを見て、スティーブンは不意にわざとらしく声を上げた。
「そろそろ、仕事しようか」
 そっと外された手にさっき以上の寂しさを感じたのは、きっと気のせいなんかではない。もっともっとと、欲張りになっていく自分を叱咤して顔を上げかけたナマエは、頭部に一瞬感じた温もりに「へ?」と間抜けな声を零した。
「――ナマエ?どうしたんだい?」
「い、いえ!なんでもないです!」
 自分の触覚が正常に働いているのであれば――あれは間違いなくキスだ。いやいや、単純にぶつかっただけなのかも。キスだとかまさかそんな筈ない。ああでもやけにリアルだ――パンクしそうな程のせめぎ合いが胸中を支配する。不自然に固まった身体がスティーブンの声によってぎこちなく動き始め、ナマエはバルコニーから執務室へ足を戻した。どぎまぎしてるのは自分だけだ。なんの変化もない、いつも通りのようなスティーブンの様子を見て、それでも前髪の辺りに一瞬触れた感触が、勘違いなんかじゃなければいいとナマエは思った。

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