※恋人設定

 デートしようか。まるで今日は雨が降ってるね、と言うときと同じ声の調子で言ってのけたスティーブンの台詞に、ナマエはあまりの衝撃で思わず声がひっくり返ってしまった。恋人同士となってからも、主にスティーブンの仕事の都合で二人で出掛けることなどあまりなかった為、嬉しさや喜びよりまず先に「仕事は大丈夫なんだろうか?」という余計な心配がついて来てしまう。まかり違っても恋人が心配する事柄ではない。不安のままそれをそのまま口に出したナマエの答えが余程心外だったのか、スティーブンは半ばムッとさせた表情を作った。
「久しぶりに半休が取れたんだ。まともに恋人らしいことも出来てなかったからね、デートがそんなに意外かい?」
「いえ、そんな訳じゃ…。ただ休みが取れたならゆっくり休んだ方がいいのでは」
 窺うような声色でそう零したナマエの口の動きが止まった。普段忙しすぎる程に忙しい恋人が単に心配だっただけなのだが、どうやらスティーブンはそう捉えてくれなかったらしい。スティーブンからしてみれば花が綻んだように笑うその反応を期待していただけに、渋った(ように見える)ナマエに対してあからさまに機嫌が悪くなっていった。
「君はデートしたいのか?したくないのか?」
「したいです」
 にっこりと笑うスティーブンの奥底に何か別のものがあった気がする。殆ど反射に近い即答をしてしまい、だだ漏れの本心にナマエがはっと口を噤んだ。心配の気持ちは確かに本物なのだが、胸の奥底から膨れ上がっていくじわりとした喜びはどうにも隠せそうにない。気恥ずかしさのあまりナマエは資料に目を通す振りをした。バイヤーに麻薬組織、ドラッグパーティーによるヒューマーへの影響及び被害…同封されていた写真が思っていたよりグロテスクだった為、ナマエはすぐ資料を閉じた。夢に出てきたらどうしよう。どうでもいい心配が頭を過ぎる。スティーブンがそんなナマエの様子を見て穏やかに笑い、ギルベルトが淹れてくれた新茶葉らしい紅茶を啜った。カップをソーサーに戻す頃には、先程まで心中を蔓延していた苛立ちは消え、暖かな気持ちが同時に湧き上がっていく。スティーブンがムッとした表情から大人の余裕が窺える表情に戻った。
「なら今日、夜迎えに行くから君は自宅で待っててくれ」
「そんな、わざわざ…」
 謙虚は美徳になるが行き過ぎると逆に卑屈を感じる。スティーブンは申し訳なさそうに小さくなるナマエを一瞥して、有無を言わせない笑みを口元に浮かべた。
「いや、僕が迎えに行きたいんだ」
 大人の色気成分たっぷりだ。諸に直視してしまい途端に熱を持つ頬に、ナマエは果たして自分がちゃんとお礼を言えたかどうかわからなかった。



 夕方前に仕事が終わり一旦家に帰るまで三回は蹴躓いて、その内二回は地面とキスする羽目となった。羽根でもついているのかというぐらいふわふわに思考が飛んでいく心地がし、口元はだらりと緩んでいる自覚がある。あれからスティーブンさんにも半ば呆れ顔で指摘されたけど、弛みきった頬はどうしようもないし、その頃にはもう恥ずかしさより嬉しさが勝ったのだ。足取り軽く歩き、デート用の服をどうしようかと今になって悩みながら、クローゼットの中身を頭の中でひらけていく。たったそれだけのことなのに楽しくて仕方がないのだから、わたしの頭の作りは単純だなあと思う。感覚としては旅行前の高揚感に近い。スティーブンさんとのデートは海外旅行一回ぐらいの価値がある気がするのだ。悩むだけの猶予は沢山ある、けど新しく服を買いに行く時間まではない。というかあっても優柔不断なものだから、結局決められず時間ギリギリになって慌てそうだと思い直し、素直に帰路につくことにした。自宅へ戻って大慌てで選んだ服は、シフォンワンピースにボレロの、いつもより女の子要素多めな至って普通のコーディネートだ。化粧を直す時間も考えたらやっぱりそんなに時間は残っておらず、わたしはショッピングを諦めた自分の判断力に感謝した。
「…どうしたんだろう」
 最後の仕上げにとリップを塗り直し、鏡で三回くらい変なところがないかチェックしてからもう三十分は経っている。約束の時刻は丁度三十分前なので、もしかして何かあったのかもしれないと不安になり、やがてそれは一秒毎に膨れ上がっていった。置きっぱなしだった携帯を手に取り開くと、ちかちかとなる蛍光色のランプがメールが来たことを知らせてくれる。若干の嫌な予感がしつつも新着メールを開けば、簡素な文章が目に飛び込んできた。
「すまない、急遽仕事が入ったから行けそうにない」
 宛名を見ると間違いなく「スティーブンさん」と表示されていて、それが現実なんだとわたしに容赦なく思い知らせてくる。今朝からじわじわと込み上げていた歓喜は波が引くように静かになって、代わりにとでも言わんばかりに胸を締め付けるような苦しみがわたしを襲った。仕事。それなら仕方ないじゃないか。寧ろスティーブンさんに休みが無いことの方が大変だ。言い聞かせるように繰り返した理性の塊は、いつの間にかディスプレイを汚した滴によってあえなく決壊した。ぼたぼたと遠慮なく落ちた涙は文字をなぞっていた目を滲ませ、わたしの視界を眩ませる。それと共に普段表に出ることのない我が儘なわたしがひょっこり顔を出して、携帯を支えたままの指がボタンを打って、スティーブンさんを責めたてそうになる。でもそれだけはしたくなかった。スティーブンさんがどうにも出来ないことで彼を詰ったって、双方に傷跡を残すだけだと理解していたから。だからわたしは「わかりました。お疲れ様です」とだけ文章を打ち込んで、スティーブンさんへメールを送信させた。なけなしの理性が「どうして」と打ちそうになる指を止めたのだ。コーラルピンクのワンピース、比較的いいお値段のしたボレロ、念入りに解かした髪に色付いた頬。どうしてこうなる可能性を考えなかったんだろう。全てが無駄に終わって、着飾った姿を一番に見て欲しい人はきっと今頃必死に仕事をこなしている筈だ。意気消沈したわたしの心はそのまま出掛ける気にもなれず、それなら化粧を落とさなきゃとはわかっていたが、重い気持ちと共に身体はベッドに沈んでいた。完全にふて寝の体勢だ。翌朝ベタつく肌に後悔するのは確実だというに、この年にもなってやることが子供っぽいとは自分でも思う。それでも良かった。今だけは馬鹿でいたい。
 スティーブンさんのゆめを見た気がした。



 最悪だ。スティーブンは珍しくわかりやすく悪態を吐いた。既に時計の針は十二を回っており、いつも徹夜になると仕事に付き合ってくれるナマエはそこにはいない。当たり前だ。もう仕事がないからと先に帰したのは自分で、気恥ずかしそうにしながら「待ってますね」といじらしい台詞を残していったナマエに、「あと一時間後ぐらいに向かうよ」とその華奢な背中を押したのも自分なのだから。急な仕事が入ること自体何も珍しくもないのだが、もう少しタイミングを考えて欲しいと意味の無いことを考えてしまうのは許して欲しい。急ぎメールだけをナマエに送って半ば八つ当たり気味に騒動の元凶である異界人共をブチのめし、色々再起不能になった中身の詰まった氷の塊を見ていると、段々と嫌でも思考が冷えてくる。顔だけでも見たい。とっくに冷静を取り戻した思考の中でも、その考えだけは変わらなかった。だからその足でそのままナマエの住んでいるアパートへ向かって、途中謝罪の意味を込めて遅くまでやっているという花屋に寄りささやかな花束を買った。君の情報が役に立ったよクラウス、ありがとう。心中でクラウスにお礼を呟きながら、存在感の有り余る氷の像を後目に、後片付けは明日に回そうとスティーブンは自分に少しだけ甘くすることにした。
「わかりました。お疲れ様です」
 スティーブンのメールに対してのナマエの返事はたったこれだけだ。読む人によっては淡白だの言う人もいるだろうが、スティーブンはそのたった一行に隠し切れていない落胆を感じ取ったから、だから多分こんなにも会いたいと思ったのだろう。今更迷惑かもしれないし既に寝ているかもしれない。合い鍵など持っていないのだから、顔を見ることも出来ず帰る羽目になるかもしれない。それでも良い。大人のプライドも手伝ってスマートさを保っていたスティーブンは、今日この日に限ってそれをかなぐり捨てた。今だけは物分かりの悪い馬鹿でいたかったのだ。道を覚えていた足は真っ直ぐ階段を登り、アパートの部屋番号を確認して戸の前へ立つ。インターホンを鳴らすが出てくる気配がないのは、会いたくないのか寝ているのかのどちらなのか。スティーブンがまさかな、と思いつつドアノブを捻ってみると、それは存外あっさりと回りあっけなく開いてしまった。
「不用心過ぎだろう…!」
 開いたことに暫しぽかんとして、それから思わず口をついて声が飛び出てしまう。このヘルサレムズ・ロットでアパートの鍵もかけずにいるなど正気の沙汰ではない。あっという間に強盗が入り込んで、お金を奪われるどころかその身を強姦されたって可笑しくないのだ。いや、もしかすればもうそういった不埒な輩が侵入した後なのかもしれない。そう考えると居ても立ってもいられず、スティーブンは顔色を一変させて家の中へ飛び込んだ。
「ナマエ!」
 焦りの中で呼んだ名前にも反応はない。最悪の想像だけが頭の中を渦巻いていく中、次いで寝室に乗り込んだスティーブンは、シングルベッドを占領する存在に気付いて安堵と呆れの両方を含んだ息を吐いた。この場合は予想が外れて良かったとでも思うべきなのか?いや違うだろう、後で言って聞かせないとな。ベッドで寝転がっているナマエはスティーブンが近づいてもぴくりとも動かない。無防備さをさらけ出したナマエの頬は、触れてみればしっとりと濡れており、泣いていたのだとすぐ気付いた。うっすら化粧を施した努力の証と、女の子らしい服装はきっとデートの為のものであった筈だ。メールの返信で物分かりの良さを装ったナマエに、少しだけ寂しさを感じたのは全くお門違いだった。握り締めた所為で茎が萎れたブーケをベッドの端に置く。顔を見るだけで満足するつもりだった。だがいざ顔を見ると、涙の跡の残る頬に、艶めいた唇に触れたくなる。思い付きのまま膝をベッドに乗せるとぎしりと軋む、スプリングの安っぽい響きがぐらりと欲を押し倒しそうになるのに何とか留まらせて、スティーブンは常よりぷっくりと濡れているナマエの唇に、やわく口付けだけを落とした。
「ごめん」
 そう呟いて頬の跡をそっとなぞる。あんなにも喜んでいたのにぬか喜びで終わらせてしまった。それが何よりも心苦しくてスティーブンの奥を苛んでいく。罪悪感とやらはチクチクとスティーブンの僅かに残った良心を的確に刺す。――手に入っても、うまくいかないもんだな。そうひとりごちて、腫れた瞼にこれが最後だとばかりひとつキスをした。それからスティーブンはベッドから退き、ゆっくりと名残惜し気に寝室の戸を閉める。次はどうしようか。いっそのことデバイスの電源を切っておくべきか?笑えない半ば本気のような冗談を考えながら、スティーブンはアパートの扉を入ったときとは対照的に静かに閉めた。
「あ」
 鍵、持ってないんだった。今更気付いた事実に自分で愕然となる。まさか鍵のために部屋の中を漁るなんてことは出来ない。かといって鍵をかけずに放置はもっと出来ない。ドアノブに手をかけたまま思わずうなだれる。
「…ああ、最悪だ」
 結局スティーブンはナマエが起きてその姿に声を上げるまで、一睡もすることが出来ず玄関前に座り込んでいた。

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