※まだステブンが自覚する前

 ボールみたく弾みかけた声が止まった。異界人も人間も入り混じる何もかもをミキサーでかき混ぜたような、ここヘルサレムズ・ロットの大通りで、偶然見かけた後ろ姿に馬鹿みたいに喜んでいる自分に笑ってしまいそうになる。それでも隠しようがない高揚に、こんな人混みの中で見つけられたことに感謝して、声をかけてみようかと勇気を乗せた一歩は地面に糊でもついていたのかのようにへばり付いて動かなかった。綻びかけた笑みが固まり頭の中は警鐘が絶えず鳴っていて、逸らしたくとも逸らせなかった視界に映るのは、スティーブンさんと知らない女のひとが寄り添ってホテルへ入っていく二人の姿。
「スティーブンさん…?」
 スティーブンさん程顔が整っていてスマートで仕事も出来る人なら、好い人がいたって何らおかしくないと――わかっていた。でもいざそれを目の当たりにすると、自分でも受け止め切れない程ショックを受けていて涙すら出ない。スティーブンさんの腕に抱きついていた女の人は、遠目からでもわかるぐらいきらびやかで綺麗な人で――それこそ完全にラフスタイルのわたしとは全然違う。周りの人たちはよくお金持ちだとかお嬢様だとか、わたしをそういう風に例えるけれどそれはクラウスさんのような家柄の良い人が許される言葉であって、考え方も金銭感覚も庶民派なわたしには全く当てはまらないのだ。節約だって普通にするし服やアクセサリーには心惹かれるけど、必要でない限り無闇矢鱈に買ったりしない。父とその会社が凄いだけで、わたし自身は何もないただの矮小な人間だ。元から釣り合いっこないのに何を期待していたんだろう。そもそも最初こそわたしというお荷物を押し付けられて、スティーブンさんだって迷惑していた筈で、今だってどんな気持ちなのかわたしには推し量ることが出来ない。偶にするようになったスキンシップだって、きっと彼にとっては子供にするそれと同義なんだろう。それなのにわたしはスティーブンさんの優しさを勘違いして、どんどん好きになっていって、でも女の人がいるとわかって勝手にショックを受けている。ただの我が儘だって嫌という程理解しているのに、気持ちはいつまで経っても追いついていかなかった。



 スティーブン・A・スターフェイズは苛々していた。書類に綴られた小さな文字を目で流していきながら、お留守になっていた左手は机を一定の間隔で叩きリズムを刻んでいる。不機嫌モード全開なスティーブンにザップやレオナルドが萎縮しているのに気付いていても、込み上げる不快さはどうしても止められそうになかった。こつこつと叩く指の動きは止めぬまま、スティーブンがペンを紙に滑らせて書類を仕上げていく。一段落ついたところでふうと息を吐くと、少し離れたところからじりじりと焼けつくような視線を感じた。半ばうんざりしながらスティーブンが顔を上げればナマエがこちらを見ている。それも、こっちが目を合わせた途端にわかりやすく目を逸らしていく。
 何故避ける。
 仕事上必要な会話は交わす。ただ目を合わせなかったり、最近増えた些細な会話をしなくなったことぐらいだ。これでは最初の頃に逆戻りだと思うと苛々は益々募っていく。
「(いや待て、何故苛々する必要があるんだ?)」
 こっちがナマエを見ていることには気付いているだろうに、頑なに目を合わせようとしないナマエが腹立たしい。少年やザップには普段通りなのに何故か俺にだけどことなく余所余所しい。それだけだ。寧ろ余計に話しかけられることもなく仕事に集中出来るんだから万々歳じゃないか。そう思うのに相変わらず叩く指は止まないし、さっきから文字を追う目は滑りっ放しだ。これでは集中出来るものも集中出来ない。手付かずだった冷めた紅茶を飲み干し、スティーブンは気分転換に外へ出ることにした。ついでにサブウェイへ寄ってお昼を買ってこよう。それがいい。きっとそうしている間に苛々は立ち消えている筈だ。
「ザップ、少年、僕はちょっと出てくるから何かあれば連絡するように」
「ハイ」
「うっす」
「それとナマエ」
 いつもよりか細い声で返事が返ってくる。その間にも苛立ちは沸々と湧き上がり、スティーブンは声に棘が入らないよう苦心した。
「机に置いてある書類を纏めておいてくれ」
 まるで八つ当たりだ。ナマエでは到底処理仕切れない程の量があるそれに、レオナルドが自分がやる訳でもないのにうっと顔を歪ませた。



 思っていたより店が混んでいたので遅くなってしまった。スティーブンがサブウェイを注文し終えライブラへの帰路についていた頃になると、あのむしゃくしゃとした気持ちは前よりも凪いでいた。そら見ろ、やっぱりただ疲れが溜まっていただけなんだ。スティーブンはナマエに年甲斐もなく理不尽に当たってしまったことに、少しだけ申し訳なさを感じた。帰ったらサブウェイを分けてやろう。スティーブンの持つ袋の中身は二人分のサブウェイが詰め込まれていた。事務所に着きドアノブを引けば、そこにはせっせと書類整理をしているナマエの姿がここからでもよく見える。ザップとレオナルドは今はちょうど席を外しているようだった。
「ナマエ」
「うえっ!?あ、は、はい…」
 スティーブンが室内に入っても気付いてないようだったので、ちょっとした悪戯のつもりで背後からこっそり近付いていく。度重なる戦闘から培った技術で無駄に気配を殺し、ぽんとナマエの肩を軽く叩くと、華奢な肩は飛び跳ねて思い切り振り返られた顔は真ん丸く目が開いていた。久方ぶりに見たような気がするまともな反応に、じんわりと癒えていくような――文字通り苛立ちは立ち消えていく。今まで感じたことのない不可解な感情に心中で自分の首を傾げながら袋をローテーブルへ置いた。漸く自分へ反応を見せてくれたかと思えばそれは一瞬で、ナマエは書類を両手に抱えながら目を気まずそうに泳がせている。
(ああ、まただ)
 癒えていった筈の苛々は再びスティーブンの中で火を灯した。そしてそれは、スティーブン自身すら思いもよらぬ方向へ刃となって剥き出す。
「あっ、あの…わたし…ちょっとお昼買って来ますね!」
「ああ、それならその必要はないよ。君の分のサブウェイも買ってきたからね、遠慮せず食べるといい」
「えっでも…」
「――あのさ」
 合わさらない視線。逃げようと後退する足。いつの間にか心地よく感じていた声は、スティーブンの都合の悪いことばかりを吐き出す。それよりももっと不可解なのは、それを気に入らないと思い始めた自分の感情だ。すうっと温度を無くしていく双眸がナマエへ容赦なく突き刺さる。
「さっきから何故逃げようとする?目も合わせようとしないし、僕が何かしたか?」
「っいえ、すいません…違います。違うんです…」
「なら何が原因だ?」
 これだけ追い詰めても話そうとしないナマエの顎を掴む。強制的に合わした視線が混じり合うと同時、ナマエが堪えきれず、といった様子でぽろっと目尻から一筋涙を落としていった。さめざめと泣きながらただ謝りの言葉だけ連ねていくナマエを見て、スティーブンは自分のカッとなった熱も引いていく心地がした。やってしまった。こんなつもりではなかった。泣かれるのは面倒だと今まで思っていたというのに、今ナマエに対して感じている感情は困惑だ。泣かせた罪悪感と早く泣き止んで欲しいという気持ちはスティーブンの中で混ざり、融解していく。
「ごめ、なさ…すぐ泣きやみますから…っ」
「…いや、今のは僕が悪かった。もうしないよ。さあ、泣き止んだら一旦小休憩を取ろう。折角のサブウェイが冷めてしまう」
 こうなってしまえばもう問い詰めることも出来ない。ハンカチを差し出しながら、己でも吃驚する程余裕のない自分に、脳髄に直接刻み込まれたかの如く離れないナマエの泣き顔に、スティーブンはひたすら振り回されていた。

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