山を作っていた書類の束が夜通しの作業のおかげで減り、ナマエが書類の端を揃えてホッチキスで止めた頃、既に外は墨を塗りたくったように真っ暗だった。定時を過ぎてスティーブンからは帰っても良いと言われていたが、この量を前にスティーブン一人残して自分はぬくぬくベッドへ、などということが出来る程ナマエは器用でない。手伝いますと言ったフレーズだけは耳障りが良いが、好きな人の側にいたいという、ちょっとした下心も混ざっていないとは言えなかった。重く波のように迫り来る眠気と欠伸を必死で噛み殺しながら、眠気覚ましにコーヒーでも淹れてこようかなとナマエがソファーから立ち上がる。こんな夜更けに当然ギルベルトはいない為、コーヒーを淹れるのはナマエだが無いよりマシな筈だ。落ちそうになる瞼に気を張って持ち上げ、ナマエはスティーブンの方へ振り返った。
「スティーブンさん、コーヒー飲みますか――ってあれ?」
 寝ている。
 事務所兼執務室の役割を持つそこの、大きめの机二つの内一つはスティーブン専用だ。そこを陣取った幾分か減った書類を前に、スティーブンは机に肘をつけてかっくんかっくん首を揺らしている。
(…かわいい)
 三十路の男に対しての感想でないと充分わかっていたが、そう思わずにいられなかった。不安定な態勢で寝ている為その内頭がずり落ちそうだ。わたしなんかより数倍忙しく、デスクワークと戦闘をこなして文字通り身を粉にしているのだから、余程疲れているのだろう。そんな状態のスティーブンを起こすのは忍びなかったが、そのまま寝てしまえば風邪をひく可能性だってある。せめて仮眠室で眠って欲しいと、ナマエはスティーブンの肩をそっと掴み声をかけた。
「…スティーブンさん、起きてください。風邪ひいちゃいますよ」
 肩を掴んだぐらいだが、こうして自らスティーブンに触れるのは初めてだったナマエは、スティーブンからふわりと香る男物の香水の匂い――これはムスクだろうか――に眠気も何もかも吹っ飛びそうだった。ドキドキと高鳴っている心臓が口から飛び出そうで、ちょっと触れただけでこれなのだからその先はどうなってしまうんだろう、とあらぬ妄想を繰り広げてしまいそうになる。そんな自分を叱咤して、少しだけスティーブンの肩を揺らしてみると、起きるのを躊躇うような呻り声を僅かに漏らし、それから存外早くスティーブンはその身を起こした。
「あ、スティーブンさん起きました?眠るなら仮眠室に行かないと。それかコーヒーでも」
「…ナマエ?」
 ちょっとだけ残念だと思いながら、スティーブンの硬く骨ばった肩から手を離したナマエがスティーブン用の空いたカップを手に問いかけて、止まる。
「ナマエ――頼むから、俺から離れないでくれ」
 触れた指が、とてもあつい。
 引き止められた手をまるで解すように絡められ、カップが手から零れ落ちた。陶器製のそれは鈍く床にぶつかったことから、割れていないことだけが辛うじてわかりしゃがみかける。ナマエが落ちたカップを拾おうとするのを阻止するかのよう、スティーブンは絡め取った指に力を込めて強く引き寄せた。勢い余って机についたナマエの手が積んであった書類をつつき、折角綺麗に揃えた書類も何のその、ばらばらに落ちていくのにもナマエは反応することが出来ない。机を挟んだ距離だと云うに、まるで二人の息は混じり合う程に近くて熱っぽい。余りに突然の接触に目を白黒させたままのナマエが、声を上げて制止するよりも先に、スティーブンの唇が吐き出された甘く感じる程に熱い息と一緒に、ぼんやりとした夜の淡い雰囲気の中でも映える、花びらにも似たナマエの赤い唇をそっと食んだ。
「ん…え?」
 ぽかんとした、状況を把握出来ていない様子のナマエに思わずスティーブンは笑ってしまいそうになった。最初こそは過密なスケジュールに疲労し、本気でうたた寝していたスティーブンだったが、ナマエに肩を揺すられたあたりで、もう完全に頭は覚醒していたのだ。それを知らないナマエはスティーブンが完全に寝ぼけてやったのだと、そう思っているに違いない。スティーブンが例え本当に寝ぼけていたとしても、理性が根本に根付いているので軽々しくキスなんてしないのだが、それを知るのはスティーブンばかりである。本当はちょっとからかうだけのつもりだったのだ。普段女へ囁くように、切なく溜め息を吐きながら甘言をナマエに囁いて、どんな反応をするのか試したかっただけなのに――妙に色づいた唇から目を離せなくて、気付けば衝動のまま唇を近付けていた。思い付きで行動する辺り、きっと思っているより疲れていたに違いない。自分に言い訳を施したスティーブンは、目の前で頬を熟れた林檎のように赤くさせたナマエの口が、わなわなと開閉していくのを見やる。触れたナマエの血色の良い唇はしっとりと濡れており、味などしない筈なのに今までどの女のものより柔く甘い感触がした。空いた手がナマエの項へ手をかけ、そのまま貪るように吸い付きたくなるのを堪えた、スティーブンの手が机の下で握り拳を作る。剥き開いた目がナマエのそのままの感情を表すようにきょろきょろと泳いで、しなやかな腕がスティーブンの肩を突っぱねた。
「な、な…なにを…」
 やっと今自分が何をされたのか把握したらしいナマエが困惑し、様々な感情が綯い交ぜになったような表情をした。確かにスティーブンのことは好きだが、こんな寝ぼけてのキスは望んでないのだ。相手が相手な上、この状況では怒ることも責めることも出来ず、ぱくぱくと声にならない声が出るだけで――異様に速い心拍数なのは計らずともわかる。そうやって想いは一方的なのだと、最初から決め付けて思い込んでいるナマエにスティーブンは緩みかけた口元を引き締めた。――ああ、可愛いな。本当に。漏らしそうになる本音は胸の奥に封をした。ナマエにはスティーブンが寝ぼけたままだと、そう最後まで勘違いして貰わないといけないのだ。このままの流れで告白したって構わないけれど、どうせならもっと俺を好きになって貰ってからがいい。それに時折悪戯のようにナマエへ触れて、ナマエが自分に翻弄される様を見ているのも悪くない。さらりと揺れる黒髪を撫でただけで恥ずかしそうに睫を伏せたり、今の反応だけでもナマエが自分へ憎からず想ってくれていることは十二分にわかっている。それでもスティーブンとしてはこのまま気付かない振りを続けて、焦らして焦らしてナマエが堪えきれなくなった頃に、泥濘に浸れる程どろどろに甘やかしてやりたいという、ある種の感情が先行していた。それに男慣れしていないのだろうどこまでも初な反応は、見ていて楽しくからかい易いものがある。自分にこんな嗜虐性溢れる願望があったとは驚きだ。一応紳士に振る舞っていた筈なのに、これでは認識を改める必要があるかもしれない。
「スティー、ブンさ…っまだ寝ぼけてるんですか?!」
 すり抜けていく手が、離れていく温もりが惜しい。態とらしく目元を揉み解し、たった今起きたと言わんばかりに丸めていた背を起こすと、ほっとしたような表情を浮かべているナマエが見える。それに何となく苛ついて、これ以上からかうのは止そうと思っていたというに、結局止めないのだから救いようがない。
「ナマエ?あれ、まだ起きていたのか?」
「スティーブンさんが寝るまでは手伝うつもりだったんですけど…というか寝るなら仮眠室に行ってください!」
 思い出したのか、薄く紅潮を見せる火照った頬のナマエへ手を伸ばして、それがどれくらいの温度を持っているのか確かめたくなる。ぐらりと傾きそうになる欲へ蓋をしたスティーブンが「ん?」と作為的に首を傾げた。
「顔、赤いけど何かあったのかい?」
 わざと張り付けた不思議そうなスティーブンの表情に、物言いたげに開いたナマエの口は声にならず、瞬きをする目は大きく見開いている。震える睫も戦慄く唇も、自分に振り回されているナマエの表情すら、全て己だけのものにしてしまいたいと思うのだから、かなり重症だ。
「…な、な…何でもないです…コーヒー入れてきます…」
「ああ、ありがとう」
 ナマエは知らない。自分ばかりがスティーブンに踊らされ、翻弄されているように思うナマエが実のところ、その存在だけでスティーブンを振り回しているということに――落ちた書類を拾い上げ、目を通す傍らでこっそりと薄く笑う悪い大人は教えてくれないのだ。

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