ヘルサレムズ・ロット特有の奇怪な食材にも慣れた頃、わたしはというと今日は一日休みを貰っていた為買い出しに出掛けていた。慣れない仕事に脳が疲れているのを感じたので、女らしくウィンドウショッピングやらするよりまず甘いものが食べたいと、ふらふらスーパーへ吸い込まれるように入っていく。何処かのカフェに入っても良かったけれど、家でゆっくり休みたかったのだ。本邸では習い事なんかのオンパレードで礼儀作法にも厳しかったし、部屋でだらっとすることも中々出来ず毎日息が詰まっていた。でも一人暮らしのいま誰も注意する人はいない、休みの日くらい家でだらだらしてみたい!こんなこと人に知れたらささやかな願いだと笑われそうだが、それが出来るのは幸せだとつくづく思う。買うものは最初から決まっているので、カゴにほいほい品物を入れていき会計を済ませれば、レジ袋にはゼリーやプリンなどの甘いお菓子が沢山詰め込まれていた。今から食べるのが楽しみで堪らなくて、無意識の内に鼻歌を歌いながら帰路についていたわたしの頭上へ、影が横切っていく。
「え」
 “何か”なのかわからないソレは獲物を見つけたようにわたしへ目を向けて――
 刃を。
「エスメラルダ式血凍道」
 瞬間、強く腰を引かれて誰かの硬い胸板に鼻先をぶつけた。「絶対零度の剣(エスパーダデルセロアブソルート)」わたしの首を掻き斬ろうとしたそれが強烈な蹴りによって凍りついていき、吹っ飛ばされていくのを呆然としながら見送る。
「――っ何で君がここにいるんだ!」
「…え?あれ?スティーブン、さん?」
「この辺りは警告が出ていた筈だぞ!聞いてなかったのか!?」
 何でここに?そんな疑問を飲み込みながら、見慣れたその姿に強張っていた肩の力が抜けていく。へろへろとすっかり砕けてしまった腰では一人で立つこともままならず、スティーブンさんに凭れかかった状態で真っ白な頭の中を整理していく。えーっと、見たことない程巨大な異界人がいきなり襲いかかってきて――それをスティーブンさんが倒したの?「警告…?」そんなの聞いてない。もしかしてスーパーの中だったから聞こえなかったとでも言うのだろうか?だとしたら今日は厄日だ。スティーブンさんが助けてくれなければ、あともう数ミリであの世へ行っていただろうことに今更身震いして膝が笑っている。どうりでいつもより人通りが少ないと思ったんだ、警告が流されていたから皆避難していたのか!すぐ近くに感じた死の匂いに声は出ない。みっともなくスーツの端を掴むわたしをちらと見て、歩けそうにないと判断したのか横抱きの状態で抱え上げた。
「何故君がここにいるのかは後で聞くこととして、まずは君をここから逃がすのが先だ――しっかり掴まって」
 その双眸を鋭くさせたスティーブンさんは、いつの間にやらわたし達を囲んでいる異界人を一瞥し、わたしの頭をきつく自身の身体で抱え込む。潜められた声に応えるようわたしはスティーブンさんのスーツを握り締めて、丁度彼の心臓の位置に顔を埋めた。常ならきっと、顔を真っ赤にして離れようとするのだろうが、それを凌駕する恐怖がわたしを大胆にさせる――足も指先も震えているし、異界人からわたしへ伸びゆく刃は今でも鮮明に思い出せる。だのに近くにスティーブンさんがいるだけで、温もりを感じるだけでもう大丈夫だと思えるのだから不思議だ。ライブラへ入ってそれなりのときが経っても、スティーブンさんが前線に立っていることに今一信じきれなかったというのに――人の数倍の大きさの敵を簡単に蹴り上げていく辺り、スティーブンさんの実力を窺い知れた。その内にパキリと何かが鳴り、凍てついた空気がわたしの肌を刺激し白い息を作る。スティーブンさんの能力らしい氷が次々と敵を水のように飲み込んでいく。わたしを抱き上げたまま敵の相手をし、尚且つ凍った瓦礫を足場にして後退していくスティーブンさんに流石としか言いようがない。近くにスティーブンさんの低い声と吐き出された息が当たる感じがして、こんな状況だというのに心臓はバクバクと波打っていた。
「怪我は…ないな。ひとまず下ろすけど立てるか?」
「は、はい」
 敵と距離を取ったらしいスティーブンさんがそっとわたしの爪先を地面へ下ろす。これ以上スティーブンさんに迷惑をかける訳にもいかないので、わたしはスーツに縋りつきそうになる手を隠し、今にも抜けそうな腰に気を張って何とか立つ。
「あの…これは一体…」
「本当に聞いてなかったのか…。君も知っている筈だぞ、最近ヘルサレムズ・ロットで噂になってた人体実験」
 異界(ビヨンド)マフィアが主となってヒューマーを浚い、非合法な人体実験及び研究をし改造人間を作っている――という殆ど眉唾ものみたいな噂だったが、ライブラでも度々話に上がっていたので信憑性はあったのだろう。その大元の組織であるマフィアをライブラが叩くことになったらしい。今ここにいて戦闘を繰り広げているのは、スティーブンさん率いる彼の部隊であらしく、敵の数がそれなりに多い為大規模な戦いになるからと、予め近隣住民への警告を流して貰ったとのことだった。そんなことになっていたとは露知らず、スーパーでお菓子を買い込んでましたとは言いづらい。はあ、と前髪を掻き上げて溜め息を吐くスティーブンさんに恐々としながら、わたしは気まずさに隣で小さくなった。
「今僕の部下に頼んで君を保護して貰うように計らうから、それまで僕の側を離れないように」
「すいません…」
 楽しくなる筈だった休日がとんだ一日になってしまった。申し訳なさに目を合わせることも出来ず、視線を下へ下ろすとすっかり忘れていた存在――がさっと鳴ったビニール袋の擦れに思わず「ああっ」と声を上げてしまった。
「アイスが…溶けてる…」
 電話をかけていたスティーブンさんの表情が今度は何だといった風にこちらを見て、それからすぐ呆れ顔に変わった。ゼリーなどの固形物は温くなっても冷蔵庫で冷やせばいいのだが、アイスはそうもいかない。溶けてしまったアイスって冷凍庫で元に戻せるのだろうか?つきそうになった溜め息を堪え、あからさまに落ち込むわたしを見て、スティーブンさんがおかしそうに笑った。
「君って結構神経図太いんだな」
「え?」
「普通こんなときにアイスの心配なんてしないだろう」
 今の状況を一瞬で思い出し、また一瞬で顔が熱くなる。ビニール袋の中身を覗き込んでいた顔を上げ、袋をサッと隠してみるがもう見られているのに今更意味もない気がする。それでもスティーブンさんに食い意地張っていると思われたくなくて、かと言って家でだらだらしながらお菓子を食べたかったなんて、そんな小学生がするようなことを理由に使えず、結局もごもごと口を動かして小さく否定するしかない。恥ずかしさで蹲りそうになるわたしに、スティーブンさんが「ああ、違うんだ」と穏やかな笑みを浮かべた。
「それが悪いと言ってる訳じゃないんだ。てっきりパニックになると思っていたからな」
 取り乱されるより余程いいよ。静かにそう言ったスティーブンさんの台詞に、誉められたのか貶されたのかわからず、ただびっくりしすぎて声も出なかっただけだとは説明出来なかった。わたしの中の比重はアイスよりもスティーブンさんの方が重いのだ。高層ビルが一瞬で崩れ落ちたり異界人らがばたばたと倒れていく中で、いっそ切り取ったかのようにここは静かだ。敵を倒すよりも研究材料の方が異界マフィア共にとって大切らしく、敵と戦うより何とか撒いてしまおうと逃げていくのもいる。現場から少し離れた位置にあるところに居るわたしとスティーブンさんを気にかける存在はおらず、スティーブンさんは時折こちらへ飛んでくる瓦礫やコンクリートの塊みたいなものを蹴り上げていた。
「あの、スティーブンさん」
「ん?」
「仕事の邪魔をして、その、すいませんでした…」
 わたしを保護してくれるという、部下の人を二人で待っている間、沈黙の中で考えなくともわかる。今わたしは完全にスティーブンさんの足手纏いになっているということだ。わたしがちゃんと警告を聞いて場を離れていれば、スティーブンさんはきっと作戦通りに敵を倒せていたのだろうし、わたしから離れられないということもなかった。スティーブンさんの役に立ちたいと、いつからかそう思うようになって頑張ろうとした矢先にこれだ。かと言ってわたしのことは気にせずどうぞ行ってください!と大手を振って言えることも出来ない。スティーブンさんの存在はわたしの中で色々な意味で大きいので、誰かが来るまででいいからいてほしいなんて、稚拙な我が儘が顔を出すからだ。情けなさに顔を上げられなくて俯かせていれば、スティーブンさんの優しい声色が耳朶に触れた。
「まあ奴らが逃げたってこの先のルートにはクラウス達が待ち構えている。実質僕らの部隊は陽動だから君がそう気にすることじゃないさ」
 そのレジ袋を見る限り大方どこかの店に入っていて、警告が聞こえなかったとかそんなところだろう。そう続けざまに言い切ったスティーブンさんに、わたしはその通りですとしか言いようがない。スティーブンさんはそう言ったけれども、異界人の数はここから見ても多くそして異様に大きい。この陽動もスティーブンさんあっての作戦なのだろうことはわたしでも気づいたので、スティーブンさんが優しさからそう慰めてくれたのがわかった。益々居たたまれなくなる。
「それよりも君に怪我がなくて良かったよ。万一間に合わなかったときのことを考えると今でも肝が冷える」
 ふと吐いた息は相変わらず白い。そう言えばわたしは死にかけたということを思い出し、同時にまだ何もお礼を言っていないことに気づいた。スティーブンさんの方へ向き直し、慌てて頭を下げる。
「あ、あのっ、助けて頂いてありがとうございました!」
 「怪我がなくて良かった」どこまでも優しくて暖かな一言だ。じんわりとし始める視界を無視して頭を下げ続ける。一寸の間の後、ぽんと頭頂部に暖かな感触がしてそれがすぐスティーブンさんの手だと知り、頬が熱くなっていくのが自分でもわかった。何故か最近スティーブンさんからのスキンシップが増えたというか、わたしの頭を撫でたりするのがお気に召したようで、今の心拍数はきっと尋常ではないだろう。いつまで経っても慣れることのない感触に、今顔を見られなくて良かったと心底思った。
「どういたしまして。僕も君を助けることが出来て良かったよ」
 さらりと言った気障な台詞は確実にわたしを殺しにかかってる。結局迎えの人が来るまで顔が上げられずその後も引くことの無い熱に、スティーブンさんがくつりと喉で笑っていたことには気付かなかった。

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