「アンタってナマエっちのことが大切じゃない訳?」
 表向きは新興宗教、だが実態は信者を洗脳し秘密裏に後ろ暗い研究を繰り返している主体組織及び異界人らを叩く為、ライブラメンバー総出で作戦を練っていたのが凡そ三十分前。大凡の配置やそれぞれの役割分担が終わり、自然と解散になったところで珍しくその場に残っていたK・Kが、訝しげに眉を顰めスティーブンに向かって口を尖らせた。腰に手をあてがった様子に如何にも不満が見えたスティーブンは、資料の文字列とグロテスクな写真に注いでいた諸目を上にあげ、質問の意図がわからないといったふうに眉を下げる。
「藪から棒だなあ。一体なんなんだ急に」
「いいから答えなさいよ」
「勿論、大切さ。恋人だからね」
 これで満足かい?と言いたげにまた資料へ目を戻す。作戦決行までもうそんなに猶予はないのだ。文書の中に散らばっている情報を少しでもかき集めたいスティーブンにとって、今こうやってK・Kと話している時間すら惜しい。しかし恐らくK・Kの望んだ通りの返答をしたにも関わらず、彼女はその答えがお気に召さなかったようだ。
「スカーフェイス、矛盾してるわよ。こんな前線にナマエっちを置くなんて、死ねって言っているようなモンじゃない!」
 K・Kの怒りのポイントはそこだったらしい。スティーブンと付き合うようになってからK・Kのナマエに対しての過保護っぷりが増している気がする。確かに今回の作戦は危険と言えば危険だ。大規模な組織を少人数で潰すのだから、普段ふざけが過ぎるザップですら真面目に話を聞いていた。敵の能力はある程度把握しているとは言え死ぬ可能性も十二分にある。だがそれは皆同じだ。
「K・K、君が憤るのもわかるが今回の韜略に囮は必須なんだ。ナマエなら小柄だから小回りも利くし不測の事態への対応も早い上、戦闘能力でも申し分はない。彼女以外では務まらないんだ」
「だからって!」
「なら囮は君がやるかい?K・K」
 泰然と微笑んだスティーブンに、K・Kはぐっと咽喉から込み上げかけた声を押し殺した。ナマエ以外に務まらない。正にその通りだとはK・Kも心のどこかで理解している。チェインは不可視の能力こそあるが、完全に支援タイプなので戦闘には適さない。ザップやツェッド、クラウスでは戦闘能力は高いものの、囮として陽動かけるにはガタイが良すぎて小回りが効かないだろう。レオナルドは論外。そしてK・Kもチェインと同じだ。前線を突っ走ることもあるが、基本はスナイパーとしての腕を買われての後方支援ばかり。敵の数が未知数で混戦になるのは先ず確実だろうという状況の中、武器である飛び道具を使うのは明らかに不利だ。それでもこうして突っかかってしまうのは、己の恋人がもうすぐ死んでもおかしくない作戦の中に組み込まれ、またあえて組み込んだというのに、まるで「任務が成功するかどうか」の心配だけをしているようなスティーブンの態度が気に食わないから。子供じみた理由だ。それでもナマエへの心配だけは本心だった。
「彼女も自分の役割はしっかりわかっている。現に反対することもなかったろう?つまりはK・K、君の腕次第だな」
「…〜ッアンタってほんっとーに嫌な男ね!」
 言外にナマエを死なせないよう、与えられた役割をしっかり果たしてくれと含みを持たせて言い切ったスティーブンに、K・Kが思わず声を荒げて吐き捨てた。床を踏みならしながら執務室から出て行ったK・Kは、きっと今頃自分の頼み事を果たす為に武器の点検をしてくれることだろう。スティーブンはそう推測しながら読み終えた資料をファイルへ挟んだ。ひと息ついたところで、カップに残ったままの紅茶を飲み干してしまおうと取っ手に手を伸ばす。二本の指は取っ手を握ることなく、そのままカップを押し倒した。
「あ」
 ガチャンと鳴るカップは机を転がり、微妙に残った赤茶色の液体は机の端から零れ落ちてカーペットに地図を作る。やってしまった、と思いながらの暗然の籠もった息を吐出する。自分でも思っていたより気が動転していたことに気が付き、馬鹿馬鹿しさに笑い出したくなった。作戦に入れたのも囮として採用したのも自分だ。何を今更動揺する必要がある?ナマエを、彼女の能力を信用しているなら何も心配はいらない。最高のバックアップだってついている。仕事に私情を挟むのは良しとしないスティーブンにとって、何が最善の策なのかは直ぐにわかってしまった。だから僅かな躊躇を切り捨ててナマエを囮役に選んだ。ナマエだってスティーブンの恋人だからといって特別扱いは好まないし、寧ろ自分だけ安全な場所に配置されれば怒る筈だ。それだけの言い訳を繰り返しても、心を暗雲が覆うような、どうにも拭えない不安はスティーブンにつきまとった。大丈夫だ、と再び何の根拠もない台詞だかを自分に言い聞かせて、それからスティーブンは気を落ち着かせる為に新しい紅茶をギルベルトへ頼んだ。うんと渋い気付け薬レベルのものと、それと一枚の布巾も。大丈夫。死ぬ覚悟も死なれる覚悟も出来ている。スティーブンは幾度となくゆめに出た、血塗れたナマエの姿を頭の中で反芻した。それを壊れたテープのように流し続ける。何回も。スティーブンの脳裏に溢れ出た血がどっぷりと服を濡らしていくナマエを思い浮かべて、そうならない為に、いくつかのパターンを頭へ練り込んだ。
「ナマエ…」
 心の奥底に眠っている恐怖を抑え込むように、スティーブンは眉間を揉み解す。――帰ったらうんと強く抱き締めてキスをして、ナマエの好きなチャイ・ティーを淹れて、それからその日は二人でゆっくり過ごそう。きっと作戦は成功する。



「スティーブン」
 ひどい顔をしている。クラウスはそう言って、病室の簡易椅子に腰かけたまま動こうとしないスティーブンに声をかけた。目元に残る色濃い隈は徹夜だけが理由ではないと、クラウスは知っていた。スティーブンは緊急搬送されたナマエが、瀕死の重体だと告げられたときと同じ表情のまま、クラウスの方へ振り返る。
「クラウス…」
「少し休んだ方が良い。心配ならば私が彼女の側につく」
 いや、とスティーブンは力無くかぶりを振った。
「僕がこうしていたいんだ。ただの自己満足さ」
 安心させる為に笑いを零してみたが、頬が引きつるのが自分でもわかったのでうまく表情を作れたかどうかはわからない。だがクラウスの顔から、自分は恐らく失敗したのだろうことは予想ついた。
「しかし」
「仕事は終わらせて来ているから問題はない。そうだろう?」
 クラウスの心配はそこではないと気付いている。それでもスティーブンは折れるつもりはなかった。ぴくりとも動かないナマエの指は病的なまでに青白いままで、スティーブンは己のそれよりずっとつめたい指を柔く握る。結果から言うと作戦は成功した。組織は潰せたしこちら側に死人は出ていない。予測していたよりずっと良い結果だ。ナマエが重体だということさえ覗けば。
 どちらの覚悟もしていた筈だった。
「仕事に私情は挟まない」
「…」
「だから俺はナマエを囮にしたし事実それは成功した。恋人でも仕事上特別扱いはするつもりはないしナマエもそれは望んでいない」
 だけどいまこんなにも恐ろしい。ナマエを失うかもしれないという奥底に潜んだままだった恐れが、今になって噴き出している。目を閉じれば血塗れになって倒れていくナマエが、何度も再生されて瞼のうらにこびり付いていく。眠れないのは前よりずっと現実的な悪夢が頭を支配するからだ。
「ナマエとライブラどちらか選べと言われたらライブラを取るし、その利益を優先する。それは今でも変わらない」
 スティーブンの曲がった背中がどんどん丸まっていく。ナマエの指が額にぶつかった。
「なあクラウス…俺は間違っていると思うか?」
 自分でもわからない問いの答えをクラウスへ押し付けたことに自嘲する。本当は囮役などさせたくなかった。当たり前だ。誰が好き好んで自分の恋人を危険に晒したいと思う?ただスティーブンにはライブラの副官という立場があった。少しでもこちらの犠牲を減らす為に、最善を尽くす義務があった。それが例え自分にとって最良でなくとも。こうなることが見えていたから、だから大切なものなど作りたくなかったのだ。本当に大切ならば寧ろ遠ざけるべきだった。ヘルサレムズ・ロットのどこでもない平和な場所に、硝煙とは無縁の場所にナマエを送り出すべきなのだ。わかっていたのにそれができないのは俺のエゴでしかない。たったひとりを選べない癖に、隣に居て欲しいと他でもない俺が願ったから。
「…スティーブン、私には君が無理をしているように見える」
「無理だって?」
「どちらかを切り捨てられる強さは君の美点だ。私情を挟もうとしないのも」
「…」
「私には、それが間違っているのか正しいのかはわからない。だが私なら、どちらかを切り捨てるぐらいなら両方を守れる方法を探すだろう」
 今までずっとそうやって言い聞かせてきた。守る為に手放すことを学び、そうして何かを捨てるのに慣れすぎて大切なものが出来てしまった今、どちらかを選ぶことに苦しんでいる。スティーブンにはわからない。結局何が正解だったのかどうすれば良かったのか、もしもあのときああしてればもしかしたらナマエは――どうしようもない、仮定の話だと知っている。それでも後悔を繰り返す辺り、ナマエの存在は思っていたより大きかったらしい。スティーブンはクラウスの答えにふと笑みを零した。
「クラウス、君ならそう言うと思ったよ」
 本当に全くもって君らしい答えだ。両方を守るなんて、口に出せる程おいそれと簡単にできるものじゃない。どちらも同じくらい大切なら尚更。それでもクラウスの出した答えに、重石のようだった心が軽くなったのは事実だった。握りつづけたナマエの指にスティーブンの熱が伝染していく。この俺がらしくもない、弱気になっていたことをナマエが見れば笑うだろう。そんな情けない姿は見せられないし何より見せたくない。
「…僕にも、出来ると思うかい?」
「諦めない限り、その心ひとつで何にでもなれると私は信じている」
 ああクラウス、やっぱり君は変わらないな。
「ナマエ」
 ライブラの為にいつも何かを切り捨ててきた。何かを犠牲にしなければ得られないものもあるとよく知っていたから。天秤にかけたとき、いつも傾くのはライブラの方だったから躊躇もなかった。だけどナマエ、君を天秤にはかけたくないんだ。冷血漢と言われたこともある俺が、たったひとりを失うことにこんなにも恐れる日が来るなんて思いもしなかったのに、きっと昔の俺が今の自分を見たら笑うだろう。それでも良い。選ぶことが出来ないのなら、いっそ両方守ってしまえばいい――豪快で、身も蓋もないが正にその通りだった。適してるからと言って危険な役割を任せたのも、ナマエよりライブラを優先したのも間違いだったとは今でも思わない。だけどもし守れるなら、ナマエ、もう後悔しないように君を守りたいと思う。残念ながら、どれだけ傷つけることになってももう逃がしてやるつもりはないんだ。だからこんな最低な男に好かれてしまったことを、諦めて欲しい。
「起きたら、沢山伝えたいことがあるんだ」
 だから早く、待ちくたびれてしまう前に起きてくれ。俺がどれだけ君を大切に思っているか、今まであまり言うことのなかった甘ったるい言葉を尽くして嫌という程教えてやりたいんだ。それから、それから――うんと強く抱き締めてキスをしよう。もう間違えることのないように。

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