あの日、テンゾウが私に、何もいわずキスをした日。私はゆっくり降りて近付いてくるテンゾウの顔をじっと見ていた。顔を逸らしたり、彼を止めたりすることなどははなから選択肢になく、私の軸はテンゾウのそれとぴったり噛み合っていた。いまからキスをするのだと、頭のどこかで知っていた。しかし、あの時のテンゾウが何を考えていたのかは私には見当のつかないことだった。ただ唇の温もりと、軋むような胸の痛みが、今もまだ、ここにある。




5 ぬくもり







テンゾウが言っていた通り、二人で鍋を食べた。準備は彼が、片付けは彼と私でやった。皿を割りそうになった私に、危なっかしいなあ姉さん、と彼は笑った。仕方ないでしょ、勝手が違うから。皿の勝手なんかあるのかい。あるのよ。どうだか。あります。とにかく気をつけてください。似たようなくだらなくてあたたかい押し問答がいくつかあった。テンゾウの家にあがるのは何年か振りで、しかし落ち着いた家具や無駄のない配置や雰囲気は変わらない。テンゾウは何か誘惑的なものに靡いたり染まるような子ではなかった。昔も今も。私の理解できるテンゾウ。私は静かに嬉しくなる。
「姉さん、お茶飲みますか」
「ありがとう。さっきの湯呑みがいいな」
「これ?」
「そう」
テンゾウの淹れたお茶は、幼い頃からいつもよく味が整って美味しかった。それと、テンゾウの淹れたお茶、というところが、とても好きだった。はい、と手渡され湯呑みを大事に両手で包んだ。あ、つめたい。今日は暑いからね、姉さんも沢山走って疲れているだろうし。口の片端をあげてテンゾウが笑った。陶器の湯呑みの中で、2つ入った氷がカランと崩れた。
「テンゾウ」
「はい」
「あの日、どうして私に」
キスをしたの、と訊けば良いだけだった。ただ、私は言葉を忘れたように口を噤んでしまった。訊けない。私にはそれを尋ねる勇気はない。テンゾウは、湯呑みを片手にじっとしていた。私の言いたいことの続きをもう知っていて、それを咀嚼しているように見えた。ベッドに腰掛けたテンゾウと、卓袱台を挟んだその向かいで床に座る私。静かだった。耳鳴りがしそうなほど、物音ひとつなかった。少しして、テンゾウがゆっくり息を吸って、口を開く。
「姉さんは、どうしてボクが暗部に入ったか知っていますか」
ボク、話していませんでしたよね。私は突然の話題に面食らいながら彼に頷いてみせた。それも、私の知りたいテンゾウの一部だった。火影からの指名が暗部入隊の条件であるとは言え、彼は日頃からそれを志願していた。三代目から声のかかった私が、渋りながらも入隊を決めた頃からだったろうか。しかしテンゾウは、暗部入隊についての話を、それ以上進めなかった。少し俯いて、湯呑みを握り締めたままでいた。私はテンゾウを待った。キスのことがなくなったわけではないけれど、彼を待った。ふいにテンゾウが顔をあげて、私の顔を見て、緩く微笑んだ。どうして笑うの。いや、凄く待っている顔をしてたから。それはそうでしょ、待ってるもの。うん。テンゾウが私を見つめた。少しも笑わず、しっとりと見つめた。私は、その顔を見つめ返して、体内にじんわり熱い塊を感じた。それは徐々に上にのぼってきて、私の鼻の奥を温め、目頭を熱くした。思わず目を逸らす。私は女だ、と思った。彼を想う、ただのひとりの女だ。
じっとしていたら、テンゾウがベッドから床に膝をついて、私を呼んだ。返事の代わりにテンゾウの目を見た。何を考えているのか、わからなかったけれど、嘘のない瞳をしていた。テンゾウは卓袱台に手を付いて、私にキスをした。少しだけ唇を開いて、柔らかく押し当てられ、私の唇を食むような、キスだった。私は少しだけ悲しくて、少しだけ憂鬱で、少しだけ欲情していた。そして残りは、テンゾウのことを愛していた。
唇を離すと、テンゾウが言った。遅くなるといけない、家まで送るよ。私は、うん、と応えて、ずっと握っていた湯呑みを卓袱台に置いた。淡い模様の入った慎ましやかな陶器。ひとつ撫でて、テンゾウに続いた。
「姉さんは、キャベツ好きだったかな」
「うん、好きよ」
「そこの八百屋でもらったんだ、時期じゃないけれど結構うまかったですね」
「うん、うまかった」
月明かりが煌々としていた。向かって右からテンゾウと私と月。私は未完成な三日月を見上げた。私にとってテンゾウは、もはや男だった。テンゾウから見た私は、女だろうか。右手に温もりを感じて、三日月の反対側に視線を移した。テンゾウが黙ったまま、私の右手を握っていた。私は指を開いて絡ませて、きれいだね、と言った。月がきれいだね。うん、きれいだ。









20130323


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