小説 | ナノ





私は彼の素性を殆ど知らなかった。柔らかく閉じられた唇がいつも優しそうだということとか、彼のたった2人の大切な友人の話をする時にはそれが滑らかに動くのだということとか、時が経つに連れ分かっていくことはあれど、彼がどこに住み、何を生業としているのかすら、私は知らなかったのである。一度、私の暮らす里の地理にやけに詳しい彼を疑い、ここの生まれかと尋ねたことがある。
「あなた本当はこの里の人だったんでしょう」
「知りたいと思ってくれるのか、オレのこと」
「…だって、私」
「ありがとう、 ヨリコ」
これに似た問答はいつだって取り決めのようにそこに辿り着く。成立しないやりとり、まるで完結しないゲームのように。むしろこれが、このゲームの完結だとあらかじめ決められているのだろうか。




今日も、ふらりと彼は現れる。
私の里にはいつも雨が降っていた。いつもいつも、ただしきりに降り続いていた。傘を指すことにも飽きた里の民は、黙って体中をびしょ濡れにして歩くことも多くあった。いつかこの雨はきっと降り止むのだと希望を持つことは、誰もが諦めていた。今日も同じように何も持たず雨の中に立ち、私は近くも遠くもない彼の気配を感じていた。彼とはいつも、一定の距離を保っていた。互いに触れたこともなく、それは許されないことのような気がしていた。
そっと目を閉じると、身体の右側だけがぼんやりと暖かかった。こんなに冷たい雨の中で、暖かいもなにもないだろう、そう自嘲することも忘れていた。私はゆっくりと手を伸ばす。彼の左手の指先に触れた時、彼はハッとしたように私を見た。しかしそれきり彼は押し黙り、しっかりと私の手を握った。
彼の身体に触れることを私が許されたのは、今日が初めてだった。

「冷たいのね、あなたの手」
「そうかな」
「私の方がよっぽど暖かい」
「手が冷たい方が心は暖かいっていう話もあるけど」
「信じてるの?」
「その手の話には弱いんだ、こう見えて」
「ロマンチストなんだ」

彼は静かに笑った。そして、雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で続ける。「でも、本当は嘘なんだ、暖かいなんて」私は、どうして、と彼に尋ねながら、繋いだ手に力を込めていた。彼の様子が、今までとは違うように思えた。
「オレは、あの2人に幸せになって欲しいだけだ」
「それは、暖かいことではないの?」
「…ヨリコには 、そう思っていて欲しい」
今度は彼が私の手を強く握り返して、滲むように笑った。
「それもこれも全部、オレのエゴなんだ。でも、それでいいと思ってる。オレのエゴがいつか誰かの傘になるなら」






     *       *




もう行かないと。彼が言う。雨足が強くなっていた。しかし雨を凌ぐこともしなかった。彼は私を見つめ、私は彼の心を探していた。行くってどこに行くの、また会えるのよね。声は上擦っていた。左手が冷たい。彼と繋いだ右手もまだ、冷たい。彼は私を見て、目を眇めて、しかし口は開かなかった。私は、もう二度と彼には会えないんだと、それで分かった。

「ねえ」
「…ああ」
「あなたの名前、最後に教えて」
「…ヨリコ、 よく顔を見せて」

成立しないやりとり、きっと完結しないゲームを、ここでも私達は繰り返している。彼がつないでいた手を解き、私の頬にそっと添えた。ずぶ濡れの顔を見られることに恥を感じる間もなく、私は彼の表情に、胸打たれていた。汚いものの全てを背負ってどこかへ消えてしまいそうに、柔らかで、綺麗な顔だった。

「泣いているみたいだ」
「…泣いてないわ」
「こんなに顔を濡らして」
「泣いてないってば」
「ああ、そうだな」

彼はそっと、私の額にキスをした。雨に打たれた額でも、彼の体温は際立って私を射った。脈打つ心臓を嫌というほど意識しながら、私は、泣いているのは、あなたもだと言い返したかった。拙い言葉で大人に打ち勝とうとする子どものように。ねえあなたはやっぱり、この里で生まれたんでしょう。
雨は止まない。どんなに願っても。これからどうか、誰か彼の手を温めて、涙を誰か、どうか拭ってやってはくれまいか。そうでないと、彼は、一生雨の中に身を隠してしまう。私の雨は、彼が凌いでくれたのに。

「最後の前にひとつだけ」
「…最後なの、やっぱり」
「雨に濡れていない君の顔を、もっと近くで見たかった」

“目的”がひとつだけ増えたな。弥彦と小南には言えないよ、こんな話、したことないんだ。
そうぽつりと零した彼は、何故だかとても嬉しそうだった。本当の最後に、彼は、雨を背負って笑った。

「オレの名は、長門」

ヨリコ、元気で。








  









もっと近くで笑ってくれ

20140213
title by 魔女




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