なんとでもいいなさい。そう言って先生は机の資料を整理し始めた。机の向こう側とこっち側で私たちの間には距離があった。もっとも、距離を望んだのは先生の方だ。なんとでもいいなさい、だなんて、そんな風にしてひどく突き放されたのは初めてだった。いつだって先生は私を拒まなかったのに。でもいつかはあるだろうとどこかで思っていた。知らず知らず肩が凝るような、そんな用心の仕方で私は自分を守っていた。研究室に硬い音が響く。急いだノックに先生は返事をして立ち上がった。期限切れのレポートを提出に来た学生だった。表面上申し訳無さそうに何度か頭を下げた学生に、期限は気をつけなさいねとひとこと言って3枚綴りのレポートを受け取った。立ち去る学生は私を一瞥した。私は思わず肩を上げて、あの視線はなんだろう、どうか怪しまないでと思念する。世界が全て耳鳴りに凌駕される。もうこれには慣れた。それが先生と一緒にいるための私の乗り越え方だったから。
「お前が言うようにオレの選択が結果的に良くないものであるなら、後悔するのはオレだけでいい」
「どうして2人とも後悔しない方法を一緒に考えてくれないんですか」
「お前がいつか、誰かとその方法を見つけたらオレに教えてよ」 
「ねえ先生…先生の目は」
「ね、たのしみにしてる」
目を細めた先生は、もう私が何歩歩いても隣には立てない場所にいた。私の知らないうちに用意周到にして一瞬で距離をとったのだ。先生は狡い。自分が狡いことすらよく知っている。それを知っている私は、もう体中に鉛を埋め込まれたようで動けない。椅子が軋む。先生が革靴の底を静かに鳴らして私の前に立った。
「これで最後にしよう」
私が頭の上から降ってきた声を見上げる間もなく、額に先生の唇が触れた。優しく、慈しむようなキスに、それでも私は先生を見ることができない。既に始まった先生への未練。私は体中が軋むように痛かった。元気で。先生が呟く。本当に狡い人。この人は多くのことを知りすぎている。知が人を苦しめもするということを私はこの人から学んだのだ。私はずっと先生に全てを委ねていた。知っている先生は知らない私を無為に導いた、いつもどんなことでも。最後くらい私に選ばせて。終わり方くらいはいいでしょう?私は先生の胸ぐらを鷲掴みにして、先生の唇に私のそれをぶつけた。これが本当の最後。先生の薄い唇からその奥の歯の感触が伝わって、勢いと比例した痛みが残った。先生もきっと痛い。忘れてはいけない、これが私と、先生の痛み。
甘さを絶つためには、痛みを被らなければ。そうでしょ先生。そしてその痛みがあなたを生かしますように。見える世界が狭まっても、きっと生きていけますように。




蝕みの契約
20130228









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