部屋、何号室だったっけ。え、部屋ってどこの。いや、お前の・・・あ、ここか。

その電話の直後、カカシさんが突然訪ねてきた。驚く間もなく、彼はぱたりとソファで落ちてしまった。「なんか眠い」「眠いってカカシさんちょっと・・・」「んー・・・」こんな調子。幸い秋口の風も静かな夜だったから、適当な掛け布団で足りそうだ。クローゼットに別々にしまっておいた布団とカバーをそろりそろりと取り出してきて、軽く匂いを嗅いで、汚れもないことを確かめてから床の準備をした。床と言っても、カカシさんの身体にはあまりにも小さすぎるソファと、少し衣類消臭剤の匂いがうつった布団という簡易なものだった。身体が痛くなれば夜のうちに起きだして適当なところに移るだろう。背広もそのままに寝入ってしまった身体に布団をそっと掛けた。

それにしても突然、どうしたと言うのだろう。

3歳年上のカカシさんとは大学で出会った。同じ専攻でこそないが、他学部からもゼミナールの学生をスカウトすることの多い教授に、お互い全く関係のない学部から引き抜かれた。学部1年から専任教授に付く大学側の方針のおかげで、私達は出会ったのである。彼は大学を卒業してからも、修士、博士課程を他大学で学んでいた。博士課程の現在は、学部4年の私が住むアパートから、車で片道5時間はかかる街で、寮生活をしている。

カカシさんは免許こそ持ってはいるものの、自他共に認めるペーパードライバーである。本人曰く下手でないが、機会があってもあまり運転はしたがらない。ドライバーとして移動時間のために無駄にする時間を考えると、おちおちアクセルを踏んでばかりいられないのだそうだ。

私はいよいよ彼がここにいることが不思議に思えてくる。研究室からそのまま向かってきたのであろう背広と、鞄から不格好にはみ出す白衣。
突然、何のために?
しかし、頬が緩むのは止められない。何しろ最後に会ったのは、3月の末にたった2日だけだったのだ。

取り敢えず彼が起きたら、コーヒーくらいは出せるようにしておこう。そして明日の朝、色々と訊けばいい。まずは彼が私の携帯を鳴らすまで手をつけていた課題を片付けるところから。私はカカシさんの頭の下にクッションをそっと差し入れて、パソコンに向かった。



________




「話ができるコンディションくらいは整えてきてね、カカシさん」
「んーいやいや、少し寝たら起きるつもりだったんだけど。はは、日が高いね」
「コーヒー飲む?」
「もらおうかな」

カカシさんは結局夜中のうちに私のベッドに潜り込んで寝ていたようだ。私はと言うと、パソコンに向かったまま数時間、そのままこっくりこっくり、落ちてしまったらしい。首から肩にかけてが不自然に固まっている。それでもカカシさんが目を覚ますより前に、軽い朝食と淹れたてのコーヒーは準備することができた。我ながら上出来。突然部屋を訪ねた恋人の空腹を満たすくらいの、少しのもてなしはできる女でいたいのである。

さてカカシさんはと言うと、一晩で皺だらけになってしまったシャツの袖をざっくりと捲くって、コーヒーを啜っている。何かをする時の彼の癖だ。大切な資料に袖を引っ掛けて撒き散らしてしまうことがないように、そして少しくらいの不注意で数少ないシャツを汚してしまうことがないように。いずれも研究や論文作成に追われる彼だからこそ身に付いた、いわば環境適応だ。寝不足の頭で論文片手にぼんやりと食事をとっていて、一度コーヒーをひっくり返しその上に資料をばら蒔くという経験からの教訓でもある。

「昨日はどうやって来たの」
「うん、テンゾウに送ってもらった」
「え!?ご、5時間も?まさかね」
「お前ねえ、オレだってそこまで鬼じゃないよ。途中まで。ここの最寄り行きの終電に乗れる駅まで」
「でも、あの時間に終電って・・・相当近くまで来ないと」
「んー・・・ま、いいじゃない」

ああ、テンゾウさん、今頃疲労困憊だろう。ごめんなさい。あとでメールをいれておこう。問題は、その従順な後輩をいいように使ってまで彼がここに来た理由だった。

「それで、どうしたの」
「ん?」
「ん?じゃなくて、どうしてまた突然?」
「会いたくなったから」
「え」
「顔見たくなったんだ、突然。それも明後日構想発表で使う資料の作成中に。丁度そこにテンゾウが研究データを確認に来たから」
「ド、ドライバーにしたの?片道4時間の!?」
「うん、そういうわけで、明日の始発に乗って戻るよ」

信じられない。突然顔が見たくなった、との殺し文句に揺らぐ間もなく、カカシさんの人使いの荒さにくらりときた。尤もそれは、学生時代からテンゾウさんに限ってのことだ。彼はテンゾウさんにはあれこれと言いつけて心置きなく雑用で走らせる。テンゾウさんを信用していることに他ならないとは言え、カカシさんを慕って同じ大学院の博士課程に進んだことが悔やまれることすらあろうに。

テンゾウさんの苦労に思いを馳せて、ちらりとカカシさんを見ると、何やら雲行きが怪しい。そうは言っても表情の変わらない人である。なんとなく、雲行きが怪しい気も、する。「随分とテンゾウの肩持つじゃない」やはり。そこだろうな、と妙に納得した。いくら後輩をこき使ったとは言っても遙々訪ねた恋人の心配が、件の後輩から自分に向かないのは気持ちのよいことではない。

「いやいや、カカシさん…」
「あーあ…わざわざ来たけど帰るかな…片道5時間かけて。あ、帰りは車ないから5時間じゃ着かないか…そういえばまだ疲れがとれないな、仕方ないか、せっかく訪ねた恋人が他の男の心配だもの」
「ごめんね!ごめんねカカシさん!わーわーごめんなさい!」

これもカカシさんの手口。あーあ、あーあ、と言われていると、なんとなく申し訳ないような思いに苛まれてしまう。カカシさんのことを好きだということが彼の中でかき消されてしまいそうで焦る。頭のどこかで、本気で怒っているわけではないのだからと冷静な自分が囁きはするのだが。

あたふたと宙をかく私の手を引いて、カカシさんは嘘だよと微笑んだ。「おいで」そのまま軽く下に引っ張られるまま、床に膝をついた。ベッドに腰掛けたままのカカシさんを見上げる格好になり、久々に覗いた喉仏に、ぞくりとした。喉仏に欲を見せたのは初めてで、なんだかおかしい。喉仏がゆっくりと降りて、私の鼻の高さほとで来ると、頬にカカシさんが口付けた。
「会いたかったでしょ、そろそろ我慢の限界かなとも思ったのよ」
「…カカシさんが、でしょ」
「だからオレは会いたかったって言ったじゃない。お前もそうでしょ」
「私、会いたかったって言いませんでした?」
「言ってないよ、テンゾウのことばっかりで」
「根に持ってる」
「うるさい」





__________




翌朝早くにカカシさんは私のアパートを出た。見送りはいいと譲らないのを押し切って駅まで歩く。始発なんていつから見ていないだろう。学生の生活は始発に縁がない。カカシさんの隣を歩けるのは、次は一体いつだろうなんて考えていたら、なんとなく会話も弾まなかった。私がぼんやりと黙っていると、カカシさんがここでいいよ、と言う。いつの間にか改札口の前にいる。
「じゃ、行くね」
「うん、帰り気をつけてね、あと身体にも」
「ん、ありがとうな」
カカシさんが手をひらひらとして、改札に向いた。歩き出す。
と、思って見ていると、くるりと私に向き直った。眉を真っ直ぐにして神妙に私を見下ろした。気をつけてね、じゃないでしょ。かろうじて耳に届くほどの声量でカカシさんが呟く。

「オレが、遠路遙々後輩をこき使ってまでなんで来たと思う」
「え、」

それはだから、会いたかったからだと自分で言ったじゃないか。急に顔が見たくなって、構想発表の資料もほっぽりだして来てしまったんでしょ。私が整然と返すと同時に、カカシさんが乗らなければいけない始発のアナウンスが構内に流れた。カカシさんは、「んん…」と唸る。まだ、真っ直ぐな眉をして。もうひとつ唸ってから、カカシさんは「もう、自分で気付くまで教えてやんなくていいや」と言う。

「はい、左手出して」
「え、なんで」
「いいから早く。乗り遅れちゃうでしょ」

そんなのはあんたがもたもたしてるからだろう。おかしなことに私も焦れる。勢いよく左手を突き出してやった。カカシさんは白衣がはみ出したままの鞄の内ポケットから、何か細いものを取り出して、手早く私の左手首に巻き付けると、

「鈍感」

と微笑んで、あまりにもあっさりと、改札に吸い込まれていった。
残されたのは、呆気に取られた私。左手首に優しく光る、ブレスレット。肘を曲げて顔に近付けて、シャラン、揺らしてみる。ブレスレットに、タグらしきものが着いている。右手の指先で捕まえて、文字が書かれている方に裏返すと、私はひゅっと息を止めた。体が蒸気するのを感じる。
そうか、このために。資料作成をほっぽりだして、後輩に片道4時間の運転をさせて、遠路遙々来てくれたのね。私は唇がむず痒いような、鼻の奥がじんじん痛むような、変な感覚に遭った。

ーー22歳、おめでとう。よく見ると手作りのタグに、黒いボールペンで書かれた文字。「早く言ってよ…忘れてたよ、カカシさんの意地悪」もう彼の姿はない改札の向こうを睨んで、私は鼻水を啜った。








20130827

企画オウム(すおみさん)に提出

アクセサリーって、思いがかたちになるものだからとても好きです。素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました。




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