しょーと | ナノ
Water flows as dear times. 



Water flows as dear times. 




「見せろ。切れてるんだろう」
「どうってことないよ、ほんとうに」




水の上で交わされる会話。流れがさわさわとゆるく聴覚をくすぐる。やさしい風が頬をかすめる。無形の存在が身の近くにあるというだけで、どこかひんやりと涼しい。
蒼い瞳を持つ彼は「怪我は慣れてるしー」と片目をつむった。そんな二人のやり取りを包むように蝉が四方からざわつき鳴いている。今まで散々戦闘に身を預けていた彼らである。こんな些細な生傷のひとつやふたつ、確かにカウントするに至らない。けれどぽしゃんと左足を水に浸し、着物姿で岩の上に腰掛ける金髪の彼の真正面に、男は座り込んだ。




彼らは今、人里離れた山奥にいる。目的地へ向かう道中、余りの猛暑に参ったファイのちょっと休憩。少し涼もう〜と言う提案のもと、偶々見つけた川の浅瀬で裸足になってばしゃばしゃと徘徊していた。だがもう少し深いところへと遊びを企てたファイが足をとられ、尖った岩肌で切傷してしまったらしい。ドジしちゃったーとへらへらとしながら気にせずそのまま動こうとする。その様子を呆れ顔で見ていた黒鋼はぐっとその腰を掴み抱え上げ、しきりに遠慮する痩身を木陰の岩肌に座らせて今に至る、という経過を辿っている。



「んな事、関係あるかよ。お前の慣れなんざ知るか。俺は俺のやりたいようにやる」

ファイにとっては本当に何てことのない傷なのだが、真っ直ぐに向けられる紅い瞳がくすぐったくて拒否に困る。

「あはは、なんだか久しぶりに聞いたなー。シチュエーションは前とかなり違うけどー」

そう言いながら、遠い昔のことを思い浮かべるようにファイは思いを馳せた。
あれはいつのことだっただろうか。忘れもしない。ファイがファイである限り、生涯潰えることはないだろう旅の思い出。一つ一つが、今ではとても大切な記憶のかけらとなっていた。


(そうだあれは、一回目の旅でオレが取り返しのつかない失敗をしたときだった。どうにもならなくて、一人足掻くつもりでセレスに戻ろうとしたら、…ぶん殴られた)

蒼い瞳でじっと彼を見つめる。その先にいる彼も、文句は許さないとばかりに此方を見つめていた。

(自分のやりたいようにってもう。黒様にとっては、いつだってぜんぶ嘘じゃないんだろうけど)


自分に正直で、なのにその真すべてがこんなにもやさしいだなんて、本当に反則だ。そんなことを思いながら、にこりと笑みを返す。ファイにとっての了承だった。ついでに「黒たん眉間の皺は変わらないよねぇー」と言って今度は声を上げて笑った。肩を揺らすとふわりと金糸が太陽からの閃光を弾く。木陰に入り、せせらぎの近くにあるせいで、肌の表面は涼んでは来ているようだが、それでもまだ額に金糸が張り付いている。

なおも笑うファイに遠慮せず、黒鋼は目的のものを大きな掌で掬い上げる。しなやかな白い右足はすっぽりとそれに収まった。そこでファイの動きが静止した。眼前には跪く体勢をとる忍者。そして繊細でどこか恭しい手つき。その常とは離れた所作に驚いたのだ。見開いた蒼の先には浅瀬に膝を付く彼の頭頂部があり、更に下には自分の負傷した足が見える。かなり鋭利に切れているようで、黒鋼が慎重に布で拭えどすぐにぷっくりと血が滴らんばかりに溢れてきているようだ。


「けっこうざっくりいってやがんな。消毒ねえし。動くなよ」
「ちょ、…黒様!?」


ファイが拒否に手を伸ばそうとしたがそれも届かない内に、白を彩っていた紅は、口内へと差し入れられた。思わずその感触に息を呑む。傷口を舌が辿るぬめる動きと驚きに、ただ絶句して全身をひくつかせた。しかし段々居た堪れなくなってきて、どうにかひっこめようと試みるも如何せん力では敵わない。


結局、黒鋼が気のすむまで右足が清められるまでの間、ファイはぴくぴくと肩を揺らすこととなった。痙攣に内腑一杯吸いきってしまった息が小さくはぁ、と漏れた。その様子を紅の瞳がとらえた瞬間、故意にだろう、如何にも意地の悪いそれに切り替わった。ぐいと足は掲げられ、裏側の土踏まずにまで舌が伸びる。いやらしい動きでべろりと舐めるものだから、ファイは堪らず小さく喉をそらした。

「く、ろ、たん…!そこ、切れてないから…!」

ファイとしてはまさか野外の炎天下で、変な気分になるわけにもいかない。滴る汗に構わず、ぐわし、と黒い髪を胸に抱きかかえた。


「お。誘ってんのか」
「違う!馬鹿!!!」

じとりとする暑さの中、必死に諭すように頭部を抱きしめる。暫くしてようやく黒鋼が足を解放し、事態に収拾がつきそうな気配がしたので、ファイはゆっくりと身を離した。眼下では依然として赤眼の男がにやりと悪そうに笑っている。


「続きは、今夜な」
「ほんと馬鹿。」


今度は此方がいかにも呆れた調子でそう言ってやると、くく、と肩で笑われた。それから忍者は自らの着物の一部を歯で破り、再びファイの足を取ると、ぐっとそれを巻きつけた。小狼少年のように手順に沿った丁寧さのない彼独自の荒い巻き方ではあったが、うっ血などせぬよう絶妙の縛り具合である。その辺りは流石だとファイは思う。手当ては終いだとばかりにポンと足の甲が叩かれた。何だかそんなやり取りに少しほこほこしてしまって、先の無体などすっかり忘れた様ににっこりと笑う。


「ありがとー、黒りんりん」
「あんま手ぇ焼かすんじゃねえ」
「わかってるよぅー」

向けられる顰め面に、えへへと笑った。

「それにしても意外だったな。暑さに弱いはずのお前がわざわざ山の洞に氷を取りに行きたいなんざ」
「うん、この季節氷は貴重な物資だからねぇ。タダで住まわせてもらってるぶん、ちゃんと働かなきゃー。まあオレ一人だと運べる量なんて高が知れてるから黒様にも一緒に来てもらった訳だけど」
ごめんねぇーと言ってへらへら笑う。

「別にただって訳でもねぇだろ。それにお前なら、運ばなくとも魔法とやらで作れんじゃねえのか?旅をしていた時はしょうもねえことにもいちいち使ってたじゃねえか」


黒鋼の言い分は誇張ではなく、まさにその通りであった。二度目の旅が始まってからというもの、クロウの国で若い二人の恋模様を覗き見するに始まり、ファイは旅の先々で魔力を使い通した。それが、その旅が終わりを告げてからというもの、ぱたりと使用をやめたのだ。黒鋼に誘われて日本国にやってきた今の彼はもう、殆ど魔力を使わない。使うと言えば、稀に魔物の襲来があって都が甚大な被害を蒙りそうな可能性のある時、その状況を打破する為に、結界を張るというくらいのものだ。それが常々この魔術師に対して黒鋼が抱いている疑問である。紅い瞳が訝しげに尋ねるとファイはからりと笑った。


「それはねー、優先順位ってやつだよー」
「はあ?」
「まあ、いいからいいからー」


にっこにっこと笑う相も変わらぬ調子に黒鋼は納得のいかない顔をしていたが、やがてファイの顔に向けてぴゅっと水を飛ばした。


「うわぁ。ってすごいね。それどうやるの?」
「こうやって飛ばすんだ」

言いながら手組んで形を見せながら再びファイに向かってびゅっと水を掛ける。

「こらー、やめなさいー」
「やめて欲しいんなら、白状しやがれ」
「ずるいよー。オレにも教えてー」


いつまでも水鉄砲をやめない黒鋼に向かって、教えてくれてから勝負だよーとじゃれていると、いつしかもつれ合ってバランスを崩す。岩肌に腰掛けていたファイが黒鋼を押し倒す形になって辺り一帯に勢いよく水しぶきが飛んだ。びしょびしょで目をぱちくりと開閉する。両腕を忍者の首に回すファイと、細腰に片手を回して身体を抱え、もう一方の腕で二人分の体重を受け止める黒鋼。全身水浸しになっていよいよひんやりとする二人の傍ら、蝉の鳴き声が絶頂を極めている。


しばらく間を置くとファイが漸くぷっと吹き出した。黒鋼もにやりと口角を上げている。


「びしょ濡れだ。涼しい!」
「まったくな」


黒鋼がぎゅっと腰に回す腕に力を入れた。その腕の力強さを感じてファイは胸に黒鋼を抱え、それからちゅっとリップ音を立ててキスをした。陽は長く、なかなか堕ちることはないと云っても限度はある。暗くなる前に任務を全うすべく、ファイは黒鋼から降り履物に手を伸ばす。汗が流れ続けていたこめかみや首筋からはそれがもうすっかり引いている。

洞まではなるべく日蔭を通って行こう。着物は歩いているうちに乾く筈だから。そう算段して黒鋼ににっこりと笑いかけた。




「さてと行こうか、黒様」




ファイに誘われ黒鋼は自分より一個頭分低い背丈の金髪にぽふんと手のひらを乗せて、その前を歩き始める。道を開くようにその木の合間を分けて入ってゆく大きな後ろ姿。それに向かってそっと思うのは、ファイの口から紡がれることのない、彼にだけは知られたくない些細な願い。











オレが言わずとも敏い君ならば、いつしか気づくだろう。
それはきっとそう遠くない将来。数十年先のことかもしれない。ひょっとすると今日の可能性だってある。



けれどオレは願っている。
その未来が少しでも遅く来ることを。








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ここからずっと先、以前書いた原作ラスト短文につながります。
ファイさんの優先順位としては、写し身小狼君がやったように旅の遂行には出来るだけ大きな魔力を蓄える必要があるから魔法をたくさん使う。旅が終われば後は黒鋼の寿命に少しでも近づけたいから出来るだけ使わない。喩えファイさんの寿命がすでに黒鋼さんよりずっと長くなっていて、それが如何に無駄な足掻きでも。

ってな妄想でした。

 


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