10
◇
静かだった。微かに一面覆っていた霧が少しずつひいていく。はらはらと雪の珠がファイの白い頬に零れては、すうっと溶けこんでゆく。気を失い、弛緩したファイの腕は白い薄化粧のほどこされた大地の表にそれでも精気を漂わせる。腕の中で冷たくなっている小さな彼を、黒鋼は全身で抱きしめていた。ゆっくりと瞼を開くと冷え冷えとした空気が紅い眼に沁みた。
だが黒鋼には分かる。きっとここは、ファイの意識の中にある、この国だ。こんなにも濃霧で冷えきった空間に、いつも彼はいたのか。その固い抱擁にやがて瞼が微かに動き、ふわりと虚ろな蒼が現れる。
「・・・黒たん」
「ああ。すぐに連れて帰ってやる」
「・・・・・うん」
帰るという言葉に一瞬肩を震わせたが、それでも淡い微笑をうかべて自分を抱える黒鋼の腕に、小さな掌をそっと添えた。その時、湖の真ん中にこぽりと水が湧き起こる。盛り上がった水にはうっすらと痩せこけた金髪の子供の姿が映っていた。静かな再会。
無感動に二人の方を青い視線で見つめている。
―― ユゥイ
その呼びかけにファイは肩を波立たせる。
―― ユゥイ
もう一度、今は閉じられてしまった世界に置いてきた名が繰り返された。
「・・・ファイ」
瞼を落としてすうと息を吸い込み、ファイは蒼い瞳に双子の兄弟の姿を映した。
―― いくの?
「うん、・・・ごめんね」
―― そう、どうしてここにきたの?
「・・・オレたち、あの時道を間違ったんだ」
ずっと胸に閉まっていた懺悔だった。あの時、互いに自分の身を犠牲にして相手を出そうとしたことに。
余りにも永く限界に曝されすぎた身体と心。互いに相手を出すことを願いあうしか、もう、双子に手立ては残されてはいなかったから。だけど。
間違いだった。今だから、そう言える。
―― そうだね
初めて「ファイ」が、薄く頬を緩めた。それでもそれは十分にぎこちなくて。そうだ、彼はその方法を知らない。笑い方も、何も知らずに逝ってしまった。
ただ一度の温もりすらも。
「どうすれば、オレは許される?」
堪らず俯いたファイは声を絞り出す。声は震え、零れそうになる涙だけは落とさないように必死に耐えるが、それでも何とか「ファイ」の方を見るために視線を上げる。
―― 諦めないで ユゥイはファイだから いっしょだから
そっと差し出される、骨くれだった小さな小さな手。そっとその子に腕を伸ばす。視界に映った腕は元の姿に戻りつつある腕と、ダブって見えた。いつかヴァレリアの玉座の前で迫られた一度目の選択の時に互いにしっかりと握り合った小さな手。
あの選択をしなければ、二人長い間塔に閉じ込められることはなかった。
あの選択をその子はずっと悔いていた。
自分が死ねばよかったのだと。そう後悔しながら自らの身を捧げた。
けれど本当はこう願いたかった。
一緒に 生きたかったよ ユゥイ――
ゆっくりと、「ファイ」が笑う。とびきり下手くそな笑顔で。
だからね、ユゥイ…
ますます笑おうとする小さなその子に堪らず涙が頬を伝った。そんなファイの肩を後ろから強く黒鋼が抱く。そんな二人の姿はいつしか大人の姿に戻っていた。黒鋼の腕の中、瞼を閉じれば、とめどなく涙が溢れていく。
大丈夫。今度はちゃんと、離れなかった。「片方」なんて、選ばなかった。
一緒にいこう。共に、生きよう。どちらか、ではなくて。
「ふたり」いっしょに。
もう一度、一緒に行くことを選んでもいいよね?ファイ―――
ファイがそう心で返すと。ゆっくりと子供のファイが微笑んだ。極上に綺麗な笑顔で。それはもう、痩せこけて頬の角張った顔ではなかった。光を帯びて近づき、ファイの大きな手に、彼の小さな手が触れる。
『 どうか、 自由に 』
唇が動いて、もう聞こえぬ声が耳に木霊した。瞼を閉じたファイが黒鋼の胸に顔をすりよせた瞬間に、黄金のひかりが辺りに冴え渡る。包み込まれるひかりの中でユゥイは、もう一度、あの子の声を聴いた気がした。巻き起こる風音とともに。
mae tugi