つきの魔法 | ナノ

 

積雪を照らす明かりもない真暗い吹雪の中。微かに動く気配を察知した。思ったとおり、ファイは術のかかった場所にいた。先程よりも幾分和らいだ雪礫の中、地に手を突き湖の中を覗き込む姿は余りにも儚い。小さな魔術師の眼前に広がるのは、どこまでも深く暗い水底。あの闇に今彼は一体何を映しているだろう。黒鋼が手に掛けてしまった彼の大切な王か。それとも、失ってしまったかけがえのない、幼き分身か。ゆらゆらと揺れたまま魔術師の蒼を迎え入れるように拾い映す水面は、月の金と魔力の青が入り乱れ混沌と霞んでいる。

それでもファイは、自分の心の奥を垣間見ようと湖に己の姿を映し続ける。そうすることで一番辛かった過去の時間に意識を立ち帰らせていた。方法としては間違ってはいなかった。ファイにとって余りにも酷なこの方法が、文献に書かれていた通りのものだ。

水面に映し出された最も辛い己の過去から、向き合うことに気が狂ってしまうほどに彼を苛む過ぎ去った時間の欠片から、自らの最たる望みを探し出す。他人の手によって弄ばれた人生の分岐点をファイは繰り返し体験しているのだ。

これが、ファイ自身で考え抜いた末にたどり着いた、唯一の手段だった。あの頃の弱かった自分自身と向き合うために。

 七つの回数の月が出る間できるだけ多くの時間を使って自らの姿を水面に映し、その原因を問いかける。邸に帰ったあの日から、黒鋼が家を発ってからはずっと、毎夜こうして水面に問いかけに来ていたのだろう。
彼は黒鋼の前で、その心労をおくびにも出さなかったが、それは微々たるものではなかったはずだ。

 黒鋼はギリリと奥歯を噛み締める。どうして気づいてやれなかった。彼の性格を考えれば分かったはずだ。けれど、望みを探すためにはどうしても向き合う時間が必要だったのだ。そう自分に言い聞かせても、気付かぬ内に独り立ち向かっていた彼を思い、拳をぎゅっと握り締める。近寄ってもファイは忍者の気配に気がついてはいないようだった。歪んだ水面を見つめ、彼の眼にしか映らないはずの何かに見入っている。

 しかし黒鋼が覗き込むとそれは映像を象り始めた。黒鋼にかかっている彼の魔力によって感覚が共有されているためだろう。ファイが見ていたのは、黒鋼もセレスで見せられた、彼の幼い頃の記憶だった。死人の塔で双子のもう一人と抜け出そうと壁に這いつくばる瘠せこけた彼の姿。どんなに手を伸ばしても届かない高い塔の上にいる彼の兄弟に向かって、泪を滲ませながら屍骸を積み重ねる。やがて千切れる躯の腕。数え切れないほど堕ちくる民の遺骸。

目を覆いたくとも、蒼を閉じることなく眉を寄せてその水鏡に目を凝らせる。

―――もう少し

もう少しで、分かりそうなんだ。

やがて像は揺らぎ、塔の中のもう一人の少年を映し出す。こちらも骨くれ、痩せこけた指で冷たい鉄格子を握っている。絶望に胸を焼かれ、俯きながらそれでもその鉄柵に掛かる指からは力を抜こうとはしない。

「・・・・ファイ 」

その姿にファイは喉を詰まらせた。それでも悴んだ手で胸元をぎゅっと握り、ますます食い入るようにその子を見詰めて、搾り出すように、その名を呼ぶ。その呼びかけにずっとこちらに背を向けたまま堪えるように震えていた彼が、ゆっくりと振り返る。そして

――顔を 上げた

ゆっくりと無表情で顔を上げた彼は、間違いなくこちらを見ている。現在の「ユゥイ」を。それに気がつき息を呑んで、ファイは堅く身を強張らせた。そんな彼の様子に黒鋼は思わず手を伸ばす。触れれば振動の伝えてくる小さな肩を、後ろからそっと抱きしめた。
するとその途端に、びりびりとファイに意識がなだれ込んできた。

これは、黒鋼の記憶だ。かつて大切な者を守ることのできなかった無念が、堰を割ったように答を求めて心の深淵を彷徨い混沌としていたユゥイの意識とぶつかり合って充満していく。その衝撃にファイは大きく背をしならせた。驚いた黒鋼は腕の中で硬直し、痙攣を繰り返す小さな身体を返して顔を見つめる。つきの魔力が灯され、一際強くなった黄金のひかりが、蒼い瞳にちらちらと覗く。

自分が触れたことでファイが苦しみ始めたことに黒鋼は戸惑いを覚えるが、どうすることもできない。びくん、びくん、と黒鋼の意識を受け入れる度に小さな身体は大きく跳ね上がる。

それでも魔法を解く核となる術師である以上、黒鋼の意識もきちんと取り入れなければ二人ともが元の身体に戻ることは出来ないはずだ。
そう考えていたファイはますます力を込めて黒鋼に縋りついた。
一方黒鋼は戸惑いが勝って抱きしめることも出来ず、そろそろと彼の身体を柔らかく抱えることしかできない。

「・・・ぐ・・・ぁ・・!」

耐えながらも小さく悲鳴が上がる。
苦しむファイに黒鋼の記憶が注ぎこみ、全てを取り込んだ。そうしてだんだんに痙攣が治まっていく。それとは逆に酸素を取り込もうと息が荒がる。絶え間なく繰り返される呼吸の合間に、何かを伝えようと微かに動く小さな唇に気づき、黒鋼は耳を寄せた。

「―・・・っしょに・・・こ」

ファイは存在を確かめるように、終始黒鋼の手を離さない。

「・・・ろ・・さま・・・」

彼が呼ぼうとする名が自分であることに、黒鋼は瞠目した。その瞳に今は亡き兄弟が映されていようとも、今、ファイが共に行こうとしているのは、黒鋼だった。彼は過去ではなく、ちゃんと現在を、未来を見てくれていた。

 その時、月光に照らされた湖の中央で底から何かがコポコポと湧き上がってくる音に黒鋼は気がついた。やがてザァアアと水音を立てて、それは竜の姿をとる。ファイをぐっと抱き寄せ、刀を構えた。その刹那、幻聴のような咆哮とともに魔物は二人に襲い掛かってくる。

「これもコイツの魔力かよ…!」

舌打ちしつつ攻撃を避け、黒鋼は太刀を浴びせる。しかし水であるその魔物に斬撃が通じるはずがない。再び竜を象ると、溢れる水の塊となって、雄叫びと共に突っ込んできた。流水の轟音が木霊す。咄嗟にファイを庇う体制に切り替え、剣を片手に衝撃に備える。前が見えないほどに、風で勢いを増した霧雪が無情に吹きすさぶ。

暴風に塗れる水の衝撃の中、黒鋼は胸に、その小さな存在をますます強く抱きしめた。




mae tugi