つきの魔法 | ナノ



 帰宅してからは黒鋼も手伝いつつ夕餉の準備をした。何しろファイの身長は縮んでしまっているから水場に満足に手が届かない。そこでファイは、黒鋼が用意した台の上に立った。

 そうしてまず玉ねぎの皮を剥こうと手を掛ける。しかし剥きはじめると程なく、ほろほろと涙を流し始めた。そんなファイをみて黒鋼がぎょっとする。

「いいから貸せ!」

 次に包丁を手に取った。しかし包丁も小さな手には大きく、収まりきらない。満足に芋を剥くこともままならず、分厚く短い皮が辺りに飛ぶ。
 やがてふるふる震える包丁が、手から滑り、しゅっと音を立てて空中に弧を描いた。

「!!っぶねー」

 鼻の直ぐ先に降下した刃がびぃいん、とまな板に刺さり、黒鋼は肝を冷やした。いったいどうした軌跡を辿ればこの位置にに着地させられるというのだ。

「ごーめーんー」

わわわ、と焦ったファイが懸命に包丁を抜こうとする。しかしまな板から抜けた包丁が、またも黒鋼の鼻先を掠める。

 日本国最強忍者は、自分の邸にて立て続けに二回、命の危険に曝される。
しかしそんなことには全く気づかずに、ほやほやと包丁を再び扱い始めるファイ。
 そんなファイに黒鋼はくってかかってやろうと唸りながら口を開きかけた。

「たのしーね、黒様」
「・・・あぁ?」

 そうして振り向いたファイは満面の笑顔。その無垢な様子に黒鋼は毒気を抜かれる。

「こんな風に小さい姿でこの国のいろんなものに触れられるなんて」

 すっごいんだよぅーと笑ってファイが続ける。いつもは片方の手にすっぽり入ってしまう芋も、帰り道に通る橋の柱も、いつもよりも大きくて楽しいのだと。そして背が高いばかりにいつもは見逃してしまう小さな路傍の野花にも気づくことができたのだと。

「黒様の育ってきた世界を、黒様が昔見ただろう目線でみることが出来るなんて、オレ、幸せじゃない?」

 ファイは黒鋼とこうして水場に立つことも嬉しいのだとはしゃぐ。嬉々として語るファイに、紅い眼を見開き黒鋼は途方も無い表情になった。

 彼が今「幸せ」だと言った。そんな言葉がこのとんでもない現状で聞くことができるだなんて思いもよらないことだった。これが深層にあるファイの望みだなどとは思わない。だが、嬉しそうに仄かに笑みを浮かべるファイを見ると何も言えなくなってしまう。
黙って作業を続けるファイを見た。


しかし、そうは言っても命あっての物種である。

「…とりあえず、てめえは鍋番だ」

しっかりと自己防御策だけは怠らないことにした。






 次の日もまた更に次の日も。二人が元に戻る様子は一向にない。時間が経てば魔法が解けるかもしれないという甘い望みは瞬く間に露と消えた。

 黒鋼は年は戻れど、元より少年時代より、その戦闘能力は日本国でも群を抜いていた。その姿でも十分にいつも通りの任務をこなすことができる。黒鋼の生涯の誓いは仕え主である姫を守ることである。この程度のことで仕事に穴を開けることを良しとはできない。だからそのまま任務に就くことを強く志願した。知世もそんな黒鋼の性格を熟知しているから、敢えて何も言うことなく好きにさせた。
 ただし一つの条件を提示して。
それは可能性があるならば、術を解くことを優先事項とすること。
次元の理に反して仮の姿をとり続けることは、やはり好ましくはないだろうという判断からだった。

 だから夕べから深夜にかけて忍として城に仕え、その後朝方までは資料を漁り回復の方法を探す。日が昇ってから家へと帰り、暫く休憩をとる。出来上がった即席の生活スタイルだった。

 ある日思しき文献を見つけ、つい朝の帰りが遅くなってしまった。しかし、詳しい解除方法は記されていなかった。分かったのは、過去にもこのような事例は起きていたということ、そして若返ったのはやはり、次元を渡るほどの並々ならぬ魔力を持つ術者であり、彼は半年後に消滅してしまっていた、ということ。
これで益々うかうかしてはいられなくなった。このままでは黒鋼とファイも消えてしまう可能性が高いことが証明されたのだ。

 微かな手がかりも泡であったと知り、嘆息を吐くがファイにそれを悟らせるわけにはいかない。戸口のところで一息吐いて扉を開けた。すると漂う温かなご飯の匂い。胸がすっと軽くなる。履物を脱いで家に上がると、居間でファイが机に突っ伏して眠っていた。

 さらりと流れる金の髪。朝のきらきらした光をその金糸一本一本に孕ませて、そわそわと透明な色彩を放っている。白い吐息をつきながら畳の上で静かに眠る小さな柔らかい姿に、黒鋼は掛け物を持って近寄った。

 肩に掛けてやり、さわりと金髪を撫でてみても目を覚ます気配はない。畳の匂いとともに陽光に溶けこむ彼は、色彩豊かな日本に在っても決しておかしくなどない。

 だからコイツがこうして眠れる場所を、何時までも此処に。

 白く頬に唇を落とした。続いて今は隠れている左眼の瞼へも。瞼に刺激を感じてそれは微かに震えた。
 ゆっくりと今は薄く金の被膜に覆われた青い光が現れる。
月の魔力のせいだろう。
小さくなった彼の瞳は常に、淡い金の光で縁取られているように見えた。

「あ、オレ、寝てた?ごめんね、すぐにご飯用意するからー」

 瞬きしたファイはとたとたと水場に向かっていく。小さくなって、いくら飯を炊くのが難しくても。それでも変わらず朝食を用意して黒鋼の帰りを待っている。
 目を閉じれば、諏倭での暖かな生活が蘇った様に錯覚すらしてしまいそうになる。


――温かな朝食で迎えてくれる、この空気が堪らなくいとおしい。


 

mae tugi