真夏の夜の現夢 | ナノ

 




「どうしたのでしょう?」

「何だ」

「ファイさんのことです」


 行ってらっしゃい、と笑顔で送り出すファイに背を向け、二人連れ立って邸を出たのはつい先刻のこと。家まで迎えに来た扈従から穏やかに向けられた問いは、今では忍者の傍らにいることが定石となっている秀麗な異人を気遣うもの。


 肌や髪だけでなく、目の色まで日本国では類のなかった彼がこの世界の住人として受け入れられるまで、それ程時はかからなかったと言えば嘘になるだろう。しかしその中で異世界からの移住者を、さぞ奇怪に映るであろうファイを、先陣をきってありのまま受け入れてくれたのがこの少年だった。彼は元服を迎え城に召されて一度手合わせしたその日以来、黒鋼に全幅の信頼を置くようになり、剣の師と仰ぎ、さらには姫に忍軍大将の小姓として仕えること強く志願した。それからというもの、黒鋼が迎えは不要だといくら断っても、それを怠る日はない。


 強い男に憧れるのは何処の世界、何時の時代も少年たちの性である。
片腕を失えど日本国最強の名を欲しいままにしている忍者にすっかり心酔したらしく、あまりに従順に慕ってくる彼の忠誠心に、些か閉口しないではなかったが、彼の―――本質を見る眼。
 その琥珀色の真っ直ぐな瞳は、黒鋼が認めた遠い砂漠の地に住むあの少年を思わせ、いつしか扈従を許す様になっていた。


「このところ、顔色が優れないようで」

「ああ、」


特に視線を合わせることもなく、前へと向けたまま城への道を歩く。大股の歩調に合わせて少年は少し急き気味に歩を進めた。


「心配ではないのですか?」


そう言いながら黒鋼の表情を覗き込んだ琥珀の瞳は、柔らかい色を浮かべ、くすりと息を漏らす。



「…不要の言でした」


「―――知世が祭祀に招かれ、今宵は警護が手薄になる。特に厳重に城の裏手を固めておけ」

「御意」


 何があろうと命に失敗は許されない。いつもと変わらない口調で黒鋼は任務を伝えた。さて、今晩帰りが少し遅くなることは、出発の際にファイに告げたことだ。


 彼の言うとおり、黒鋼はここ暫くファイの顔色が悪いことに少し前からではあるが気がついていた。様子を見ている限りでは、特に体調が悪いというわけではないらしい。本人はそのことに気がついていないようだが、小姓が気づくまでになってきているということか。なるべく平静の所作を気に掛けてはいるが、以前とは違って自分にも気を掛けようと心掛けている彼に安易に口を挟む事にも気が憚られる。こちらから距離を詰めるばかりでは、今までより一向先へ進むなどできはしない。何よりも今朝、彼に『待つ』と言ったのだから―――









 ふっ、と紅く揺らめいていた燭台の灯火を吹き消す。


 今日も暑い日だった。いつ忍者が帰ってきても迎えられる様夕餉の下拵えを済ませたファイは、夕闇の中手元を照らしていた火を消し、居間へと上がった。今朝言っていた通り、帰りは遅くなるのだろう。
 綻びていた忍者の足袋に手を掛けると、新たに灯した燭台の傍らに針と糸を持って座る。動きの激しい忍者の衣はすぐに至る所が解れてきてしまうのだ。定期的に新しい物は支給されるのだが、なるべくまだ回復の余地のあるものは繕うことにしていた。


 灯火がジジと、揺れる音を聴きながら長い指先が細かな作業を進めていく。軒にぶら下る風鈴は重力に抗わず微動だにしない。それなのに今一たび、奇妙なことに、ぼう、と橙火が一際大きく燃え盛った。


「・・・・」


 その焔に蒼い視線を走らせ、無言でゆっくりと振り返る。


―――敵ではない。
散々の戦闘で培われた本能がそう告げていた。だが確かに。この視線の先には、見えない何かが、いる。



「オレに何の御用かな?」


 臆することなく異人は静かに口を開いた。途端、ぞわりと冷たい空気が背を伝う。その感覚に、緊張を走らせる。それでも未だ、相手を視力で捉える事ができない。ファイが声を掛けると共にその気配はすっと消えた。






 それがファイの近くに現れるのは、今晩に限ったことではなかった。日増しに気配ばかりが大きくなってゆく。初めの内は、何となく物の位置が変わっていたりとそれ位のもので、気のせいかとも思っていた。しかし、徐々にその存在を訴えかけるようにファイの周りで奇異な現象が続く。姿は現さないものの、今ではその気配をいっそう近くに感じる様になっていた。日が暮れて邸内で作業しているときには、見えない何かに手を触れられている感覚にさえ陥るのだ。


「困ったねぇ」


 ファイは溜息と共に眉尻を下げた。相手が見えない以上、気のせいだと片付けてしまえばそれまでだ。しかし現に何かはいる。かと言って直接的に被害を蒙ったわけではない。だから同居人にはまだ伝えるわけにもいかない。せめてもう少し、今の状況を掴んでから。そう考えていたのだが、洞察力の鋭い忍者にやはり気づかれてしまったことは今朝の問いから明白だった。


(信じても、大丈夫だよ。黒様)


 和えかに頬の筋を緩めると、ぎゅっと拳を握った。






mae tugi