「――――・・・」
はぁ、と一つ、溜息を吐いた。
未だ黎明前でうっすらと外は仄暗いにも関わらず、既に蝉はその短命を啼き叫び始めていた。ひんやりとした空気がファイの頬を撫でてゆく。その出来事を回想しようと柳眉を寄せるが思うようにうまくはいかない。自分は何時から仰向きで寝れるようになったのだろう。ふと、関係のないことも考えてみる。相変わらず普段は俯いて眠る癖があった。だが、寝台にではなく畳の上に布団を敷いて眠る様になってからというもの、時折目覚めると今朝のように天井を仰いでいた。
そのまま朝の空気を吸って怠惰な躯をそろりと身じろぎさせる。広い敷布団の隣に眠る黒髪の青年に蒼い視線を這わせた。
すっと通った鼻筋。その上で皺の伸びることのないが覚醒時よりも微かに緩んだ眉間。少しあどけなく見える。
沈黙したままその表情を見やり、自分とは風体の何もかもが異なるその人をつぶさに観察していた。日本国に連れられてきて数年経ち、ようやく穏やかな時を互いに過すことのできるようになった今、初めて彼が見せるようになった表情だった。それを見せられることを自然に受け入れられる自分と、少しだけ、ほんの少しだけ驚いてしまう自分がいて。――いつもならばくすぐったい気持ちで、陽がその精悍な頬を柔らかに照らすまで見守っていたものだったが。
今のファイは、その限りではなかった。そろり、と掛け布団をめくって足を抜き白い着物を整えると、寝床を後にした。
*
「おはよう、黒さま」
にっこりとファイが笑いかける。顔を洗った黒鋼を出迎えたのは、湯気を立てる朝餉の膳。その膳に視線を滑らせてから敷居を跨ぎ、畳を踏みしめた。しかし紅い視線は既にこの国では他に類のない白磁のような造形へと、向けられていた。
「どうか、したか?」
「―― なんでもないよ」
黒鋼が疑問を投げかけると、それにことりと首を傾けながら彼は穏やかに答えた。忍者はそのままじっと、視線を反らすことはしない。それでも笑顔は崩れない。敵前ならば禍々しさに満ちる視線も、今は驚くほど沈静した紅。やがて、朝の空気に似つかわしい凪いだ色のまま膳の前へで胡坐をかくと、黒鋼は手を合わせた。
右手で箸を取り味噌汁を一口啜ると、見計らったように装われた茶碗がそっと義手に手渡される。主から見舞われたその品は、既に壊れてしまった異世界の物ほどではないが、生活を滞りなく送るくらいの勝手は備わっていた。ほんわりと湯気立つ白米の咀嚼を満足そうに見やると、ファイも自らの膳の前へ座り箸を手に取り、先程の黒鋼同様に手を合わせる。
静かな朝の空気が畳の間を撫でてゆく。
「お前が、」
「うん?」
相変わらず膳に向かいながら忍者が口を開いた。ファイは箸を止め、その言葉に耳を傾ける。
「まだ言えねえのなら、それまで待ってやる」
「うん・・・ありがとう」
忍者が呟いた言葉に穏やかに笑みを噛み締めると、今ではすっかり使い慣れた箸の先を、再び白米へと導いた。
tugi