魔術師をアピールしよう! | ナノ
2-A


―――いい、匂いだ。

何とも言えない温かな空気が鼻孔をくすぐる。慣れない発熱に体力を消耗し、腹は確かに減っている。
黒鋼が重たい瞼を押し上げパカリと開いたそこには、湯気立つ小さな土鍋を持って部屋の入り口に立つ同居人が微笑みかけてくる姿があった。
足音も立てずに黒鋼の枕上に歩み寄り、ツ、と膝を突く。そうしてコトリと手のものを膝下に置いた。綺麗に足をたたむと、腕を伸ばし、白く肌理細かな掌が黒鋼の額に当てられる。

見上げれば彼の麗しき微笑。

「大丈夫?黒鋼」

それはそれは優しい笑顔で。
心配そうな色をその蒼に湛えて。
神々しささえ思わせる気品を漂わせ、紐で結わえた金の房を肩に流した恋人の様子はまさに――

(天 女 …)


「黒 鋼」


彼は忍者の名を呼ぶ。
いつかの距離を置くための呼び方ではなく、愛する者への呼称として柔らかく紡がれるその言葉の旋律に、病床の忍者は思わず胸の中でその余韻に浸った。

思えば長い道のりだった。旅の始めはどれだけこの名を呼ばせようと自分の名を彼に繰り返した日々だったか。
ぼぅっと熱に浮かされた黒鋼の脳裏に過去のさまざまな渾名が浮かんでは過っていった。

愛しさを込めて呼ばれるのであれば。
渾名で呼ばれるものとはまた違った趣がある。


空気は動き、ひんやりした手が後頭部に回され彼の膝に己の頭が乗せられた。いつもは抵抗するであろう黒鋼も、ただ今は、天女のごとき恋人に身を委ねる。

「ほら、口を開けて?」

軽やかなテノールで響く彼の声色が耳に心地よい。彼の浮かべる笑みは、もはや黒鋼の理性を奪うには十分すぎる美しさで。
ふーぅっと天女が息を吹きかけた匙を黒鋼の口元に近づける。

――これは夢なのか

言われた通りに開口しようとするが、思うように身体が動かない。
口を開くことの適わない黒鋼の様子を訝しそうに見つめる彼の手が止まる。

「どうしたの?黒鋼」

それでもやはり彼に湛えられた微笑が崩れ落ちることはない。


美しい。
金の糸は淡く耀き黒鋼の目の先で揺らいでいる。
長い睫毛も光を帯びている。

ただぼんやりと、彼の纏う光彩に目を奪われる。

そこで突然、彼は匙を椀に戻した。何を思ったか、するりと着物を着崩し白い肩を露にする。そのまま更にするすると自ら帯を解き、髪を解き、その生来の美貌を惜しむことなく黒鋼の眼前に晒す。
透明感のある肌にはつい、手を伸ばしたくなる。

どうしたことか。
いつもの彼の様子とは違う。
恥らいも照れ隠しにじゃれてくることもなく、こんな風にすんなりと自ら黒鋼を誘うなんて。
天界人のごとき先程とは打って変わって、情欲の色を宿した瞳で黒鋼の紅を映す。――人間としての淫らな熱の帯びた色。

「ね、黒様」

彼がほぅっと熱い吐息を漏らす。
目が霞む。彼の言葉が耳に木霊する。
近づいてきた彼の淡い桜色の唇がやんわりと形をとる。そうして色をほんのり紅く濃くしてその後を紡いだ。


ねえ、オレを――


あ、

げ、

る  ――・・・


―――・・・・・


「はーい!黒たんおっまたせ〜ご飯だよぉ〜!!w」

すぱーんと障子を足で開けて入ってくるファイの爛漫な声が部屋に鳴り響く。一応部屋の主は病人なのですが。
びくりと夢から醒めた瞬間、忍者の病状が音を立てて悪化した。

(俺の・・俺の青春を返せ・・・!このヤロウ・・!)


熱の為に満足に声も出せず、布団の中でぼそぼそと恨みつらみを呟く忍者がいても、

それも致し方なし。