U -心の声-
その日授業は休講で空きが出来た。しょうもないW時限目の面倒なだけの一般教養を受けるのならばと代弁を頼んで鞄を手に取った。
何故なら今日は雨だ。お気に入りの散歩道を歩こう。しとしとと重みを課してくれるその水つぶてを浴びれば浴びるほどに、誰にも知られぬ罪を負う自分の業を苛んでくれるようで、安心していられた。
何よりも、誰の「声」も聞かなくて済む。
「おい、お前傘ねえのか」
豪雨程に傘を差さずにずぶ濡れて歩く習慣のあったファイに唐突に声がかけられた。いや、声には気が付かなかった。身を放るように気ままに歩を進めていた肩を後ろから掴まれたのだ。振り返ればそこに在ったのは世にも珍しい紅い瞳。
「ん〜〜〜?何かいった〜〜〜?」
生憎雨の音で何も聞こえない。相手にはファイの声が聞こえたらしい。唇が舌打ちの動きをするとファイの肩を掴んだまま自分の傘へと引き入れた。
せっかく解放の時間だったのに。傘に入れられ、顔では笑いながらも少し残念に思った。
「お前、あほか?」
「うわぁ、びっくりするほど失礼な人がここにいますー。って君だれ?」
その瞳の色に吸い込まれるように見つめながらもファイはとりあえず口をついて出た疑問と共に首を傾げる。角度を変えるとこめかみから違う道筋で雨水の流れが伝うのが感じられた。
「それよりもお前風邪ひくぞ?」
「それなんですけど何故かオレ、雨で風邪ひいたことないんだよねー・・・黒い服に黒い傘。真黒なヒトだなあ。黒たんって呼んでいー?」
黒い人の持つ傘に弾く雨音の為に、自然とファイの声が大きくなる。
「なんでそうなんだよ、名前は黒鋼だ」
「プ。やっぱり黒りんじゃないー」
「笑うな。呼ぶならきちんと呼べ。やっぱりアホだな」
「だから初対面でそれは酷すぎるよーさり気なく傷つくんですけど」
「うるせえ」
ぎゃおぎゃおと言い争いをしているうちに雨は一層酷くなり、ひとまず近くにあった屋根に飛び込むとそこはコインランドリーだったので、上衣だけは乾燥させた。
「今乾かしても意味無くないー?」
「ひょろいから濡れたままだと風邪ひくだろう。近くにコンビニもねえな。とりあえずあそこに下宿あるから俺の傘貸してやる」
「オレが趣味で雨に打たれてるとか考えないのー?」
「そうなのか?」
「・・・え?」
時が止まる。心の声が、聞こえない。ここまで言えば今までの経験上冷めた心の声が聞こえてくるものだったのに。向けられる真っ直ぐな瞳に少したじろぐ。
「で、君は誰なのさー」
「だからさっきも言っただろが」
「何者かってことー」
「たまたま通りかかっただけだ。お前こそ何やってたんだよ」
「んーとねー、オレは雨の精なのー。今日は月に一度だけ空から降ってくることのできる日でー」
のんたりと言葉を紡ぐ。
ーー罪のない嘘ならば、吐いても許されるだろうか。
「あーわかったわかった、乾燥終わったな。おら早く着ろ。今少し小ぶりだ直ぐ行くぞ」
「できれば無視しないでもらえますかー?」
傷つくんですーと言いながらファイが身支度を整えると、すぐさま大きな黒い傘へと再び引き入れられる。けれど小ぶりだったのは束の間で、黒鋼のアパートの軒下に着く頃にはより一層激しい雨が槍のように地面を打っていた。
「どうせ時間あんだろ、茶でも飲んでけ」
こくりと首を縦に落とすと黒鋼について部屋に入った。フローリングが続く廊下の先には1DKが見えてくる。本棚に並ぶ参考書を見るとファイは声を掛けた。
「まさか学生さんー?」
「だったらなんだよ」
「いやまた偉く貫禄のある青年学生だなあと」
「ほっとけ」
緑茶な、文句は受付けねえと捨て台詞を残すとやかんに水を張りコンロに火をつけた。紅茶がいいーと返すと、俺は緑茶が飲みてえんだと一蹴された。オレお客さんなのにー、茶葉がねえんだよ、と応酬しているとベッドの下からケースが覗いていて思わず視線をそこに固定させた。
ベッドのしたにあるケースとかっていったらやっぱりアレだよね?都合の悪そうなことからは目を逸らすようになっていたファイが部屋を見回しながら視線を泳がせた。けれどファイも男だ。多少なりとも興味を引かれ、再びそちらに視線が流れて向かってしまう。
「AVだ何が悪い」
「わ、バレた。君おもしろいね〜。じゃあ、今から鑑賞会〜♪」
キッチンから戻ってきた部屋の主に声をかけられファイは目を見開く。咄嗟に応答しながらも実のところかなり驚いた。
どうしてだろう、心の声が聞こえない。
・・・いや、きっと今だけだ。心にあること全てをそのまま口に出す人間なんているわけがない。
何でそうなるんだよという非難の声を尻目に、続く軽い動悸に胸を押さえ、AVを取り出して許可無くDVDにセットする。
「ほぉお〜、これが黒たんのお好みですか。看護婦コスプレ、ふぉおぅ白衣の天使ちゃんだー」
「ごっ誤解すんなよこれは借り物だ」
(もっと見られて困るものは奥にあるけどな)
やはり、きた。
やっぱりこの人も例外なんかじゃない。聞こえるんだ、心の声が。
「黒ろん、オレ、飽きてきちゃった。そろそろ帰るー」
それならもう、長居は無用だ。
でなければ。
高鳴る心臓を抑えて声を絞り出す。
「えらくマイペースなやつだな。茶が入ったぞ」
早く。
「だめだよーオレ忙しいんだ」
早くしないと。
「嘘つけ、暇人だって顔に書いてあるぞ」
腕を掴まれる。いやだ、放して。さもなければ。
―――君の秘密が、知られてしまうよ?
赤の他人の、オレなんかに。
「ねえ、放してくれないと開けちゃうよ?ベッドの下にあるんでしょう、君の秘密ー」
言ってやった。そら、驚いてこの手を放せばいい。秘密を暴く前に君には正直に教えてあげる。だからこれで借りは帳消し。
俯いて、迎えるであろう非情な刻を静かに待つ。大丈夫、傷ついたりなんかしない。
「別に開けてえなら開けろよ」
(たいした秘密じゃねえからな)
・・・・え?
やっぱりバレたか、とぼやきながらがしがしと頭を掻く黒鋼を尻目にファイの動きは固まった。
今、何て?それより、おどろか、ない?
「なんか俺わかりやすいみてぇでな。何隠しても直ぐ人にバレちまうんだよ」
なに、それ?
驚きに言葉も出ないファイの前にスイと湯のみが差し出され、ぽかんとしながらそれを受け取った。上りゆく湯気に鼻の頭を擽られながら眼前に胡坐を組む男の顔を穴があくほど見つめる。
「んだよ?」
ううん、とようやく首を振ると、眼前の新種のヒトに倣って分厚い陶器に唇を近づけた。
「ぢっ」
「猫舌か。やっぱりあほ・・・」
「うるさいよー」
ファイが押し黙ったことによる静けさの中、TVの画面からは艶かしい女の声が流れ始めた。
mae tugi