サトリサトラレ | ナノ


  



たとえば声が本来の意味をなさないならば、それが発せられるその日常に何の意味があるというのだろう。










      







T -サトリ-



雨が降り出した。バラバラと大地を好き勝手に水の粒が叩いていくのはファイにとっては好ましいことだった。
このときばかりは安心して顔を上げていられる。笑顔を外していられる。

だからといっていつもファイが俯いて暮らしていたかといえばそうではない。
笑顔を向けられればそれ以上のものを返すように努力していたし、それより常にそれをつくっておかなければならない理由が彼にはあった。

一度崩してしまったらもう、作り直すことなんて出来るはずないから。




サトリ。


それはファイが物心ついてから、変わることなく常に共にある能力だった。

初めての経験は、母がもう無いのだと言っていたお菓子の隠し場所を難なく言い当てたことだった。別にそれが欲しかったわけではない。だから不思議に思って言った。大きなアイスブルーを見開いて。


「どうして嘘をつくの?」


言葉に詰まった母親はそれ以上何も言うことはなかった。その頃ファイはまだ、自分の知る全てを憚ることなく声に出してしまっていた。だがそうしているうち少し周囲に距離を置かれるようになることに気づく。やがてとりとめもない嘘ばかりだったそれらは、成長と共に彼らの自らの保身のためものへと変わり、友人のそれすらも見抜いてしまうようになる。けれど聡い子供だった彼は必要以上に空気を読むようになった。能力のことは巧妙に誤魔化した。両親にさえも。特殊な能力の為にファイは、世間から自らを切り離した。


「聞こえる」ことを否定して生きていかなくてはならない。

他人の心の声が話し言葉のように聞こえてくるファイにとって心安らぐ場所などなかったのだ。常に笑顔を浮べていても、心は冷め切った状態が続いていた。本当のことを言ってしまえばもう、周囲に誰もいなくなる。それがわかっていたから。繰り返される日々はファイにとっては嘘の繰り返し。白々しい演技だった。真実を明かしてはならない。

家族すらもその心中を覗いてしまえば全ては本音と建前から構成されていた。母はファイに無償の愛を注いだが、彼は知らされることのない彼女の心の闇を悟っていた。

ファイは一人で産まれてきたわけではない。

産まれるときにはもう一人分身がいたのだ。産声を上げることのなかったその子は取り上げられるときに失われた命だった。どちらか一方でなければ生まれてこられなかった。偶々選ばれ救われたのがファイだった。

それを知り大きな罪の意識が小さな胸を抉った。本来、自分の受けるのと同等分の愛が、亡き半身には注がれるべきであったのに。

母は心底優しい人であったから何時までもその胸中からもう一人の息子の面影が消えることはなく、それが逆にファイを苦しめた。


優しい母をこの上なく苦しめているのは、自分だ。





  



そんなファイもやがて大学に通うようになった。若葉の揺れるキャンパスのベンチの脇に立ち、自分に差し入れを作ってきてくれる異性に断りの笑顔を向けるのは既に指で数え切れなくなっていた。



「ごめんね?」



十数年に渡る学生生活を通して、それまでに何人もの女の子から思いを打ち明けられた。けれど告白を受ける頃にはとっくにその想いを知っていて、それをどう断るか対策を練ったあとなのだ。頬を染めて眼を潤ませ、淡い気持ちをぶつけられる瞬間。それは本来であれば温かなひと時であるはずなのに、いつも心がチクリと痛む。何故ならファイがそれを受け入れることはないから。

できることならば避けて通りたい。けれどこれを済ませてあげなければ彼女たちは次に進むことが出来ないのだ。だから呼び出されればどんな子でも受けて、それを丁重に断った。理由を聞かれると、それは君だから、君とは付き合いたくないんだ、とわざと相手の胸を抉るような言葉を選んだ。早く次の恋を探せるように。

普通に付き合うことなど、自分に出来るはずがない。それはよくわかっていた。誰を好きになったこともない。どんなに器量のよい女性であっても常に心が透けて見えてしまうのだから。サトリである自分の前では、どんな些細な隠し事すらも出来はしないのだ。

「大事にしたい」という気持ちは、同時に「嘘」を生み出すことをファイは知っている。そして「恋」は自分の為にすることなのだということも。喩え目を瞑って付き合ったとしても、いつしか相手の為の嘘は自分のための嘘と為り、その経過をファイは知ることとなる。全ては包み隠されることなく、しかもそれは相手の受諾を受けることなく。


関係を築く前から相手の心を見透かしてしまう、卑怯なこの能力。
薄汚れた、自分。

恋なんて、出来るはずがない。


ずっとそう思っていた。甘くて幻想的な想いなど自分には縁のないことなのだと。










mae tugi