サトリサトラレ | ナノ


けれどやはり、二人の間には微妙な空間が生まれるようになった。

それはまるでサトリの彼が意識せずとも、サトラレの彼が意識的に接触を避けているかのようだった。





Z - ランコントレ -






「あ、黒…」

授業を終えるチャイムが鳴り、学生たちの溢れかえる雑踏の向こうにその大きく黒い後ろ姿を見つけた。この幾月かのうちにすっかり把握してしまった彼の今日の時間割ならば、黒鋼の授業はこれで仕舞いの筈だ。思い切って呼びかけるけれど、いつものようにおちゃらけた様子で絡んでいくことは出来なかったが、此方からアクションを起こしさえすればいつもなら。そういつもなら、目敏くこちらの存在に気が付いて少し歩調を弱めてくれていた。そうして歩を止めて。此方を振り返って。それから。それから―――



―――「もう、終わったのか」




そうやってやや穏やかに向けられる紅。その色に、騒音から来るストレスのせいで張りつめていた心のどこかが綻んで、つい安心して、笑ってちょっかいを掛けに行ってしまうのだった。再びこちらに背を向け前進を始める広い肩を軽く叩いて、その仏頂面の頬に人差し指を突きだす。けれど二度目には振り向いてくれない可愛くないその頬に痺れを切らして、こっちからむにっと指を突き刺していく。そしたらあっちもあっちで負けず嫌いだからその三白眼の仏頂面が生意気にもその指に歯向かってきて。余計ぐりぐりと奥深くにまで突っ込んでくる結果めりこむ頬に、形が可愛く思えてギャップが面白くて、そしたら何だか込み上げてきて、変な顔だってひやかして笑った。そんな時決まって心のどこかがこそばゆい感じがした。

それは些細であってけれどファイにとってはあまりに幸せな日常。こんな何気ないやり取りが無機質な音量から、救ってくれた。周囲の声など関係なく、笑っていられた。

だけど今は。遠ざかっていくもう慣れ親しんでしまった背中。

授業が終わり帰途につく学生らの波に揉まれ、遠ざかっていくそれはいつもの様に待ってはくれなかった。そんな関係に作り変えてしまったのは自分だと苛まれる。サトリなどという能力をもった自分にとってきっとこれは自業自得なのだ。



外は雨が降りしきり、鬱蒼とした天候が続いている。おのおのが傘を片手に只でさえも鬩ぎ合った空間を行きかうものだから、ファイは余計に息苦しさを感じる。けれど常ならば頭痛の種である筈の諸々の声すべてが今は、意識の表層を掠りもせずに過ぎ去っていく。そんな彼にとっての『非日常』。格別それに気付くことなく、或る声を聴くことその一点に、意識を集中させた。


ねえ君は何を考えているの?
もう振り返ってオレの事を見てはくれないの?


無性に今は 君の声が 聴きたい





サトリだなんて、ずっと呪われた能力だと思っていた。勿論かつて面と向かって誰かにそう言われたことはない。けれど、決してそうではないと断言してくれる人間もいなかった。この十数年で悟ったのは、明かしてはならないということだけ。隠さねばならないという事実自体がファイに罪の意識を植え付けた。完全なるアウトサイダーだった。


だって、聴こえてしまう。ぜんぶ。ぜんぶ。ぜんぶ。
感嘆の声も称賛の声も、人を罵る声も羨む声も、蔑む声も、ぜんぶ。ぜんぶ。

『馬鹿だな、コイツ。』

けれどそんな自分に向けられた声が在った。それは余りにまっすぐファイには届いた。自分を罵倒する言葉であるはずなのに不思議と心地よい。驚くほど不作法な言葉も自分を肯定してくれている。…そう受け止められるようになったのはいつからだったろう。出逢った当初は決めつけていた。自分がサトリで相手がサトラレ。相手の声が聴こえていてもいいから安心できる。だから一緒にいたいのだろうと。・・・けれど、それだけじゃなかった。

もっと自分から他人の心の声が聴きたいと思ったのは産まれて初めてのことだった。裏も表もこの人の本当の気持ちが知りたい。彼のすべてが知りたい。そのせいで傷ついたって構わない。
そんな風に思えた自分が奇跡に等しかった。

幸せなきもちになれた。どうしようもなく毎日が楽しくなった。もしかして声が聞こえるというのは、そんなにわるいことじゃなかったのかもしれない。たとえ嘘でも、彼はファイにそう思わせてくれた初めての人間だった。

低い声。怒っていないのに少し怒っているみたい。ぶっきらぼうで粗野なのに、胸の何処かが少しホッとする。そんなあったかい声色。言葉はとても端的で簡潔なのにそれでいて此方を気遣うものがたまに見え隠れしている。そんな風に思わせてくれる彼の声はいつだって、目の前にいるファイという人物を作り上げることなく見ていることを教えてくれていた。

意図せず、どんなに拒否しても、勝手に他人の心の声が聞こえてしまうサトリが聴きたいと思ったのは、世界で誰よりも嘘がつくことが出来なくて、真正直で、周囲に声が筒抜けで。けれど本人はそれを全然知ることのないという珍妙な人間の声だった。だけど、この世界に在る数億人もの幾多の人間の中で、偶然にも出逢って、せっかくその声を聞くことができたのに。もう、手の届かないところにいってしまったのかもしれない。


もう取り戻すことすら出来ないかもしれないものが、そんなにも大事なものだったなんてことがようやく分かって、それがあまりに滑稽に思えて自然と口元に笑みが零れた。あーあ、オレ、失恋しちゃったみたいだ。そんなことを考えていたら自然と足が学舎から遠ざかっていた。雨はまだまだ降りしきる。








ザァアアアアアアア---


学舎を出る時はしとしとと降り続いていた雨は、ファイが門を出る頃にはいよいよ本降りになってきた。折り畳みの傘は鞄の奥深くに眠っている。だがそれをわざわざ開いて差すような気の利いたことをする気にもなれなかった。いつもは聴覚を断絶するために差さないのだが、今はただ億劫なだけだった。色彩豊かな沢山の傘たちが、褪せた空気の中で花開いていた。ちらりとこちらを見やる者は少なくない。中には視線が合えば傘へ招き入れようかという「声」さえ聞こえた。けれど今はそれがあまり有難くなくて、歩調を強めて門を突っ切ろうとした。その時。

力強い腕にぐいと後方へ引っ張られた。思わず蒼い眼を見開いて空を仰げば黒い傘。そして何時もさながら黒い服。出逢った時の既視感がファイを襲う。

「あ、…」

どうして、と言葉を紡ぎそうになったファイの腕はそのまま引かれ、元来た道を逆戻りさせられた。しっとりと濡れきった傘を差していることを鑑みるに、折角着いた帰途から戻ってきたらしい。そんな彼の行動の意図が分からなくて腕を振り払おうとするけれど、やっぱり大きな体躯に見合った腕力は相当なもので傘に入れられたままずるずると引っ張られる。一階は求職管理室、二階は特別な授業のない限り使われることのない視聴覚室と普段は人通りの少ない学舎に入り、閑散とした無人の階段を無理やり上らされる。だが最上段まで行くことなく、足を取られたファイがガンッと階段に突っ伏した。



「ッたぁ…」

肩をすくめて両の掌に掛かった反動と自分の重みを受け止める。ポタポタとファイの纏う雨水が水滴となって墜ちる。−−−どうして今、なのだ。さっきはさっさと行ってしまったではないか。関わりたくないみたいなのに、此方が惨めなだけだ。ファイが俯いたまま眉を顰めていると、シャツの襟首をがしりと掴まれ引き上げられた。

「乱暴だよ、黒様」

訝しげな表情を造りつつもへらりと笑って見せるファイに盛大に眉が吊り上げられた。立たされると同時に手摺りに身を押し付けられる。

「生憎俺は器用な方じゃねぇんだよ。触れると決めたらトコトン突っ込んで行かなきゃ気がすまねぇ」
「何その理由づけー」
「てめえみたいに中途半端じゃいられねぇっつってんだよ」
「ひどいなー」
(なんだよ…あのツラ。世界には一人きりでいいから誰もかまうな、みてぇなツラしやがって)

その時黒鋼の声が聴こえてきて、ファイはまあ確かになと心で相槌を打つ。けれどファイの気持ちをそう仕向けたのは眼前にいる彼以外何者でもない。少し腹ただしく思えて目頭に力を込めて反論した。

「・・・オレ、ちゃんと言ったよ。君の傍に居たいって」
「じゃあさっきのあれは俺のせいか?」
「だったら?」
「ふざけんな!」

手摺りに押し付けられていた痩身は再び力を受け、階段にその背を強かに打ち付けられる。ファイは痛みに顔をしかめたが聞こえてくる「声」がもっと悲痛で、息を呑んで黒鋼を見つめ返すしかなかった。

(俺はお前が好きで、お前もそうだと言った。そんで触れ合おうとしたら拒否をされて頭を冷やさせろと言えば、この世の終わりみてぇな顔される。俺はお前に、そんな顔させてぇわけじゃ、ねえんだよ!)

居た堪れない声が聴こえてきたと思った途端に柔らかいものに唇を塞がれた。突然のことに驚き、思わず「ん!」っと軽く肩を竦めるが、反抗の色を見せた両手首はいつしかしっかりと拘束され、濡れて冷たくなった身体は階段に縫い付けられる。乱暴なキスは歯がぶつかり合って皮膚に当たり少し鉄の味がした。けれど益々深くファイの舌を絡めて吸い上げてくる。いつしかその味も薄まってくるほどに時間が費えた頃には、ファイの意識は溶けたように応じていて、互いに唾液を吸いあっては舌を絡めた。やがて名残り惜しげに黒鋼がファイの上唇を舐めて離れていくと、軽い酸欠にファイは肩で大きく息をした。

そうして整わぬ呼吸もそのままに、感じる温かさにふっと笑みが宿る。ああ、どうしてこの人はこんな人で、自分はこんな簡単なことに気付くこともできなかったのだろう。

十分な言葉も無くキスを仕掛けてしまった黒鋼はどこか不安げで、ファイの表情を必死に見つめてくる。そうして浮かべられたファイの正体不明の表情に、黒鋼は怪訝な顔をした。躊躇や遠慮を携えても、蒼に向けられる真っ直ぐな紅。それがただ愛しく思えて、苦笑いをしながらその浅黒い肌にそっと掌を伸ばす。唐突のキスにファイが怒っていないことに小さく安堵したらしいがまだその表情はかたい。おっきなワンコをあやすように、目を細めながら強張った頬を辿っていく。紅い眼はそれに答えるように、しっかりとした視線をファイへ向けてきた。それを見て、またも納得する。

言葉なんて、要らない。

この人はそれを超えた何かを、確かに受け止めてくれる人。
だから、信じていてよかったんだ。


引き寄せられるように、互いの視線が絡み合ってその距離が縮まる。掴まれたままだった手で逞しい腕に触れ、頬を辿っていた掌はそのがっしりとした首筋に添えて。再び深いキスに没頭しようとした、その時。

「さっきの、すごかったなぁ!」

突然の声に二人の動きがぴくりと静止する。

「サトラレ、だろ?この大学じゃクロガネって奴がいるって話だけどどっからだ?」
「ああーアイツかぁ、あのやたらデカい奴。さあー今のじゃ場所まではわかんねぇな。確かに激しかったな。今頃人目につかねぇとこで、可愛い彼女とにゃんにゃんしてんじゃね?うっらやましー」
「おれ初めて聞いたわ。それが愛の告白ってちょっと興奮。まじパネェ」
「はは、意外とこの近くだったりしてな」
「げ。ヤメロって。それ、まじ、冗談にならねぇから!」

がははと笑声が聴こえてきた。一階に用事があったらしい生徒たちは階段を上ってくることはなかったのだが、吹き抜け状になっていたロビーの中心にある階段では彼らの声はあまりに鮮明に木霊した。迂闊だった。キスに夢中で近づいてくる人の気配に気づかなかったなんて。ファイの物理的な聴覚にここまで聞こえたなら、黒鋼にもきっと。窺うように下から見上げると、触れ合ったまま固まっていた唇がゆっくりと離れていった。




「どういう、ことだ…?」


 



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