サトリサトラレ | ナノ


「あれ?黒鋼君がいないね。遅れているのかな、珍しい・・・」
バスの点呼に、その存在感のある大きな学生の姿はなかった。



Y - フォークボール -




バスの車窓から、サトリである彼はその姿がないことを訝しく思う。そうなると知らず責任を感じてしまう。もしやあの時の自分の態度が彼を傷つけてしまったのか。心の声を発端にして感情をむき出しにぶつけた経験のないファイには、どう対応してよいかもわからない。けれどあれだけ思考を読まれようとからかわれようとタフだった黒鋼が、態度を・・・姿すら自分の前に現さないまでに変えてしまったのかと思うと、戸惑いを感じた。そこまで嫌われてしまったのだろうか。顔も見たくないほどに。


黒様の、馬鹿。

さほど大きくもないバスは二台チャーターされ、エンジンはガタガタという不快な振動を奏でている。エアコンの心地よいとはいえない独特のぬるい風が、振動に身を揺すられ頬杖をつくファイの頬を轟音と共に撫で続ける。

あれから昨晩は―― 黒鋼をホテルに置いてきてからは一度も顔を合わせていない。まさか生活パターンを変えるまでには至らないだろうという予想に反して、黒鋼は朝食にも姿を現さなかったのだ。確かに、あの時のファイの態度は良くなかったのかもしれないが(拳骨で殴って放置してきた)、これはあまりに不自然だ。
重い靄が気持ちに圧し掛かるけれど、ファイとしては黒鋼のように思ったこと全てを口にするなどということはできない。いや、それは許されないこと。もしもファイがそうしてしまったならば最後、全ての関係性は壊れ決して修繕されることはないだろう。そればかりか、彼の今後の人生に多大な影響を与えることになるのは間違いない。サイアクの場合、自ら命を絶つサトラレもいるという。だから彼を大切に思うならば、決して伝えるべきではないのだ。
けれどそうである一方で、出来ることならば、全てを吐露してしまいたい。

ファイは思う。彼になら、と。
彼になら今までの人生で自分一人で抱え込んできた秘密も、そして黒鋼に対する想いも、全部。

全てを、明かしてしまいたい。

だからあの時は、
そうできない自分に。
そしてそれが許されないその苦しさを誰にも訴えることの出来ないという現実に。

膨れ上がった気持ちのやり場がなくなってその矛先をつい、持て余してしまったのだ。

ファイはまたひとつ、大きな溜息を吐く。
なぜならば。だってそう、これは間違いなく――

・・・やつあたり、だよねぇ…

自分のやってしまった行動に嫌気がさした。それでも今朝までは心のどこかで期待していた。あの黒鋼のことだから、もしかしたら多少ぎこちなくとも姿を自分の前に現して、そうして今までどおりに言葉を交わすくらいのことはしてくれるのではないか。
一緒に居さえすれば、いずれはタイミングを計らって、あの時の行動にどうにか説明が加えられるかもしれない。うまく行けば修繕とはいかないまでも、友達としてでも、彼の傍にいることは出来ないのだろうかと。

しかしそんな淡い期待は、彼の不在によってあっさりと裏切られてしまった。
自然とファイの気持ちは薄暗い底を這う。

黒鋼は取り立てて集団行動を歓待する性格ではないが、団体に所属する以上、その定められた集合時間に現れないなんてことがあるわけがない。彼はそういう男だ。
そう高を括っていただけに、ファイの不安と苛立ちはより一層大きなものへと育ちつつあった。
らしくもなく、眉間に皺がよる。


黒りーの あほ。

ファイが心中でそう小さく二回目の毒を吐いたときである。蒼い視線の一直線上先、座席の硝子をとんとんと叩く握りこぶし。視線を下げてみれば、いつかの眼鏡をかけた擬似風紀委員男がいた。その姿を認めたファイは窓に手を掛けガコンと開放する。
すると彼は相変わらずぐいと顔を近づけてきて、やっぱり早口で捲くし立てた。


「おはよう。突然だがキミたちが昨晩行った場所まで、当局では把握できている。実はあの建物の一室でボクは待機していた。キミたちには申し訳ないのだが、なにしろボクにはそうする義務があるのでね」

「!」

それを聞いて一気にファイの頬から火が出そうになる。
この彼があそこにいたというならば、それはつまり自分たちが一線を超えようとしていたことまで全て知っているということだ。
彼は当然聴いて知っているはずだ、黒鋼がファイに向けてしまった気持ちも。

ファイは彼の印象を鮮烈に残していたわけではなかったし、あの日一度会った以来は、キャンパスでその姿を見かけることもなかったから、存在自体の記憶も摩耗しかかっていた。(今からすれば、単に二人だけでいると思いこみたかっただけなのでは、と自分で思う。)けれどよくよく考えてみれば、監視員である彼が黒鋼の周りからいなくなることは無いわけで。そうなると自然と今までの自分たちの行動の一部始終が彼の監視下にあったことが知れた。

脱兎の如きスピードでバスの外に飛び出したファイは、彼の腕をとって引きバスから距離を置く。真剣な顔で彼の顔を凝視する。彼は動じる様子もない。


「教えて欲しいんだ。あれから、彼は?」

一番気にかかる問いをまずぶつけてみる。彼ならば、当然知っているはずだ。
ファイとのいざこざごときで投げやりになるほど黒鋼がナイーブであるはずがない、ある意味どうだかなぁという認識の下そう信じてはいるが、それでも聞かずにはいられない。
万が一、黒鋼が何かの事件にでも巻き込まれていたとしたら。

「知りたいの?」
「そんなの、当たり前じゃ… 
「じゃあどうして拒んだんだい?」「、っ」

言葉に詰まると、彼は矢継ぎ早に続けた。

「うん。まあわからなくもないけどね。なにしろ相手はサトラレ。そしてここは日本で男性同士のそうした関係にそこまで大らかである文化圏ではない。秘密で恋愛関係を続けることなんて出来るわけもない。無論好奇の視線に晒される。キミが彼に会わせようものなら友人、両親にも何もかもが筒抜けだ。女性ですらもそれを倦厭するからね。ましてやキミは男性だ。悪くすれば理解を得られないばかりではなく誹謗中傷さらに下卑た視線で行き当たりの人間に見られる未来は目に見えている。自分の身が可愛くなるのも当然だ。まあわかるよ」

フムフムと一人頷きながら捲くし立てるように語り続ける彼。ファイは唇を噛む。

別にどうでもよかった。そんなことは。
今、ファイが聞きたいのはそうしたことではない。どう思おうが彼の勝手である。
ただ、黒鋼の安否を聞き出すことができればいい。

「彼は、どうしたんだ」

彼を無視して強めに再び問いただす。けれど眼鏡の奥の視線を横に反らされた。

「言葉は悪いけれど、ボクは彼に着かず離れずずっと《見張って》きた人間だからね。仕事とはいえそれなりの愛着もある。だからどうしても彼の肩を持ってしまうわけだよ。ねえキミ、わが身可愛さが勝っているのに、それでも彼を心配だというのなら、それはとんでもないエゴなわけなんだよ。どう?違うかな。申し開きは一応受け付けるよ?」

(さあどう答えるか聞かせてくれ)


眼鏡の奥から黒い瞳が探るように見つめてくる。


「・・・・」

「どこ行くつもりだ」
心の声が聞こえるなり、くるりと背を向けて歩き出したファイに後ろから声が掛けられた。

「探しに行くのかい?けれどここで探し当てても結局キミは彼から離れていくんだろう? …あぁいい。いいよ、そんなことに罪悪感なんて感じなくても。けれどね、これだけは言っておきたいんだ。

中途半端な同情ならばすべきではない。」

彼は決定打を放ったつもりらしいが、ファイは歩みを止めることはしない。なぜならファイの気持ちのベクトルは、彼の意図とは異とする方向にある。

答える気の無い人間から欲する答が得られないならば、自分で探しに行くほうが早い。それだけだ。構っている時間が惜しい。
しかしそんなファイを引きとめようというのか、なおも彼は食い下がろうとする。


「行くのは 同情なんだろう?」

一体何が聞きたいのだろう。
同情、いったいそれは誰が誰に?

ようやく足を止めるけれど振り返りはしない。ひとつ、息を吐く。そうしてファイは答を返した。
普段のふわふわとしたテノールではなく、地に根付くような静かな低音で。


「それを決めるのは、あなたじゃないから」


一拍の後、背後の彼の張り詰めたような雰囲気がゆるりと解されたのを感じた。

「挑発には乗らないんだね。安心しなよ、彼は昨晩ちゃんと宿に戻ったよ」

欲しかった答えが不意に与えられ、ファイは微かに振り返る。安堵にほっと胸を撫で下ろすが、こちらを試すような物言いの人間に気を許したくはない。それに黒鋼がまだ来ていないことは確かだ。その原因がもしも自分にあるのならば、一刻も早く会わなくてはならない。…いや、ファイ自身が今、あの紅を見なければ胸が苦しくて仕方ないのだ。
やはり探しに行こうと更に一歩、足を踏み出そうとした刹那、アイスブルーに小さく黒い逆毛頭が映った。思わず息を飲む。

黒様…。


求めていた見まがいようのない姿に思わず身を固める。

「朝食のときも今も。ボクがトラップを仕掛けて彼を足止めしたんだよ。勿論彼には気づかれないようにね」
「何故そんなこと…」

「キミの反応を見るために。」

改めて黒い瞳を見ると、どこか切ない色が垣間見える。

・・・この人。

直感で胸を過るあくまで想像の域を出ないそれを、問いとして投げかけてみた。

「ねえあなた、もしかして彼のことを?」
「…さあ?ボクは望んで彼の近くに居るキミほど、奇特な人間じゃないからね」

言いながら銀縁の眼鏡の真ん中を片手で眉間に押しやる。口元に笑みを浮べながらも表情を隠す様に。


「言ってくれますねー。貴方なかなかいい性格してらっしゃるー」
「それはどうも。・・・・・でも一つだけ、言い訳しないのなら聞くよ。

…彼を任せても、いいのかな?」

二組の視線が交じり合う。何かがぶつかり一方で何かがほぐれていくような倒錯めいた空気が流れる。


「さぁね?」

これまでの返しとばかりにたっぷり含みを孕んだ不敵な笑みを浮べたファイは、彼に今度こそ背を向けて歩き出した。






バスに乗り込んだ黒鋼の後を追い、ファイも空調バランスの微妙な遮蔽空間へと戻る。冷たさとぬるさの混在する車内。中では黒鋼が詫びの言葉を口にしながら大きな身体にはいかにも細そうな通路に身を納めているところだった。ファイは先程座していた席を通り過ぎ、最後部の空席に落ち着いた黒鋼の斜め前に立つ。

途端、空調の冷たい空気を浚う温い風が、ファイの身体を嬲った。

紅い視線が金髪の姿をとらえる。あちらはあちらでファイが避けてくると思ったのだろう。些か眼を見開いて見据えてきた。気まずいことがあろうとも、視線を反らさないところがやはり彼らしいと思う。ファイも今ばかりはいつもみたいに茶化してはぐらかして終わらせることはしない。してはならない。

交わる視線。
金に縁取られた異国の瞳はしっかりそれを受けとめる。それから目を細め、くるりと身を翻すとその隣を陣取った。足組みし手置きに頬杖を突きながら視線は前を向く。ここに居ては如何していけないのだという風体で。それがごく自然で、当たり前のことであるかのように。

そんなファイの様子をしばし見つめていた黒鋼であるが、特に言及しないで視線を窓の外に向けた。

(わけ、わかんねえ)

黒鋼の心の声に反応して、ちらちらと数人の視線が二人に向けられた。構わずファイは、前を凝視したまま言う。


「殴ったのは、悪かったよ」
「・・・」
「けど、拒否じゃない」

ここでこの話を始めるのはファイにとっては賭けだ。――これから先も黒鋼と共にいられるかどうかの。
昨日の一件でもし黒鋼が自分に愛想を尽かしてしまったのならば、いっそ皆の前で振られてしまえばいい。黒鋼は包み隠すことなど出来はしないのだから。

ファイが最優先したいのは、可能性があるならば彼の傍にいるチャンスを作ることだ。



「一緒に、いたいんだ」



向けられる紅い焦点を蒼で受け止めながら言った。


今、言えることは、 これだけ。



「・・・考えさせてくれ」


一言。そう返しただけで、黒鋼はそれ以上何も言わなかった。心の中でも何もいわない。

バスの中で二人が交わした言葉は、それだけだった。
空調の風音ばかりが、やけに大きく耳に響いた。


 



mae tugi