静か、だった。
薄くまどろんだ暗闇の中、微かに水音が聴こえたような気がした。小さな波紋はやがて大きく広がってファイの聴覚に反響していく。
その時漸くはっきりと覚醒できた気がした。いつだって何も聴こえず、感じなかった。耳を傾けてみようともせずにファイが一人踞っていたその場所は永かった暗闇の世界。
家の中で両親に捨てられて、居場所がなかった。だからもう、これ以上は傷つかないように。
自分の考えだけで頭の全てを支配して満たして、小さな小さな世界に逃げ込もうとしていた。いつだって自分を偽って、愛されたいのに強がって、見つめて欲しいから固執して。
でも、そんな暗い世界から無理やり腕を引っ張り上げられた。
――そっか、オレ。この人に抱かれたんだ。
ファイははっきりと認識した。同性に抱かれるのなんて初めてで。きっと、彼もだったんだ、と思う。見るからに健全そうな顔つきの青年。そんな彼に自分を抱かせたことに罪悪感を覚える。
黒鋼はファイを大切に扱おうと細心の注意を払ったけれど、やはりお互い慣れなくてどうしていいのかわからなくて、今思えば笑える程不器用なセックスだった。
ファイにとってはきっと。同性に抱かれるとか、そういう行為に及ぶとか、そんな事は大したことではなかったのだ。何処か澄んだ意識の中、目を閉じたまま遠くに自分を感じながらそう思う。
「けど、」と更に思考を続ける。間違いなく、昼間に男に襲われたときは気持ちが悪くて仕方がなかった。それはいっそ、自分が終わってしまいたいくらいに。もう、全てがどうなってもいいと思ってしまうくらいに。ただひとつ、大切にすべき存在であったユゥイのことでさえも。
足元から崩れてしまう程に不安定な世界に立ち上がることさえも怖くなった。
大切に思うからこそ、ファイが認められない世界ならばユゥイごと、この世界から終わらせてしまいたかった。
それがファイが自分の殻に閉じこもった末の、終焉のかたち。
あのまま救い上げてくれる手がなかったとしたなら。間違いなく自分で造り上げた世界に囚われて絶望して崩壊して、もう、戻ることは出来はしなかった。
だけど、どうしてだろう。どうしてこの人は必死に自分を助けに来てくれたのだろう、運ばれている時も深く遠く堕ちた意識の中でファイはそればかりを考えていた。
この人にとってこんなことをして何になる?甘えてしまっても?このまま全てを彼に打ち明けてしまっても?
何よりも怖かった。
また捨てられることが。絶望してしまうことが。自分より大きな手に縋ることが。温かさを逃してしまうことが。
怖かった。
けれど彼の背に負われ、揺らいでいたその意識の中、ひとつだけ、分かったことがある。
この温かさは、心地いい。今の間だけ。ほんの今だけでいいからどうかこのままで。
そう願ってしまった。それは、この世界に自分を繋ぎとめる微かな兆しを願うのと同義のことだった。
その広い背の温かさに、幸せを感じた。これきりかもしれない優しい人の体温に縋ってしまった。
生きたい、と感じてしまったのだ。ただ、そのことをきちんと自覚できたのは翌朝が覚醒してからのことだったけれど。
慣れない優しさに包まれて安らかな気持ちになれた。初めて何かから解放されたような気がした。愛しいと思う。彼の温かさを。
この温もりを。
だからファイは朦朧とした意識の中で黒鋼に請われた誓いを受け入れた。
相手は男。何も産み出せない。
そんな価値観なんてちっぽけなことに思えて、ただ、自分に温かさをくれた人間を受け入れたかった。一つになりたかった。これからもう、二度と出逢うことの出来ない存在なんだと次元を越えた魂が悟った。
初めての行為に感じた痛みや苦しさ。それら全てを凌駕してしまうくらいに、自分を抱きしめる肩が、吐息が、黒い髪の一本ずつが堪らなく愛しい。涙が溢れて止まらなくて息も苦しくてそれでも自分を欲してくれる人を懸命に受け止めた。
ゆっくりゆっくり時間を掛けて黒鋼はファイに入っていく。それでもやはり苦しがって声を噛み殺すファイの金髪を優しく撫でてそっと唇を落とす。
心配そうな紅い眼はファイの苦しみがやがて治まるまでじっと待った。ファイの表情も、声も、睫毛一本一本にまで、その微かな振動に耳を傾けた。
そしてファイだけを見て。動き始めながらもその表情をじっと見つめる。ただ一人ファイだけを―――
こうやって一人の人間として見つめられること。それはファイは幼少の頃から叶わぬ願いだと気がついてから、憧れて焦がれ続けた夢だった。…もう一度願うことは赦されるだろうか。
戸惑いを孕んだ幽かな小明が心にともる。
未だに朧で放心状態にあり殆んど反応を示さなかった薄い身体はいつしか熱を持ち、伸ばした手に力を入れてその広い背中を抱きしめた。
自分から引寄せて
壊れるほどに求めた
そんなファイに黒鋼は応える。その本能がファイを欲する。二人で高みに向かっていく。
しかし黒鋼は寸前でファイとの繋がりを解き、その腹へと精を放った。
深い吐息に肩を上下して、ファイは不思議そうに潤んだ瞳の色を揺らめかせてその顔を映す。そんなファイに黒鋼は粗い息を吐きながらも紅い眼で応じる。何か気にくわなかったのかと戸惑うファイの頭を優しく大きな両腕で包み込んだ。
―――大切にしてぇんだ。
その囁きを耳元ではっきりと聞き取った。身を震わせたファイが再びその瞳を見返すと、そこには真摯に見つめる視線があった。そこには嘘も偽りもない。自らの欲のためだけではなく、ファイの気持ちを大切にしたいという黒鋼の無言の証明だった。
ファイの蒼い瞳には再び、大粒の涙が溢れ出す。黒鋼は自分のためじゃなく、ファイの為に抱いたんだと証明してくれたことを確かに感じたから。
自分の理想論を双子の分身に押し付けるしか知らない一人ぼっちの、こんなちっぽけな存在を必要としてくれた。
次から次に涙が頬を辿っていく。
そんな自分にこれは気持ちよかったせいだって、余韻のせいだって言い聞かせようとしたけれど溢れる涙は止まらない。そんな宝石のような瞳から零れる滴を武骨な手がそっと拭う。
そしてファイの瞳から視線を逸らすことなく強く見つめて黒鋼が言う。
『共に待とう』
思いもよらなかったその言葉にファイの目が見開いた。
もう、ひとりじゃない。暗闇の中、ひとりで待たなくてもいい。
だってこのひとが、こんなにも近くにいてくれる。
きっと生きていける。
mae
tugi
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