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「手遅れ、だと?」

黒鋼は女の不審な物言いに眉を顰める。

「私が言えるのはここまで」
「なんのことだ」

再び煙草を口に咥えて呑むように吸い込んでからフウと息を吐く。ポワリと煙の輪がおこった。

ゆったりした女の動きに痺れを切らした黒鋼は言葉の意味をもう一度促した。

「答えろ」

それに答えることはなく、彼女はただ、深紅の瞳に黒鋼の姿を揺らめかせている。
薄く、唇を開く。

「大切なものは、すぐに手の届かないところへ行ってしまう」
「あ?」
「失ってからではもう、遅いのよ」

彼女の言葉には、まるで脈絡がない。これではまるで禅問答だ。

「さっきから何勝手なこと言ってやがんだ」

不機嫌を隠そうともせず、客人を迎えながらも体勢を整えることなく悠々と寝台で寛いでいる彼女に向かって、ぶっきらぼうに言い投げた。

「では、望むことはないというの」
「ねえな」
「そう・・・」


彼女の紅い瞳には冷たい炎が淡々と渦巻いているようだった。
その炎は感情を忘れてしまったかのような、底知れない深い緋色。

「じゃあ・・・」

そう言いながらそろりと腕をかざす女に、黒鋼はぴくりと反応する。サラリと艶のある黒髪が一房、露になっている肩を流れていった。

その様子を見やりつつも、彼女の取り出したものに驚いて思わず声をあげる。

「てめえ、いつの間にッ・・・!」

「コレは預かっておくわね」
「なっ?!」

チャラリと音を立てて女の白い手から垂れたのは一つの小さな袋。黒い生地に銀糸で刺繍をあしらった、大きめの四角いお守りだった。
それは今の黒鋼にとって一番大切なもの。
今は亡き父から母を守れという言葉と共に遺された、約束の証だった。

つうと女が指で象を辿り、手元で揺れる鈴をピンと弾く。

シャリン。
それと同時に思わず呆けていた黒鋼はハッと我に返る。その途端にもの凄い形相になって怒鳴った。

「ざっけんな!てめえ、返しやがれ!」
「返して欲しければ、明日もここに来なさい」

「ああ?!」
「貴方に選択肢は二つよ。明日、私の言う時間にここに来るか、このまま永遠に…この大切な形見を失うか」


突然差し出されたあまりにも不条理な提示に黒鋼は憤る。それと同時に「形見」であることを告げてもいないのに、何故この女にはわかるのかと一応は考えるが今は取り戻すことが先決だ。そんな黒鋼にお構いなく彼女は命令口調で続ける。

「必ず来なさい」
「うるせえよ!」
「では、もう今日はお帰りなさいな」
「指図すんな!」

そう言うが早いが、黒鋼は奪われた大切なものを取り返そうと彼女に向かっていく。しかし、不思議なことに一定の距離以上にはどうしても足が進まない。そんな信じられない現実に、黒鋼は思わず背中に汗をかく。全く未知の圧倒的な力に、黒鋼の為す術はなかった。












 その膠着状態のまま果たしてどれくらいの時間が流れただろうか。

未だ身動きの取れないまま、黒鋼は足を踏みしめていた。


「貴方そろそろ諦めない?」
「んなわけいくか!」
「コレがそんなに大切?」
「てめえには関係ねえ!」

「貴方の力ではこれは取り戻せない。今は大人しく指示に従いなさいな。時を見計うほとに賢明になりなさい。でなければ、取り戻すチャンスさえも失うことになる」
「くそう!」

悔しそうな黒鋼に女は冷めた表情を向けてその答を待つ。


「・・・とっとと時間を言いやがれ」

遂に黒鋼から放たれたその言葉に、満足げに妖艶な口元を緩めたのだった。







 腹立ち紛れにドカドカと盛大に足を踏み鳴らしながら玄関へと向かう。その後姿を見守る不可思議な女は、去りゆく彼に向かってにやりと笑みながら言葉を投げる。

「言った時間に必ず来なさい」
「うるせえ!!」

不機嫌絶頂にある黒鋼は振り返りもせずにそう一喝すると、廊下をくだって玄関へと降り、靴を履く。ガチャリと扉を開ける音と勢いよくバタンと閉まる音が邸中に鳴り響いた。

部屋でその音を聞いた彼女は、もう届かない言葉をそっと、彼へと贈る。

それは聞こえることのない忠告だった。彼女はここにきて初めて表情に、少しの憂いを浮かべた。




「来なければ、貴方はもう一つの大切な存在をも、永遠に失うことになるのよ・・・」








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