設定話 | ナノ




まだ寝台に就くことなく書物に目を通していたその国の王は、冷涼とした空気を小さく揺らす子供に気がついた。

王が歩けば広闊な階段には蒼い明かりがほうっと揺らぎ、長い黒髪がそれを受け取って白めいた光を浮かび上げる。

歩き往けばやがて小さく開く木製の扉に行き当たる。

強大な魔力は主の居場所を王に伝えてくる。
その内に隠る寂寥も。

下人でなければ踏み入れることも、触れることすらないであろうその扉を王自らゆっくりと、押し開いた。


覗いた先に、細やかに浮かぶ月を見つける。
小さく小さく、消え入りそうな程に光が薄らいでしまったその異世界の皇子を。
彼は冷気を食んではそっと咀嚼しているようだった。


足を一歩。また一歩と踏み入れると、足音は闇に反響して月の光に弾かれる。


はっと小さな皇子は顔を上げ、警戒心を剥き出しに纏った。
散る金糸が疎らに光をかき乱す。

その瞳には世の中の何をも信じず、捕らえられない闇が棲まっていた。
自分の存在を問い続ける、そんな闇。


それを見とった王は悲しげに目を伏せる。



――そんなもの。問わなくていいのに。
けれど問わずにはいられない。




自らも不可抗力な力に意識を侵され始めていた王にはわかっていた。
今はまだ、小さいが確実に内面を蝕んでいくこの浸食は、やがては全てを取り込んで終にはこの皇子すらも自らの凶行で苛むのだろう。
虚しさだけが心に積る。

一方、罪悪感から逃れるために身を隠していたつもりのところを恩人に見つけられ、彼は居た堪れなく小さな肩を震わせ始めた。


王はそれには気付かない振りをしながらも案ずる余りに注視する。華奢過ぎる、細すぎる身体を。


王は知っている。
世話役にも報告を聞かされていた。


彼はここ暫くまともに食事していない。


皇子は確かに餓えている。
けれど、食物という命を繋ぐ糧がその咽を滞りなく通ることができない。
目の前にすると先ず、意識が競って彼の脳内に浸食してゆくから。

『本当にこのまま進んでよいのか』

進む目的を殺がれ生きる意味を喪い漫ろに生に漂う自分が
糧を取り入れその先を延ばす――その価値はあるのかと。

生きなくてはいけないと自らに義務を強いても
ふと虚無感が押し寄せる。


これ以上の闇色の渦を織成すよりも
自身の生さえ終わりにすれば。



自国を脱出してしばらくは王の勧めるままに食べ物を受け入れようとしていた異世界の皇子は、最近では殆んど何も受け付けられない。
ただ独り、膝を抱えて自分のか細い体温だけを抱き締めることが多くなった。
双子の兄弟の沈む、水面の前で。


無で涸渇した心が常に孤独の皇子の傍から離れることはない。

今、王の前で大きく震える彼の肩は身長にも似つかわしくなく細く。
手を伸ばし王は波打つそれを抱く。

確かな物を求めても見つけられない暗闇を、王は知っている。



それでもたとえ幽かでも、耳に届きさえすればいい。

今は分からなくても明日、明後日、明明後日。

いつか、分かるときがくればいい。



そう願いながら今言える唯ひとつの言葉を皇子の内に押し入れた。



「要らない子なんてね、どこにもいないんだよ」










取り戻したそれをそろりと撫でる
瞳に慈しむような色を湛えて
黒き衣を白い手のひらが辿る



「・・・今は、在るね」

「ああ」

「此処に、ある」





「・・・嬉しい」


心の声をそっと口に出してみた


『美味しいねー』
『可愛い〜』
『楽しいよ』


いつだってきっと真実の言葉を並べてきたけれど

心の隅には何時だって


『恐い』
『悲しい』
『辛い』





――『死ねない』





目を閉じて今までのことを思う

憂いと共に過ごしたあの日々は

苦しい想いと共にあったけれど



二度とは戻ってこない
宝 物


残ったものは確かにここにある




「みんなで旅をした」

「ああ」

「――楽しかった」

「ああ」

「ああ、ばっかり」


「ああ」


聞いてるの、とふわりと分厚い胸板に乗り上げれば金糸がそわりと黒鋼の頬を伝う


「くすぐってえ」


その無愛想にくすりとファイが笑むと、唇を一つ
返しとばかりに目蓋に落とされる


口づけを受ける彼がくすくすとあんまり幸せそうに笑うから

唇を離しもう一度唇を寄せてやる


もう一度 何度でも



産まれたばかりとは笑ってしまうごつい左手で

淡く色づいた薄膜を優しく撫でる




初めての

触れ合う感触が

君でよかった




キスを続けながら二人は言葉を交わし合う




「・・・春だな」

「うん」

「夏も来る」

「うん」

「秋は殊に紅葉の色合いがいい」

「うん」

「てめえもうんばっかじゃねえか」

「・・・うん」



「黒様」

「あ?」




「オレきっと、君を待ってた」





――だからキミが
教えてくれますか



オレに 日本という国を。






これから・・・命数尽きるまで